この『勧酒(于武陵)』の訳は、あまりにも有名です。


 これについて、『ピカレスク』の「増補」、「『厄除け詩集』の粉本」で、井伏鱒二の種本を暴き、厳しく追及した猪瀬直樹も、この句についてだけは次のように書きます。


 「『作品』の七篇は丸写しではないが、瓜二つといえる。ただここで示した三篇目の「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」のフレーズだけは、『臼挽歌』から少し飛躍した感じに出来上がっている。普通の人が知っているのもこの部分、しかし考えてみると意味はよくわからない。正確な表現ではない。けれどなんとなくわかる、とのあいまい領域の表現が人口に膾炙した。井伏のルーズな部分がたまたま生きた、というほかはない。(『ピカレスク』文庫版526頁)


 また、高島俊男は、その『お言葉ですが』で次のように書きます。


 井伏訳は――これはもう一度行わけにしてかかげよう。

   コノサカヅキヲ受ケテクレ

   ドウゾナミナミツガシテオクレ

   ハナニアラシノタトヘモアルゾ

   「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 いや何べんくりかえして読んでも、すばらしいものですね。

 七五と七七の使いわけがみごとだ。第一句は七五で、切迫した悲しみをたたえる。膝で立って、こわい顔をして「さあ」と酒盃をつきつける感じである。第二句は七七、腰をおちつけて、やさしくあたたかい。第三句も七七、話頭を転じてしみじみ語りかける口調である。そしておしまいはまた七五で、これが人の世の常だ、とつきはなす。

 潜魚庵訳をふまえていることはたしかだが、各句ともよく原訳から離れている。離れたから成功したのである。ただしこれだけきれいに離れ得たものはほかにはない。(『お言葉ですが…』文庫版第7巻284頁)


 高島俊男の『お言葉ですが…』は、週刊誌、そして単行本と出版された内容に対して、いろんな意見が寄せられています。それを選んで、文庫版で[あとからひとこと]というのが加わるのですが、ここに次のように書かれます。


 「問題は後半だ。<「サヨナラ」ダケ>という発想と措辞の転換はどこから来ているのか。

 この件について、米子市の宮下喜代治さんが、寺横武夫教授の「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」(『国文学解釈と鑑賞』別冊)をコビーして送ってくださった。この名訳の出所を井伏鱒二自身が語ったものがあったのである。「さよならだけが人生」と言ったのは林芙美子であった。(以下略)」


 井伏鱒二自身は既に、『因島半歳記』で、「『左様なら左様なら』と手を振った。林さんも頻りに手を振ってゐたが、いきなり船室に駆けこんで、『人生は左様ならだけね』と云うと同時に泣き伏した。そのせりふと云ひ挙動と云ひ、見てゐて照れくさくなって来た。何とも嫌だと思つた。しかし後になつて私は于武陵の『勧酒』といふ漢詩を訳す際、『人生足別離』を『サヨナラダケガ人生ダ』と和訳した。無論、林さんのせりふを意識してゐたわけである。」と書いているのです。


 もう一つ、加えます。


 「素晴らしい詩ですよね。

 いいでしょう?『花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」

 いいよね。だけど、『さよならだけが人生だ』なんて、こんな淋しい言葉、どこから出てきたんだろう。うかがったんですね。僕。

 『どこからうまれたんですか、あの言葉』

 『あれはねー、因島ですよー』って。

 また、わけがわからないんですよ、こっちは。何が因島なんだべーって。

 よくうかがうと、

 『何かの講演旅行の帰りに、船で因島の近くを通りかかった時に、林芙美子さんがポツリとそういったんですよー』

(さだまさし『絶対温度』59頁 2001年)


 さだまさしが、井伏鱒二91歳の時、カセットブックの付録としての対談で出た話なのだそうです。


 私は、猪瀬直樹は『ピカレスク』あるいは、その「増補」を書く時、この『因島半歳記』を知らなかったと思います。その故に奇妙な文章を書く羽目になったのではないか、高島俊男は知らないで書いたが後に教えてくれる人がいて文庫版で書き加えることが出来た、と考えると、知らないで書くことの恐ろしさを痛感するわけです。


 井伏鱒二の数多くの評論を読んでも、1997年の山崎一穎『井伏鱒二の森鴎外宛書簡』を読んでいたら、まったく別の話になっているのにという感を強くします。「無理題」における、もう一方の正解(「らしきもの」)に気がつかない悲劇でしょうか。


 知っていれば、こんな文章を書くはずがない、知っていれば、こんな問題出すはずがない。世に、「無理題」がなくならない理由かもしれません。