業界に痕跡を残して消えたメーカー 世界最初のIBM-PC互換機メーカーCOMPAQ

文●大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/) 編集●北村/ASCII.jp

2016年08月01日 11時00分

前回取り上げたDECを買収したのが、今回紹介するCOMPAQである。同社の設立は1982年、創立者はRod Canion、Jim HarrisとBill Murtoという3人の元Texas Instruments(以下、TI)のエンジニア(当時はいずれも中間管理職)だ。

世界最初のIBM-PC互換機メーカー
COMPAQ

3人は1981年末にTIを退職、IBM-PCの互換機ビジネスに乗り出す。Canion氏がCEO、Harris氏がSVP of Engineering、Murto氏がSVP of Sales&Marketingを担い、会長職には同社に最初の資金提供を行なったベンチャーキャピタルのBen Rosen氏が就いた。

左からCanion、Harris、Murto氏。手前にあるのがCOMPAQの最初の製品であるCompaq Portable

ちなみに同社の最初の名前はGateway Technology, Inc.で、これを11月にCompaq Computer Corporationに改称している。

最初に同社が手がけたのは、ポータブル機である。下の画像が最初の企画イメージだそうだが、Osborne 1や、Kayproを連想させるものがある。実際構成としては近いものがあるが、大きな違いはIBM-PC互換機だったことだ。

創業直後に、TIを少し前に退職した工業デザイナーのTed Papajohnに依頼して描かれた最初のデザインスケッチ。これを持って3人はファンドを回って出資を募ったそうだ

日本国内の発表会で展示されたCompaq Portableの実機

実はCOMPAQは世界最初のIBM-PC互換機メーカーである。キーになったのはROM BIOSである。ご存知の通り、IBM-PCはマイクロソフトが提供するMS-DOSが走っていたが、そのためにはMS-DOSに対応するBIOSを実装する必要があった。

この当時のIBM、というよりIBM-PCの設計・製造に携わっていたESD(Entry System Division)の長であるDon Estridge氏が凄まじかったのは、IBM-PCのすべての設計図はもとよりBIOSのソースコードまで公開していたことだ。

拡張ボードやソフトウェアのメーカーは、この公開された情報を元に、きちんと動作する拡張カードやソフトウェアを作成可能だった。

ちなみにこれを収めたのが通称Blue Bookで、日本でも購入できた。実際筆者も一度、IBM-PC/AT版を購入したことがある。

問題は、公開されているとはいえ、BIOSのコードは著作権で保護されているため、このBIOSをそのまま使って互換機を作ることはできなかったという点だ。これを行なうためには、Blue Bookに頼らずにIBM-PCのBIOSと互換のBIOSを自身で作る必要がある。俗に言うリバースエンジニアリング、という技法である。

リバースエンジニアリングは、クリーンルーム手法という、元のBIOSを解析するチームと、解析結果を元に新規のBIOSを作るチームを完全に分離し、かつ解析結果が合法である(元のBIOSコードが含まれたりしない)ことをきちんと担保する手法を利用すれば、法的にはまったく問題ない。

ただし、手間と時間がかかるため、当時リバースエンジニアリングに乗り出したメーカーは非常に数が少なかった。その最初の会社がCOMPAQであり、次いで後にBIOS専業メーカーであるPhoenix Technologyが続く。

COMPAQは互換BIOSを自社製品にのみ採用したが、Phonenix(その後にはAmerican Megatrends Inc.やAward Software International Inc.などいくつかメーカーが出てきた)は自社のBIOSをさまざまなメーカーに拡販した結果、IBM-PC互換機という市場が急速に立ち上がることになった。

さて話を戻そう。COMPAQはこの互換BIOSの開発に成功、11月にCompaq Portableをニューヨークで披露し、翌1983年1月に最初の250台の出荷を開始した。価格は2995ドルで、同時期に登場したカナダDynalogic社のHyperion(4995ドル)に比べると手ごろで、しかもきちんとMS-DOSが動作したため勝負は明白だった。

