"小林賢太郎君がパスして、竹原功記君に繋いだ"奇跡(後編)。 | ノーナ・リーヴス オフィシャルブログ「LIFE」Powered by Ameba

ノーナ・リーヴス オフィシャルブログ「LIFE」Powered by Ameba

ノーナ・リーヴス オフィシャルブログ「LIFE」Powered by Ameba

西寺郷太・奥田健介・小松シゲル NONA REEVES

(中編からの続き)

***

(9)見知らぬ BAR

 2013年3月18日、賢太郎は、彼の後輩で、エレキコミック・チームや、その他でも作家として大活躍しているジリ(川尻恵太君)と飲んでいました。時間は夜12時くらいだったでしょうか。僕が急遽途中で合流するため、メールで教えられた沖縄料理屋に行くと、彼らは既に支払いを済ませていました。

 賢太郎は言いました。「ジリは〆切でもう帰るらしいから、郷太ふたりで別の店に行こうよ」

 店を出て大通りを並んで歩き始めた時、賢太郎が眉毛の内側を上げながら、いつもいい声で言いました。「実は気になる看板をさっき見つけたんだよねー。多分、バーだと思うんだけど。『あれ、こんな店あったっけー?』って、さっきジリと言ってたんだよ」

 「どの辺?」「いやすぐそこなんだけど、確か・・・」賢太郎は少しきょろきょろして、店を見つけました。賢太郎といる時、店のチョイスは常に彼任せ。どちらも行ったことがない店というのは正直、ほんの少しだけ怖かったですが、だからと言って別の案があるわけでもないので「ええよー」などと言いながら、その店に入ってみました。

 そのバーは基本、カウンターのみ。1月中旬に開店したとのこと。40代前半の女性がひとりで切り盛りしているスタイルだったのですが、その時点では客は僕らふたりだけ。しばらく飲みながら話していると、彼女は目の前で僕が賢太郎に最新作「POP STATION」のCDを渡すのを見て、「あれ、もしかしてミュージシャンなんですかー?」というような質問をしてきました。

POP STATION/BILLBOARD RECORDS / 株式会社阪神コンテンツリンク

¥2,800
Amazon.co.jp

 「そうなんですよー。あ、これ新しいアルバムなんです。バンド名はノーナ・リーヴスっていうんですよー」などと返事をすると「え!?その名前は知ってますー!!」などと言ってくれました。店の構造上、ふたりでカウンターで話すと、どうしても聞こえてしまうので、ま、いいかと思い、僕は賢太郎との関係性も軽く説明したのです。

 店のムードも良かったので、僕と賢太郎は楽しく飲みました。

***

(10)佐藤さんとの再会

 数日後、僕のTwitterに、そのバーの女性から連絡が来ました。「郷太さん!!!ノーナのアルバム、聴かせてもらいました!最高です!何故今まで聴かなかったのか、というくらいハマってます!朝方、店を片付けて『休もう、ONCE MORE』聴くと癒されて・・・。で、驚いたんですが、デザイナーの佐藤嘉高君、覚えてますか?昔、ノーナのアルバムのデザインしたらしいんですけど、彼、私の長年の仲間で、この店の常連なんです。私がノーナにハマってるって話したら、彼が『久しぶりに郷太君に会いたい』って連絡とりたがってたので、また来て下さい」

 そのメッセージを見た時、僕はずっと悩んでもやもやとしていたアイディアが一瞬でまっすぐ繋がり、全身に電流が走りました。

「あ!!えええええ!!!!佐藤さんと・・・、このタイミングで、こんな偶然で、繋がるなんて・・・」

 佐藤嘉高さんは、2001年12月、ノーナが丸5年間在籍したワーナーでの契約を終える(かもしれない)というタイミングでリリースした「グレイテスト・ヒッツ/ブック・ワン」のデザイナー。佐藤さんのことは、当時僕らのディレクターだった、竹原功記君が紹介してくれました。

 2001年の秋、僕は竹原君、佐藤さんとミーティングを重ね、ノーナ3人のフィギュアを作ってもらい、それをジャケットに使うことに。確か、佐藤さんのアイディアだったと思います。僕と奥田と小松は全身くるくるとまわって無数の写真を撮影、それを佐藤さんの知り合いの造形家がフィギュア化してくれました。CDと3体を並べてみたり、レコード・プレイヤーに乗せてみたり、スタジオでの写真撮影もとても楽しかったのを覚えています。

***

(11)竹原君の想い出

 竹原功記君は、前編でふれた渡辺忠孝さんに代わって、ノーナを担当してくれた僕より2歳下の若手ディレクターでした。当時、25歳とかそんな感じだったはずです。トータス松本さんをもう少しフェミニンにしたような中々の男前で、何よりめちゃくちゃ優しい奴でした。神戸出身で、関西の大学を卒業後、ワーナーに入社。最初は大阪で宣伝担当だった竹原君は、一緒に関西のラジオ局をまわっている時、「制作がやりたい。ノーナ大好きだから、東京で郷太君と一緒に仕事したい」と言ってくれていました。

 彼が就任した2001年の間に、一緒に制作したCDは、三枚。シングル「アイ・ラヴ・ユア・ソウル」、リミックス・アルバム「チェリッシュ」、ベスト盤「グレイテスト・ヒッツ/ブック・ワン」。あとアナログ盤も数枚。

CHERISH ! NONA REEVES THE REMIXES/ワーナーミュージック・ジャパン

¥2,100
Amazon.co.jp

 お互い若かったことと、関西出身の竹原君が東京に引っ越してきて間もなく、いわゆる「友達」がそれほどまだいなかった時期でもあり、ずっと一緒にいた記憶があります。

 ちなみに、この最初のベスト盤は、ワーナーとの契約終了を「うっすら」と伝えられていた僕が「WARNER MUSIC YEARS」という名前をつけようとしていたところ、竹原君に「郷太君、完全に移籍するみたいやんー。テンション下がるし、やめてよー・・・」と懇願されたので、「やめてって、こっちが言いたいわ(笑)。俺かて、ずっとワーナーにいたいよ」などとぐちぐち言いながらタイトルを変えたものです。

