Okinawa 沖縄の旅 Day 48 (18/09/19) Tsukazan 津嘉山

Touteiku 土帝君
Tobi Asato First Flight Monument 飛び安里記念碑
Takatsukasan Utaki 高津嘉山御嶽
Ichiki Utaki ヰーチキ御嶽
Ichi Utaki イーチ御嶽
Teruya Nun Dunchi 照屋ノ口殿内
Teruya Stone Lion B 照屋の石獅子 B
Teruya Stone Lion A 照屋の石獅子 A
 Otobu Stone Lion 本部の石獅子
Ijuin Ga イジュンガー
Ufui Bashi Bridge 宇平橋碑
Former Keibin Railway Yamakawa Station 軽便山川駅跡
Haebaru Army Hospital南風原陸軍病院壕
Foods Path 飯上げの道

Touteiku 土帝君

土帝君 (とぅーてぃーくー) と呼ばれるものは県内の各地数ヶ所にあるらしい。昨日、佐敷でも見かけた。土帝君は琉球の土着のものではなく、大嶺親方鄭弘良 (うふんみうぇーかたていこうりょう) が1698年に中国から持ち帰り、この地に祀ったと言われている。農業と五穀豊穣の神で、その他にも大漁祈願や魔除けの信仰対象になっている。祠の中に土帝君の人形が入っている。

Tukazan 津嘉山

今日は時々雨予報。5km程行った所の南風原町の字津嘉山を散策。雨が強くなっても、半時間程で帰って来れる。強い雨にならなければ良いのだが。他の地域と同じで史跡は昔からある御嶽と水場や井戸跡が多い。御嶽も小さな石を祀っているところばかりで、観光客が行くところでは無いだろうが、多くの御嶽を巡り、沖縄の人にとって、御嶽信仰が彼らにとっていかに大切で、生活の一部になっていた事がよくわかる。日本の地蔵とか道祖神信仰に近い様な気がする。

Tobi Asato First Flight Monument 飛び安里記念碑

コザの十字路絵巻にも描かれていたのだが、琉球王朝のお抱え花火師だった越来出身の安里周富は「飛び安里」と呼ばれ、1780年頃に、仕立森 (したてむい 現津嘉山小学校) やこの記念碑が建っている。高津嘉山まで羽ばたき式飛行機で、150-200mぐらい飛んだそうだ。1780年と言えば、江戸時代で明治になる90年ほど前の事、ライト兄弟が初飛行を成功させた年より100年以上も前になる。飛び安里は王朝のお抱え花火師だった事で、比較的裕福だったそうだ。その資金があったからこそ、夢を追いかけられたのかも知れない。この飛び安里の子孫に伝わっている話によると、当時の朝貢は海路で明や清に旅をしていた。常に遭難や倭寇の危険が伴っていた。それでは空路で行けば良いと考えた事が動機だったという。どこまで真実か分からないが、中国まで飛んで行こうとしていた夢を追いかけていた事は凄い。変人と思われただろうが、彼にとっては楽しい人生だっただろう。この様な人がいた事は嬉しい事だ。何かに興味を持ち追求し続ける姿は、他の人を勇気づける。南風原町役場に1/2スケールのレプリカがある。残っていた設計図を基にして作ったそうだ。実際に復元して飛行実験をやり、数十メートルの飛行に成功したそうだ。やはり飛び安里も成功していた事は間違いないだろう。240年も経って、現代人までワクワクさせるとは....
津嘉山の御嶽をいくつか訪れた。雨が強くなり道路の高架下で何度も雨宿りしながらの散策。長く旅をしていると雨は避けれない。雨予報の日は走りながら、雨宿りが出来る場所を確認しながらなので、今は雨でも全く気にならなくなった。一日中外にいるので、そんな生活の知恵がついてくる。ほとんど浮浪者に近くなったのかも知れない。

Takatsukasan Utaki 高津嘉山御嶽

Ichiki Utaki ヰーチキ御嶽

Ichi Utaki イーチ御嶽

Teruya Nun Dunchi 照屋ノ口殿内 (てるやぬんどぅんち)

照屋集落を守護している神々が祀られている

Ijuin Ga イジュンガー 

この村の共同井戸跡で今は埋め立てられて、公園になっている。
石獅子も4つ残っており、そのうち兼城 (かねぐすく) の石獅子は先日見たので、残り3つの石獅子を見てみる。どれもコミカルな顔立ちだ。左から本部 (もとぶ) の石獅子で八重瀬に対するフーチゲーシ (邪気返し) の目的で造られたと伝えられている。三山時代には八重瀬は強力な按司が周辺の按司を頻繁に攻めていた事で恐れられていたのかも知れない。右二つが照屋の石獅子でこれは先程の本部に向けられていた。本部と照屋は水の問題でしばしば争いがあったと伝えられており、お互いの牽制のために石獅子を設置していた。この石獅子の方向で、当時に村同士の関係が分かるのは面白い。村がそのまま字になって残っている点も面白い。

Ufui Bashi Bridge 宇平橋碑

第二尚氏 第11代 尚貞王の時代 1690年に王府が建てた橋の石碑。碑は沖縄戦にも耐えてそのものが残っており、漢文で書かれている。橋自体は沖縄戦で破壊されて新しい橋が架けられている。川へ降りる階段は古い石でできており、当時から残っているのだろうか?

Former Keibin Railway Yamakawa Station 軽便山川駅跡

宇平橋碑のある所は、軽便鉄道の南に向かう糸満への路線にある山川駅跡だった。

Haebaru Army Hospital南風原陸軍病院壕

南風原町の字喜屋武にある黄金森公園に向かう。ここに行く理由は一昨日、糸満市にあるひめゆりの塔に行った時に資料館でひめゆり隊についての展示で、この黄金森でも奉仕をしていた事を知ったからだ。昨日の資料館にはショッキングな胸が痛む展示や映像が多くあった。これほどの悲惨さとは思わなかった。ここにはひめゆり隊が首里で活動していたが、米軍の進攻でこの南風原町の黄金公園内の陸軍病院に移って来て補助員として働いていた。

Foods Path 飯上げの道

“命懸けで食料を運ぶ過酷な道” 沖縄戦で、ひめゆり学徒隊が利用した飯炊き場から陸軍病院壕まで山道を「飯上げの道」と呼ばれていた。大量の砲弾が降り注ぐ中、二人ひと組で足元のおぼつかないまま食料を担いで上がる。多くの生徒が命を落としたこの道も整備され今では一部を残すのみとなっている。登りはロープで進むような滑りやすく急な坂だった。これが一部なので、当時は、まだ15-19才の少女には思い食料を抱えて過酷だっただろう。
飯上げの道をおりたところにも病院壕があった。内部見学ができるようだが、今日は休館日で中はみれなかった。前の広場に慰霊碑がある。石碑に当時医師として働いていた人の詩が書かれている。胸が痛む内容だ。
少し沖縄戦の悲劇の爪跡を見た後は、重い気持ちになる。帰り道に少し心が和む物に出くわした。緑のカタツムリ。赤ちゃんカタツムリは2ミリほど、少し大きくなったのは5ミリぐらい。緑のカタツムリは初めてだ。これはアオミオカタニシ (Leptopoma nitidum) という種類で南西諸島 (奄美群島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島) 及び台湾、パプアニューギニアに生息している。見た事がないのは日本本当には生息していないからだ。沖縄方言ではオールーチンナンという。(オールーは青い、チンナンはカタツムリ) この青いカタツムリを見ただけで、気持ちが明るくなる。

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