DynalogicのHyperion。4.77MHzの8088に256KB RAM、FDD×2という構成。一応MS-DOS(正確に言えはMS-DOSをカスタマイズしたH-DOS)が動作したが、BIOSの互換性が十分でなかったようで、MS-DOSアプリケーションとの互換性がかなり低かった

この年、経営陣は1983年中に1億ドルの売り上げを立てるという目標を立てたが、結果は1億1100万ドルと目標を上回る成績を上げた。

リスク覚悟でCPUをウェハー単位で購入

Compaq Portableに続き、COMPAQは技術力を武器に「IBMより優れた互換機」を提供することで着実にシェアを増やしていく。1984年6月には、初のデスクトップであるCOMPAQ DeskProを発売する。

IBM-PCやIBM-PC/XTが、いずれも外部バス8bitの8088を4.77MHzで駆動していたのに対し、DeskProは外部16bitバスの8086を8MHzで駆動しており、ずっと高性能であった。

COMPAQ DeskPro。ちなみに当時、動作周波数が4.77MHzであることを前提に動作するソフトウェアがあった関係で、DeskproにもNormal(4.77MHz)とTurbo(8MHz)を切り替えるスイッチがあった。後のAT互換機のTurboスイッチの元祖がこれである

ただCOMPAQ DeskPro発売の6週間後、IBMは6MHzの80286を搭載したIBM-PC/ATを発売する。COMPAQはただちにこれに追従、1985年には8MHzの80286を搭載したDeskPro 286とPortable 286を発表した。

おもしろいのはこの開発にあたってはインテルとも密接に取り組んでおり、実際COMPAQのエンジニアが80286の互換性に関するバグをインテルに報告したりもしていたらしい。

最初の80286のロットは6MHz駆動であったが、DeskPro 286ではバグを修正して8MHzに性能を上げたセカンドバージョンの80286を搭載しており、512KBのRAMと30MBのHDDをセットにした構成が6254ドル、512KBメモリーと20MBのHDDを搭載したPortable 286は6299ドルという値付けになっていた。決して安価とはいえないが、IBM-PC/ATに比べるとお買い得感は高かった。

これに続き、1986年には世界で最初に80386を搭載した互換機であるDeskpro 386を発表する。IBMが386搭載のマシンを投入したのは1987年のことで、ここでついにIBMに先んじることになった。

もっとも、Canion氏の“Open”を読むと、これはそれなりにハイリスクな賭けだったらしい。1986年1月の時点で、インテルはCOMPAQが希望するほどの386を出荷できる状況にはなかったとしている。

策はあって、不良ダイを含むウェハー(本文では'risk' wafer)単位で購入することは可能だったが、そのウェハーからいくつ稼動する386を取れるのかはわからないというものだった。

80386の発表そのものは1985年だったにも関わらず、IBMは稼動するチップが十分供給される1987年まで出荷を遅らせ、他方COMPAQはリスク覚悟でウェハー単位で購入、Deskpro/386を発表する。

実はこのDeskpro/386にはもう1つ、大きな変革があった。それはFlexアーキテクチャーと呼ばれる技術の搭載である。実際にはFlexアーキテクチャーは複数世代が存在しており、これはその最初のものであるが、要するにバスブリッジである。

当時XTバスは8088の、ISAバスは80286の信号線をそのまま引っ張り出した構成になっていた(このあたりは連載106回で説明した)が、386で同じことをするのは難しかった。なにしろバスの速度が全然違うという問題があった。

メモリーアクセスは当然25MHzか33MHzのフルスピードで行ないたいが、ISAバスは8MHzや8.33MHzなので、途中で分周する必要がある。であれば、ISAバスとCPUのバスを分離し、間にブリッジを噛ませば問題ない、というのが基本的な発想である。これは、続くMCA(Micro Channel Architecture)との対決で有用性を増すことになった。

