前回からのお話で、4世紀ヤマトタケルの神話が語り継がれだしたころ、吉備・讃岐を中心とした一団が大和盆地に入り、その後尾張・三河へと勢力を拡大していった。これこそが本居宣長が「古事記伝」でふれたヤマトタケルの死後、讃岐に白鳥となって帰っていった伝説であり、その証拠においらが住んでいる東三河にその讃岐の足跡がいくつか記されているのです。この不思議な讃岐と三河のつながりを列挙してみましょう。

① 宮道天神社の祭神、
建貝児王(たけかいこおう)の共通性

 東三河の入り口、豊川市音羽町赤坂にある宮道天神社は日本武 尊の第3子である
建貝児王をこの地に封ぜられたといいます。これが宮道別(みやじわけ)の祖であり、その子宮道宿禰速麿は「穂」の県主になり、その子孫が建貝児王を祭ったのが宮路山の山頂と麓にある宮道天神社の起源です。しかもこの建貝児王、他には讃岐の讃留霊王神社の2カ所だけに祀られているのです。

 「うたり」と「しののめ」いう地名

 先ほど記述した讃留霊王神社は讃岐の旧鵜足郡(うたりぐん)にあり、東三河の小坂井には菟足神社(うたりじんじゃ)という神社があり、同じ「うたり」という名前を持っています。また、讃岐の
鵜足郡勝浦邑には鵜足明神の祠があり、神櫛王の五世孫の篠目命を祀っています。実はこの篠目命に由来するであろう篠目という地名は西三河、東三河ともに存在し、西三河は安城市に篠目町があり、東三河の宝飯郡の雀部郷は、一ノ宮(砥鹿神社のことで、愛知県宝飯郡一宮町大字一宮)近辺を篠目郷といいその遺称地とされています。「うたり」と「しののめ」という地名だけでも讃岐と三河のただならぬつながりを感じざるをえないのです。
 そういえば菟足神社といえば、天武最晩年の朱鳥元年に平井の地から、現在地に遷座したと社伝は伝えています。遷座に関わったのは、秦石勝。菟上足尼は穂国に養蚕を広めた功績を高く評価されて、死後に神として祀られたといわれています。日本書紀の朱鳥元年八月一三日条は「秦忌寸石勝を土左大神に遣わし、幣を奉る」と載せています。また 書紀は天武は草薙剣の祟りにより病になったとしています 。「草薙剣が熱田神宮に収まる前には菟足神社に保管されていた」との伝承もあるそうです。この
菟足神社の祭神菟上足尼は犬頭神社の社伝では「丹波国から来た穂国造の葛城上足尼」となっています。真偽はわかりませんが、『古事記』に記載されている「兎上王」とする説もあります。また誉津別命の出雲神参拝に随行したのは、兎上王兄弟という兄弟でまさに菟上足尼とのつながりも感じますし、誉津別命といえば、ある日、白鳥が飛んでいくのを見て、初めて言葉を発した垂仁天皇の第一皇子ですよね。この誉津別命の伝承もヤマトタケルの白鳥伝説と重なり合ったところがあるとおいらは思っています。


 

菟足神社

御祭神:菟上足尼命
所在地:愛知県豊川市小坂井町宮脇2

由来:穂の国(豊川市の古称)←これもちょっとつっこみどころですけど
の国造であられた菟上足尼命は初め平井の柏木浜に祀られたが間もなく当地に御遷座になったそうです。
 4月の第二土・日に行われる風祭りは『今昔物語集』に紹介されているのですが、その昔は三河の国の国司大江定基(おおえのさだもと)が、風祭りでイノシシを生贄にされているのを見て無常を感じ、また、『源平盛衰記』七、『 三国伝記』十一では赤坂の遊女力寿という愛妾との死別し力を落とし、このため僧となり宋にわたったというお話です。この辺もまた別の機会でお話したいですね。

神紋がウサギのところが可愛いですよね。

本殿の中です。この左には巨大なウサギさんが鎮座ましましています。

どどん、可愛いでしょ

普段は静かな神社です。



③ 讃岐と三河の方言の共通性
 GWに香川県を観光して面白い共通性を見つけたのです。それを列挙しますと
「えらい」 苦しい
「どんきゅ」 泥鰌(豊橋ではどんぎゅといいます)
「きにょう」 昨日  きんにょうとも言います。
「~げな」讃岐だと「~のような」という意味で使いますが、西三河ですと「~だそうだ」という意味で使います。
「ちみきる」 ほんの少しを噛み切るといった意味、つねることは「ちみくる」と言います。
「わや」、無茶苦茶という意味、「わやになった」と使う。