 僕が気に入っていた「WARNER MUSIC YEARS」というタイトルは、10年後の2011年に復活することになります(中編参照)。もちろん、このネーミングには僕なりのこだわりがあります。結成当時から僕はノーナ・リーヴスとしての長い音楽活動を視野に入れていましたので、「レーベルで時代を区切る」というのは、ごく自然なことだったんです。

***

(12)ニュー・ソウル

 ノーナは2002年、コロムビアに移籍します。よりAOR、ソウル色、歌謡感を強めた「NONA REEVES」、少し原点回帰のギターポップ感を復活させ、AOR路線とミックスした夏のアルバム「SWEET REACTION」と、二枚のアルバムを作りました。2004年に二年間の契約が終了。

 2004年1月から2月にかけて(ちょうど10年前の今頃ですね)、僕は後に「THE SPHYNX」というタイトルの8枚目のアルバムに繋がる楽曲制作を進めていました。その第一弾として、小林賢太郎君に依頼された「ペーパー・ランナーのテーマ」を作り始めた、ちょうどその頃でした。

 竹原功記君が、自らの運転する車で名古屋に向かう途中、高速道路上での交通事故で命を落としたのです。まだ、28歳の若さで・・・。

 レーベルを離れると、もちろん「いつも一緒に」いれるということはなくなります。ただし、コロムビアに移籍してからも、電話で近況を話したり、仲は良いままでした。

 彼は僕がワーナーを離れてから結婚していたのですが、奥さんに後で聞いたことによると「ワーナーで自分がヒットを飛ばせる力を持ったディレクターになって、郷太君、奥田君、小松君をもう一度呼び寄せる。また、ノーナと一緒に仕事がしたい」と口癖のように言ってくれていたそうです。

 ちょうどその時期に作っていた楽曲「ニュー・ソウル」の歌詞を、僕は竹原君に捧げて書きました。作詞に関しては、僕は「無」に命をかけている、と言ってもいいほど、制作者の感情をあまり入れない言葉達が好きです。なので、そういうことはほとんどしたことがないし、それ以降もほぼないのですが、この時は自然に「彼が大好きだった音楽」での追悼の感情が溢れて抑えられませんでした。

 依頼をしてくれた賢太郎は「30代のテーマソング」と、僕に言いました。しかし、28歳で亡くなった竹原君は「30代を迎えることが出来なかった」わけです。
 あの日以降、いつもライヴのたびに、後ろの方で竹原君がニコニコと見ているような気がします。

***

(13)THE BOX

 佐藤嘉高さんとは、一度しか仕事をしたことがありません。先述の通り、2001年の竹原君と作ったベスト盤です。

 エンジニアや、デザイナーというのはディレクターやプロデューサーとセットになって、僕は捉えています。「その人を推薦し、呼んでくる」という時点ですでに「ディレクション」なのです。なので、いくら有能な人でウマが合ったとしても、最初に紹介してくれた人がいないところで(了解をとらずに)勝手に頭越しで仕事をするというのは僕の中でルール違反。竹原君が亡くなってしまった以上、必ずその残像がつきまとうということもあります。「佐藤さんと仕事をすることはないかもぁ」と思っているうちに、12年の日々が過ぎていました。

 今回の「20世紀のノーナ・リーヴス」企画。6枚の初期作品が再発されるにあたり、ボーナストラックとして、当時のシングル、EPのカップリングや、デモ、ライヴ、ベスト盤のみに収録された楽曲もぎっしりそれぞれのアルバムの後半に入れました。なので、わざわざ「ベスト盤の再発」をする、ということは考えられません。つまり、続々と再発されていくなかで、あのデザインだけは「宙に浮く」わけです。

「あ!!!!」

 賢太郎が突然入ったバー、そのバーの常連が、あの佐藤嘉高さん・・・。テラちゃんから「郷太君、BOX作ろうよ」と言われた時何故気がつかなかったのか。ただ、こんなタイミングだからこそ、もう一度佐藤さんに連絡がとれる!

 数日後、そのバーで佐藤嘉高さんと僕は12年ぶりに会い、飲みました。

「佐藤さん、昔過ぎて、あのベスト盤の当時のデザインのデータとか、残ってないですよね?」と僕が恐る恐る聞くと、「ハードディスクに全部残してあるよ、大丈夫」と力強い返事。

「実は6枚のアルバムを今度再発するんですが、BOXを作ろうというアイディアがあるんです。佐藤さんもう一度あのデザインで、作ってくれませんか?初期の作品を収納するのは、あのベスト盤のアートワークじゃないといけない気がするんです。竹原君と一緒に作った想い出が詰まってるんで・・・・・・」

「もちろん!また彼が会わせてくれたんじゃないかって、思うなぁ。頼んでくれて嬉しいよ!こちらこそありがとう!」

 ということなんです・・・。タワー・レコードで「ヒッピー・クリスマス」のライヴ盤3枚、そして初期6枚のアルバム、計9枚のうち、三枚を買うとBOXがもらえる、ということになってます。争奪戦になっているようで、最初の制作分はもうなくなりそうで、ヴィヴィッド・サウンドに再プレス(BOXの)を頼んでいるほど、素敵な作り。

 僕も本当に誇らしく、嬉しい気持ちで、今、机の横にキュッと6枚のアルバムを入れたBOXを飾っています。

 読んでくれた皆さん、ありがとうございます。



(終わり)