1987年にIBMはPS/2シリーズを発表するが、ここで全面的に採用されたのがMCAという新しい拡張バスのインターフェースである。IBMはこのMCAを利用するにあたって高額のライセンス料を取るという方針を固めた。

COMPAQは当初、このMCAのリバースエンジニアリングを試みる計画を持ったものの、法的な問題に加え、32bit幅のMCAが発表されつつ実機が登場しないため、リバースエンジニアリングができないといった問題があった。

最終的に1988年1月、同社は業界メンバーを募ってMCA対抗となる新しいバス規格を定めることを決める。同年9月、AST Research/Compaq/Epson America/Hewlett-Packard/NEC Information Systems/Olivetti/Tandy/Wyse Technology/Zenith Data Systemsという9社が共同で、EISAを発表する。

結果から言えばEISAはそれほど普及しなかったが、それでもMCAの普及を止めるには十分な効果があったし、またEISAを利用することでCOMPAQはサーバー向け製品を投入するきっかけができたので、少なくともCOMPAQ的には成功したといえるかもしれない。

そのサーバー向け製品の最初のものが、1989年に投入されたSystemProである。SystemProのなにがすごかったかというと、やはりFlexアーキテクチャーを利用した、80386/33MHzのデュアルプロセッサー構成だったことだ。

SystemPro。独特なフロントパネル形状がわかる。CD-ROMドライブは後追いでユーザーが追加したものと思われる

インテルがデュアルプロセッサーを自社のチップセットで公式にサポートしたのはPentiumのP54C/P54CSであり、これはCOMPAQが独自に開発したものである。

ちなみにCPUは当初こそ386だったが、後追いで486に入れ替えたり、386+486なんて構成にすることも可能だった。I/OバスはEISAを利用し、ハードウェアRAIDカードなども搭載された本格的なものである。OSはSCO UnixやOS/2、NovelのNetWare、あるいはWindows NTも一部サポートされた。

Canion氏は1989年11月に開催された記者会見でSystemProについて「HP9000 Series 835と比較して3倍高速で6万8000ドル安価。そしてVAX 6310と比較すると6倍高速で13万5000ドルも安い」と説明している。このあたりは、この後の歴史を考えるといろいろ皮肉めいたものを感じてしまう。

経営が悪化するも、格安PC市場に参入し
PCのトップシェアを獲得

SystemProの市場投入あたりまでは同社の業績は順調に伸びていった。Canion氏の著書“Open”に載っている“Compaq Timeline”を以下に引用する。

COMPAQの業績
年度 売上 従業員数
1982年 0ドル 100人
1983年 1億1100万ドル 600人
1984年 3億2900万ドル 1318人
1985年 5億300万ドル 1838人
1986年 6億2500万ドル 2209人
1987年 12億ドル 4052人
1988年 21億ドル 6503人
1989年 29億ドル 9539人
1990年 36億ドル 1万1420人
1991年 33億ドル 1万59人
1992年 41億ドル 9559人
1994年 108億ドル 1万4372人
2001年 336億ドル 不明

1990年代に入ってから、一度落ち込みを見せ、そのあと急激に伸びているのはなにがあったのか。まず90年代に入った所で、低価格PCが急激に伸びてきたことがある。

当然COMPAQでも低価格PCへの対抗策を練る必要があったのだが、この際の戦略で社内リソースを利用して製品を開発しようとしたCanion氏と、外部のメーカーからパーツの供給(最終的にはPCそのものの供給)をうけて低価格で売り出そうというRosen氏が対立することになった。

1991年は、こうした低価格PCのあおりを受け、売上げが落ちただけでなく営業損失も計上、若干とは言えレイオフ(一時解雇)も余儀なくされた。

最終的にCanion氏はこうした責任を取る形で解雇された。すでにMurto氏は健康上の理由により1987年に退社しており、Canion氏と一緒にHarris氏も辞職したことで、創業者は3人ともCOMPAQから消えたことになる。

