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発達障害一家・5人揃ってアスペ+ADHDだからできること

寄り道話・診断名について

2017.06.29 00:35


我が家の子供たちや私自身には 医師が出した「診断名」がそれぞれあります。

それがまぁ 揃いも揃って「自閉+ADHD」なわけですが。


だからと言って 全く同じなわけでは

もちろんなくて。


とりあえず三人息子並べて見ても その印象はかなり違います。



私のところに寄せられるメッセージに多いのは


「精神発達遅滞ってどこからですか?」

「うちの子はこの先 能力が伸びるんでしょうか? それとも知的になるんでしょうか?」

「知的だと 自閉より知的のが問題として大きいですか?」

「この子は知的なだけなんでしょうか?」



・・・というような内容で

皆さんやはり気になるのは 「精神発達遅滞」です。


ここからは キツい表現が多くなります。

立場的に 私がこのことについて掘り下げることは 適切ではないのかもしれないし 反感を買うかもしれません。


ですが 毎度のことながら 私の主観と価値観と経験から思うことを書きます。

就学の記事同様 直接的な表現も多くなりますし 数値にも触れます。

精神状態が良くない方や この手の話が苦手な方はスルーして下さい。



1.精神発達遅滞があるか・ないか その意味とは



現実問題。

「精神発達遅滞があるかないか」

というのは 他の発達障害があるかないかとは明らかに違うハードルがあると 私も思います。


全体的な能力が高ければ 乗り越えられるステップも

遅滞がともなうと乗り越えられない場合があること。


それが 社会で仕事をして生きて行くことが難しくなる最低限のハードルであるから です。



凸凹があっても 全体的な能力がある程度の水準に達していれば

二次障害を起こさなければ 自分の力で社会で生きて行く方法は必ずあります。

(凸凹の凸を生かして 凹をフォローしたり SSTを身につけたり・・・etc)


でも 遅滞が伴うと そうは言い切れない


だから 綺麗事ではなくなります。

(だからと言って 他の発達障害なんか問題ない という意味合いではありません。 比較対象の問題としてご理解下さい)



ある友人が昔 こういった表現をしたことがあります。


「障害がある ということは 限界が見える ということなんだと思う」


ある種の的を得た表現だと思いました。

彼女のお子さんも やはり発達障害児です。



私自身 三男の最初の発達検査の数値を見た時 ショックがなかったと言えば嘘になりますし

その数値が標準域に入った時 ホッとした気持ちがあったのも事実です。


それがこの先変化し また遅滞域に入る可能性があるとわかっていても。



診断名 をつけるには それぞれの障害にその基準と定義があり

それに「当てはまった」場合 診断名がつく。


精神発達遅滞の場合は その定義は発達検査検査で出る「IQ」(または「DQ」) 「のみ」 であり

単純明快と言えばそうであることが逆に 振り回される理由としてもあるのかもしれません。



私のところに疑問を寄せる方々で 精神発達遅滞に関して寄せられる方は皆さんは、

「この子は1人で生きていけるのか?」

という不安を根っこに持ち


「精神発達遅滞であるなら無理かもしれない」

と思っているんだろう と思います。


それ自体は 親であれば当たり前の気持ちで

障害児を持つ親が必ずぶつかる壁です。



そして 私にそういった疑問を寄せるということは 8割方 「軽度もしくはボーダーであろう」 と。


不適切な言い方かもしれませんが

わかりやすく遅滞であれば 受け入れていくしかなく

「どうなんでしょう?」「どうなるんでしょう?」というコトは 良くも悪くも「迷う余地かある」 というコトです。


「余地がある」ということは 「確定ではない」わけで 「可能性がある」わけですよね?