もしかしたら関西弁と重なっているだけなのかもしれませんが、意外と讃岐弁と三河弁、共通した言葉があるんですね。しかも海人族つながりで熊野とかとも共通するのかとも考えたのですが、和歌山の方言とはあまり共通した言葉は無かったのが不思議といえば不思議でした。

④ 白鳥神社(香川県東かがわ市)の社伝によると 「成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王をして日本武尊の御子、武皷王に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる。神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり。」と伝わっているそうです。この「牟礼」という地名は巨石信仰地名の一つであり、三輪山の別名「三室山」もこの「ムレ、ムロ」という言葉から来ているといわれています。香川県の旧牟礼町(現在は高松市)には五剣山があり、東三河の豊橋の西側には「牟呂町」という地名が残り、古くから古墳が存在した古代の集落がありました。ここも石巻山、宮路山、本宮山、渥美蔵王山に囲まれたまさに神の山に囲まれた場所となっています。またこの「ムレ」という言葉は韓国語の「山」という意味から来たとも言われています。

 日本武尊伝承が作られたのが4世紀ごろのお話としましょう。その頃は尾張では白鳥塚古墳などの大きな古墳が作られまさにクニの様相を呈した集落が出来上がってきたところですね。
 
実はこれら4世紀の尾張の古墳で特徴的なことは、中社古墳や南社古墳から出土した円筒埴輪は三河地方にある和志山古墳(五十狭城入彦命陵墓)から出土した埴輪とほぼ似ている形をしていて、それらは大和盆地東南部系のまさに三輪王朝からの流れを汲んだ形となっているのです。
そしてその尾張と西三河にまたがる一族はおよそ50年から100年ほどかけて東三河へと進出しています。

 上図は三河地方の古墳と遠江、南信州の古墳を年代別に表したものです。其処から考えると4世紀末には西三河に大きな三輪王朝の流れを汲む古墳が築造されているのですが、実は東三河において最初に作られた円筒埴輪をもった巨大古墳は5世紀末の船山古墳(豊川市国府地区)まで現れないのです。しかし遠江には既に尾張をもしのぐ一大クニが磐田地区に存在していたことが、長年の発掘調査からわかっています。さらに南信州に関しても5世紀末になってようやく古墳が作られるようになるのです。一体このタイムラグはなんなのでしょう?4世紀に矢作の伝承で東の山に賊がいて、ヤマトタケルはそれを討伐した。この伝承がそのタイムラグを指しているのでしょうか?

岡崎の西にいた縄文の民

怪しい地名研究 パート1―郵便番号を使って日本地名の意味を探り、日本の起源を アイヌ語地名のロマンを全国に求めて 

の著者、烏野博文氏によると谷という漢字を「たに」と呼ぶか「や」と呼ぶかで、西と東に分かれるそうです。それで「や」と呼ぶ地名は縄文地名に属すといわれています。そう考えると岡崎の東側には、縄文地名と思われる地名が数多くあるのです。例えば「怪しい地名解釈」の中で、「さわ」「かわ」地名が東日本に強く偏在し、また共同体の意味と解釈しうる「わ(輪・沢・川・岩 など)」のつく地名も東日本に多い事から(すなわち縄文語)、元は「かわ・さわ」は地形を表した言葉ではなく、共同体を意味する言葉と考えた。「さわ」は「小さな村」「大きくはないが些かの村」。しばしば、「さわ」は支流にあるので、「かわ」は「上の村」だそうなのです。
 そう考えると、岡崎市と豊川市の境に長沢という地名と藤川というまさに縄文地名と思われる地名があるのです。またその東にある赤坂という地名も、その語源は縄文語(アイヌ祖語)の「アカサカ=aka-san-ke=屋根・坂(の)・所」であると推定されています。
(参照 知里真志保著 地名アイヌ語小辞典 )
 そういえば牛久保の旧名「とこさぶ」も由来はアイヌ語であるという話もありますよね。「トコサブ=to-kor-sap=水源としての沼のそば」という意味があるそうです。そういえば「とこさぶ」の地名、岡崎市の旧額田町の本宿にも「トコサフ」という地名はありますし、北設楽郡鳳来町にも常寒山(とこさぶやま)という地名もあり、西三河で西尾市には処寒と書いてとこさぶと読む地名もあります。
 このように岡崎市と豊川市の境付近には今も縄文地名が多数残っており、その民がいたことにより新しい巨大古墳を中心としたクニの進出を遅らせたというのが、岡崎に伝わるヤマトタケル伝承の真相だったのかもしれませんよね。

次回は白鳥伝説と白鳥という地名について考察します、。