■ユースチームの「10番」がやってのけた大仕事

8月7日第3節横浜FC対水戸戦、クラブ史上最年少出場を果たしたユースチームの「10番」が大仕事をやってのけた。

試合2日前にトップ登録されたユース所属の小野瀬康介は、いきなり水戸戦でベンチ入りを果たすと、0対0のこう着した展開の中、81分にピッチに送り込まれた。そして、後半アディショナルタイム7分、右サイドでボールを受ける。89分に右サイドを突破してクロスからチャンスを作っている小野瀬は「相手はクロスを警戒していると思った。次は中への仕掛けが効くと思った」という18歳とは思えぬ冷静な判断により、ダイナミックなドリブルでペナルティエリアに侵入。慌てて対応した相手DFに当たりボールは流れたものの、走り込んだ野崎陽介が豪快に右足でゴールにたたき込み、劇的な勝利を手にすることとなった。

「自分で(ゴールを)決めたいと思ったけど、チームのためになったのでよかった」と試合後、満面の笑顔を見せた小野瀬。彼の存在こそ、6年前にクラブが起こした“育成革命”の賜物なのである。

「これから横浜FCの育成を変えていきますから、期待していてください」。
06年、育成統括兼ジュニアユース監督に就任した浮嶋敏(現湘南ベルマーレコーチ)はそう口にした。

■育成元年に入団した小野瀬

それまで横浜FCにはジュニアユースチームはなく、横浜FC鶴見ジュニアユース(現在も存続)、泉ジュニアユース、瀬谷ジュニアユース、相模原ジュニアユースといった神奈川県内の複数の地域で外部組織に運営を委託していた。だが、06年を「育成元年」と銘打ち、正式にジュニアユースチームを立ち上げ、ユースと一貫した指導をすることで育成面の強化を図った。

その第一期生が小野瀬の代なのである。

全国レベルの高校やクラブチームが乱立する都心の中で新興勢力である横浜FCが育成を強化するのは至難の業であった。実際、選手の獲得についても、「他のチームを落ちた子ばかり」(重田征紀ユース監督)という現実が立ちはだかった。

特に目立ったのはフィジカルの差だ。「ウチのジュニアユースは体の小さい子が多く、そこではまだ差があるなと感じます」と重田監督が言うように、フィジカルの強い選手はジュニア年代では目立つため、強豪チームに行ってしまう傾向がある。それゆえ自然と横浜FCは小柄な子が多く集まることとなった。そのギャップを埋めるべく、足元の技術と動きの質を徹底的に磨き、フィジカルに頼らないサッカーをチームのカラーとした。そして、6年という長いスパンで育成を図ることで、周囲の強豪チームに対抗しようとしたのだ。

当然、チーム発足当初は敗戦を重ねた。しかし、それでも「元年」ならではメリットがあった。それは、上級生がおらず、1年生からトップの試合に出場し、上級生相手に試合を重ねることができたことだ。1年生から実戦経験を積んだことで選手たちは成長を遂げていき、徐々に試合に勝ち始めるようになっていった。09年にはFW西田子龍(現ユースチームFW)がU-15日本代表候補に選出。クラブ史上初めて育成チームから「代表」に選手を送り出すこととなったのだ。

■発足から3年で日本クラブユース選手権に出場

さらに09年、発足からわずか3年でクラブ史上初となる日本クラブユース選手権(U-15)に出場し、ベスト8進出という快挙を成し遂げた。そして翌年には、MF羽毛勇斗(現ユースチームMF)がU-16日本代表に選出され、モンテギュー国際大会に出場を果たすなど、チームも個人も順調に階段を駆け上がっていった。

今夏に開催された全国クラブユース選手権(U-18)に出場した横浜FCユースは、1勝1分1敗で予選敗退となった。しかし、準優勝を果たしたヴィッセル神戸U-18と互角の戦いを演じるなど、「積み上げてきたものが力となりつつある。どこのチームと戦っても力の差がなくなっている」と重田監督が言うように、全国トップレベルのチームと紙一重のところまで進化を遂げていることを証明した。