後任としては、やはりTIからCOMPAQに入社し、COMPAQ Europeを立ち上げ、ついで北米部門の総責任者を務めていたEckhard Pfeiffer氏がCEO職についた。彼は言ってみればやり手セールスマンであって、なんとなくAtariのRay Kassar氏を連想するところがある。

Pfeiffer氏の指揮の下、COMPAQは新たに1000ドル未満のPC市場に猛然と参入することになる。日本でも1992年に「12万8千円」という当時としては衝撃的な価格でProLinea 4/25が投入され、PC-9801の市場を大きく揺るがしたことを覚えている読者もまだいるだろう。

ProLineaに続き、CRT一体型(後に分離型も投入)のPresarioなど、低価格PCを投入。1992年だけで16もの新製品を投入しており、結果として多くの低価格PCメーカーを振り落とすことになった。

CRT一体型の「Compaq Presario model 5528」。日本市場では、この少し前からTV一体型PCが出てきており、こうした製品と一騎打ちになっていた記憶がある

こうした結果、1994年には売上げが100億ドルに達することになる。ちなみにこの時点で世界全体でのPCのマーケットシェアはCOMPAQが10.3%でトップ、No.2と3をIBMとアップルがそれぞれ8.5%で分け合うということになった。

この当時COMPAQが他社に比べて強かったのは、資本や在庫・営業網といったリソース面での強みもさることながら、SystemProで開拓したサーバー市場が急速に伸びていた部分も大きい。

1994年には後継となるProLiantシリーズが投入され、ちょうどUNIXサーバーの下のほうを急速に置き換える形で普及が進んだ。従来のUNIX系サーバーと比較すればかなり安価であったが、PCメーカーからすればかなり利益率の高い市場であり、これをがっちり掴んだことは無視できないだろう。

あいかわらず技術的には他社をリードしている部分もあり、2台のマシンを組み合わせたHA(High Availability:高信頼性マシン)構成、Profusionチップセットを利用した8P構成サーバーなど、かなり本格的なサーバーもラインナップしていた。

先の表と数字が合わないのだが、Form 10-K(アメリカ合衆国証券取引委員会に提出した有価証券報告書)やAnnual Reportの数字を拾ってみると以下のようになっており、確かに2000年あたりまで毎年約40億ドルづつの割合で売上を伸ばしているのがわかる。

COMPAQの業績
年度 収入
1994年 122億7400万ドル
1995年 163億800万ドル
1996年 200億900万ドル
1997年 245億8400万ドル
1998年 311億6900万ドル
1999年 385億2300万ドル
2000年 422億2200万ドル
2001年 335億5400万ドル

ただPfeiffer氏はこれに満足せず、1996年あたりには経営陣を大幅に入れ替え、IBMのようにサービスあるいはソリューションビジネスを大幅に拡充してさらに売上を伸ばす計画を立てる。

とはいっても同社はそうしたサービスはまだ手薄であり、そう簡単に拡充できるわけもない。これを実現する一番手っ取り早い方法は、そうしたサービスやソリューションを提供している企業の買収である。

まず1997年にTandem Computers, Inc.を買収する。ここは高信頼性サーバーを提供している会社で、金融機関などの「絶対にシステムがダウンしてはいけない」用途向けに、まずはHP 3000ベースのTNS(Tandem Non Stop)シリーズをリリースする。

1989年あたりから製品を順次MIPSベースのIntegrityやCyclone/R、NonStop Himarayaシリーズに切り替えていく。ところがMIPS CPUの供給元であったSGIの業績悪化もあってMIPSシリーズの高性能製品が期待できなくなっていたことで、性能面での不利が目立つようになった。

