鳥取城 [前編] 二ノ丸の高石垣は意外と緩やか

鳥取城は歴史上何度も激戦の舞台となったことで有名。元々はこの地域を領していた山名氏の城だったが、その後 毛利氏と尼子氏(山中鹿介)による争いの場となり、信長による毛利征伐が始まると秀吉と毛利氏との戦いの場となった。特に秀吉軍による第二次鳥取城攻めでは過酷な兵糧攻めが行われたことで有名。江戸時代になって池田氏が近代城郭に改修した。建物は極一部を除き明治にほぼ破却されたが、二ノ丸・天球丸などに立派な石垣が多く残る。鳥取市では30年と50億円以上の予算をかけて幕末期の鳥取城を復元するプロジェクトを2006年より実施中。

鳥取城<基本データ>
●名称: 鳥取城(別名 久松山城)
●所在: 鳥取県鳥取市(マップ
●築城: 山名氏?
●竣工: 16世紀前半
●遺構: 石垣、曲輪、天守台(山上の丸)
●情報: 鳥取県観光案内HP

[360°パノラマ] 鳥取城 天球丸巻石垣 公開中。(要Flash対応ブラウザ)

<訪問記>

鳥取城跡には北御門、中ノ御門、南御門と3つの入口がある。当時の大手道は中ノ御門だったが、ここは現在復元工事中(H30年完成予定)、現在の観光ルートとしては北御門跡から入るのが一般的なようだ。

tottori-8129北御門跡に通じる、内堀を渡る橋。奥に見える山が久松山で、ここに中世の鳥取城および近世の詰城があった。山頂には曲輪や天守台などが残るという。(途中まで登ったがトラブル発生のためやむなく断念)

tottori-8129a-8279内堀の様子。鯉がたくさん泳いでいる。石垣には犬走り的な構造があった。端の方は埋め立てられてしまっているようだが、大部分はほぼ残っている。

tottori-8130a-8284正面に見える切込ハギの整然とした石垣が北御門跡。左側には「鳥取城跡附太閤ヶ平」(とっとりじょうあと つけたり たいこうがなる) という石碑がある。国指定史跡として、鳥取城跡だけでなく、秀吉の鳥取城攻めの際に築かれた付城(前線基地)も含めて史跡指定されているため、パンフなどもすべてこの表記になっている。

tottori-8134登城道をまっすぐ突きあたりまで。途中右側に大正ロマンな建物が見えるが、ここは鳥取城とは関係が無いので後で寄ることにして、まずは鳥取城跡を見る。早速正面にすごい石垣が見えてきて大興奮。しかしまっすぐは上がれないようだ。

tottori-8135近世城郭としての鳥取城 説明板。昭和18年の鳥取大地震で石垣が大幅に崩れ(→修復済)、また昭和50年の突風で唯一の現存門だった中仕切門が倒壊(→修復済)したようだ。

tottori-8140こちらが先ほどの説明板にも記載があった中仕切門。後の控柱の上に小さな屋根が乗る、高麗門だ。昭和50年に惜しくも突風で倒壊したがすぐに再建されたという。

tottori-8142石垣の上には、中仕切門からではなく、一番はしっこから順々に見て行きたいので、反対側の道(西坂)を進む。ガイド氏曰く、道の左側に見える10段ほどの石段は、なんとここがその昔 野球場だった頃の名残(外野席)だとか。

tottori-8143突き当りまで行くとぐるっとヘアピンカーブを描いて上へと続く。突き当たりに看板が立っている。

tottori-8144突き当たりの看板。なんとこの坂をヘアピンカーブで登るのではなく、直進するルートが昔の大手道だったという。目印のロープをつたっていけば…とあるが、見たところ草ぼうぼうでロープは見当たらなかった。ガイド氏もこのルートは全くオススメしないとのこと。

tottori-8146坂道をあがっていくと、高石垣の壁が現れる。この上が二ノ丸にあたるようだ。ちょうど街灯の柱と石垣の角が重なってしまったので街灯の横から石垣を撮り直し↓

tottori-8149二ノ丸高石垣の下から見上げる。見ても分かる通り、結構緩やかな角度で積上げてある。野面積みだが角は算木積みでビッチリキレイに削り揃えてある。はらみもなく美しく積んであるが、昭和初期に地震で二ノ丸の石垣は崩壊…とあったので、そのときに積み直したのだろう。

tottori-8151二ノ丸の上へ。いきなり山の斜面に向かって伸びていく石垣。登り石垣だ。登り石垣は山の斜面に築かれていることが多いが、こんな平面から上まで続いているパターンは初めて見た。

tottori-8153二ノ丸。かなり広い。奥に更に高い櫓台も見える。

tottori-8153a-8155二ノ丸跡 説明板。今はだだっ広い広場だが、当時は真ん中に大きな藩主屋敷が建っていたようだ。

tottori-8154二ノ丸から二ノ丸の櫓台を見る。二ノ丸の石垣はそこそこ緩やかな角度で高石垣を積上げてあるので、櫓台はさぞすごいことに…と思ったら、櫓台部分は下に別の曲輪があって、その上に積んであるようだ。角度は二ノ丸より急で、隅の石の切り揃えっぷりが半端ない。

tottori-8159二ノ丸の山側には石材がゴロゴロしているエリアがあった。石切り場と書いてある。

tottori-8160石切場 説明板。なんと二ノ丸は元々 久松山の尾根で、ここを大幅に削って平坦地にし、出てきた石をそのまま石垣にしたとか。石切場跡は結構あちこちに残っていたりするが、二ノ丸の藩主屋敷の裏にすぐ石切場があるケースは初めて。

tottori-8161続いて櫓台の方へ。大きな櫓台は二ノ丸三階櫓台だったようだ。まずは三階櫓の角石に奉行や棟梁の名前が彫ってあるのが見つかったという。

tottori-8162こちらがその名前が刻まれた角石。中央の割れ目の右側に文字が彫ってあるのが見える。

tottori-8162a-8165こちらが二ノ丸三階櫓台。この上に三階櫓が建っていた。二ノ丸の一番外側に一段高く積まれているので、城外から実に目立ったことだろう。鳥取城の天守は山上にあったが1692年に落雷で焼失し、その後はこの二ノ丸三階櫓が天守代わりだったというのも頷ける。

tottori-8164三階櫓跡 説明板。惜しくも明治12年に解体撤去。

tottori-8165a-8163二ノ丸三階櫓台の横に立っていたもう1つの説明板、三階櫓石垣の修復について。昭和18年の地震で石垣が各所で崩壊、戦中ということもあってかそのままになっていたようだが、昭和32年に史跡指定されると昭和34年にまずこの三階櫓の石垣が修復されたという。江戸時代と同じ技法で全工程人力で行い、なんと工期7年!

>> 鳥取城 [中編] に続く。<<

訪問時期:2014年3月
____________________
この記事が良かったら人気投票に投票してね。
> > >  投票する!  < < <
日本ブログ村 - 歴史ブログ
バナー(上の画像)をクリックすれば投票したことになります。
このブログの順位は投票先の画面で見られます