だからといって もちろん楽観視はできないし 先のことなんてどうせ誰にもわからないし

「これをやれば必ずこれができるようになる」なんて 魔法みたいな療育もありません。


全ては結果論で

遅滞に限らず できることを一つずつやって

見守っていくしかない。


それも現実。


でも 少なくとも 「可能性はある」んです。



2.診断名は変わる。成長に沿った判断の大切さ



そう言った意味で 「診断名」というのは 変わる可能性も充分あり

以前の記事でも書いているように

就学前のお子さんであれば その可能性は小学生より高い。


数値を見れば 限りなく遅滞にも標準域にも近い 60~80辺りのお子さんであれば 3年後にどうなってるかはわからない。



数値的に微妙な領域のお子さんに関して 「精神発達遅滞」という診断名がつかない理由はここだと思います。



明らかに遅滞を伴うお子さんであれば

取り捨て作業的に 先を見据えてしなければいけないことがあるのも確かだと思いますが

早い時期に遅滞として診断することは 可能性を狭めてしまう恐れも大きい


それ故に あえて「曖昧」にしておく。

そういった判断をする医師が多いのではないか と考えます。



じゃあって逆に

遅滞は横に置いといて 他に見られる症状に焦点をあてて診断をつけても

それに対する対応が必ずしも効果的であるとも限らず。


「変化」というのは 能力の変化に反映して起こることも確かですが

そうでないところでも起きるわけで。


広い意味で 幼年期 というのは 「発展途上」であるということ。


遅滞に限らず 「傾向」として留めて様子を見る医師も多いです。



診断名にこだわらず その成長と共に 行く末を見守る。

もちろん できることを一つずつ 子供と共に歩みながら。


小学生になってからでも 「子供」である以上は その姿勢は基本同じだと私は考えます。

今ある姿が「完成」でもなければ 「結果」でもありません。


どうせ人生は死ぬまで続くし

たとえ緩やかになったとしても

人間というのは 常に成長する力を持った生き物です


障害 として 診断名がハッキリしてくるのは 小学校の高学年辺りかな とも思います。


何度も出てくる話ですが

脳の発達が落ち着くのが10~12才くらいであることから

その頃の能力 というのがその後大きな変化を起こすことは比較的少なく

凸凹があるタイプのお子さんだと そのグラフの形・・・得意・不得意 その他の特性も あまり変わらないそうです。


全体像として「落ち着く」っていう感じ。


なので そこからはさらに

本人に合ったやり方や工夫が効果を発揮します。



思春期を迎え

自分と向き合い 他者と比べ 評価を下し 飛躍して行くこの頃の子供は 嫌でも自分の中のものに気づいていく。


そこで自分を受け止め 前に進むために努力するためには 己の障害とも向き合わないわけにはいかなくなってくる。


その時には 障害によってある程度の導き方の指針として 診断名というのは道標として大きな役割を果たすこともあるでしょう。


ですが まだ幼い幼年期~学童期は

枠の中にはめることよりも 本人の可能性を最大限まで広げてやることの方が大切だし

どうせ流動的なその形を捉えようとしても捉えきれない側面も大きいように感じます。



3.医師が診断名をつけない理由。大切なことを見逃さないために。



ここ何年かで 「広汎性」の診断を受けるお子さんが多いのも

専門家たちの そんな気持ちの表れなんじゃないか・・・と。


「この子は自閉症」「この子はADHD」「この子は精神発達遅滞」 と分けて 目に見えるものだけにこだわり 本人を見失ってしまわないように


定義から外れているものがあっても

見えないからって弾くんじゃなくて 受け止めて行く。



どこに所属してたって どこに所属するのかわからなくたって

発達に困難があることには間違いないじゃないか と



そんな意味合いで 「広」なんじゃないかなぁ・・・


もちろん 線引き は 線を引く意味があるから存在するわけで

確かにそこに差は生じます。


親である以上 わかっちゃいるけど 「我が子は何者なのか」と 思うのも当たり前です。

私だって思いました。



だから本当は この記事みたいなことを・・・

客観的に 説明したりとか。


「今こういう感じなんで この先はこうかもしれないしこうかもしれませんよ」的に

一つ掘り下げて話してくれる医師が もう少し増えればいいのになぁ とも思いますが



やっぱり

現実って 厳しいじゃないですか。


希望もあるけど しんどい現実もいっぱいあるじゃないですか。


だから

曖昧にしないと 親御さんだっていきなり全部がっちり抱え込んだら倒れるじゃないですか


医師が言葉を濁すのは 「思いやり」も そこに沢山詰まってるんですよね



なのにいきなりぶった斬るような記事を書いて申し訳なかったですが

一つ。


視野が広がって 何かが見えた方がいたらいいな

と願いつつ。



○  猫ママ