無停止型並列サーバー「NonStop Himalaya S74000」

この頃になると、Tandemの主要顧客であった金融関係では、単に信頼性が高いだけでは足りず、より高い処理能力も求めるようになってきたことで、Tandemの売上げは下がってきた。これは同社以外にもHPやDEC、あるいは新興のStratus Computerなどの競合メーカーが登場したことと無縁ではない。

Tandemは1990年には18.7億ドルの売上と1.8億ドル前後の営業利益を計上するが、その後は売上こそ19億ドル前後で推移するものの5年連続で営業損失を出すなど芳しい状態ではなかったため、買収には手ごろといえた。COMPAQはTandemを株式交換の形で30億ドルで買収する。

次いで、前回も書いたとおり、1998年にはDECを株式交換+現金の形で、総額96億ドルで買収する。結構な金額ではあるのだが、1996年あたりから同社は金融資産を増やす方向で動いており、1996年末には現金および現金等価物を合計で50億ドルほど保有していたので、この買収そのものはそう難しくはなかった。

問題は、合併後のシナリオが描けていなかったことだ。TandemにしてもDECにしても、確かにエンタープライズ向けのサーバーやサービス・ソリューションを提供していたが、そもそもそれが不調だからこそ売上を減らしていたわけで、買収されただけでこれが好転する理由はない。

普通はなにかしらのテコ入れをする必要があるのだが、その計画も、それをできる人材も当時の経営陣にはなかったようだ。

おまけに買収しても相乗効果は薄かった。TandemとDECでは全然ラインナップが違っているため、一本化によるコストの削減は難しく、DECの持っていたPCのラインナップはCOMPAQと丸被りであり、結局HiNote系列の一部を残してほとんどが破棄されてしまうあたり、無駄が多かったと言わざるを得ない。

もちろんDECの買収でCOMPAQはASCI Qの契約を獲得できたのだが、これにしてもどこまで利益がでたのか結構怪しいところだ。

TandemとDECの買収が裏目に出る
経営を立て直せず、株価が急落

結局このあたりから社内の統制も怪しくなり、買収による相乗効果も思ったほど出ず、むしろ利益がどんどん落ちるようになったため、責任を取らされる形でPfeiffer氏は解任される。

後任はCIOとして1998年にCOMPAQ入りしていたMichael Capellas氏である。彼は社内の建て直しや、パートナー企業(特にインテル)との関係修復に追われることになる。

CEO、社長兼会長のMichael Capellas氏。写真は“Compaq Forum 2000”で初来日し、基調講演した時のもの

もともとCOMPAQはインテルと密接な関係があった。Canion氏の時代は非常に仲が良く、例えばインテルの486の投入の遅れとRISCの台頭が懸念されていた1989年4月頃に、Andy Grove/Gordon Moore/Bill Gatesの3人とシリコンバレーの小さなホテルで秘密会議を開き、それでも全員がこのまま486に賭けることを確約する、という出来事もあったらしい。

こうした親密な関係をぶち壊したのはPfeiffer氏で、特に低価格路線ではAMDやCyrixのチップを平然と採用することで、インテルの不興を買った。もちろんサーバー向けには引き続きインテルのチップを使っていたため、最重要顧客ではあり続けたのだが、親密さはなくなっていた。このあたりの関係は、Capellas氏の時代にだいぶ改善されることになったらしい。

とはいえ、PCベンダーNo.1の座はPfeiffer氏の時代にDELLに奪われ、これを取り戻すことができずにいた。おまけに、旧Tandem/DECのサーバー製品のラインナップ統合に時間がかかっていた。

そのうえ、統合している最中の2000年にインターネットバブル崩壊などもあり、サーバー製品の売上げが急激に落ちたこともあって、2001年には営業損失を出し、株価は急落することになる。

結局Capellas氏は自身での立て直しは不可能と判断したのか、Carly Fiorinaが主導するHPによる買収提案に合意する。Capellas氏は合併後の社長を半年だけ務めたあとで辞職した。

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