梅毒に感染も。江戸時代における遊女の一生が過酷すぎる【写真あり】

  • 更新日:2022年4月9日
  • 公開日:2016年2月22日

「遊女三千」といわれた吉原。華やかな衣装に身をつつんだ遊女たちの生涯は苦難の連続でした。労働環境、借金、避妊、梅毒など。過酷な遊女の一生を画像つきで紹介します。

一見華やかな世界に生きる遊女たち、もとは人身売買で連れてこられた少女!?


江戸時代の遊女(『風俗三十二相』「しなやかさう」月岡芳年 画)
(『風俗三十二相』「しなやかさう」月岡芳年 画)
華麗なファッションに身を包んだ遊女。ものすごい数の髪飾り!しかも超高級なべっこう製。まさに「高値の華」という表現がぴったり。

華やかな身なりでキラキラしていますが、遊女のほとんどは借金のカタなどとして妓楼に売られた女性です。例をあげると、

  • 農村・漁村などの貧しい家庭の親が、生活難のため娘を妓楼に売る
  • 貧しい下級武士の家の親が生活難のため娘を妓楼に売る
  • 不況や事業の失敗などで没落した商家の親が借金のカタに娘を妓楼に売る
  • 悪い男にダマされて若い娘が妓楼に売られる

など。平たくいえば人身売買です。


表向きは幕府も人身売買を禁じていたため、「遊女とは妓楼で働く奉公人である」という意味合いになっていましたが、それはあくまで建前。

実際には、女衒(ぜげん)と呼ばれる“人買い”に親や親類、時には夫が娘や妻を売り渡していました。江戸市中の場合は女衒を使わず直接、妓楼に親らが娘を売ることもありました。

江戸時代の農村のようす(『成形図説』より/白尾国柱ら 著)
(『成形図説』より/白尾国柱ら 著)
江戸時代の農村のようす。江戸から遠い農村・漁村の場合、女衒が家々を周って少女たちを買ったそう

身売りされる年齢と金額はどれくらいだったかといいますと、幼女の場合は7~8歳(時には5~6歳)、もう少し大きくても10代前後の少女だったそう。

金額に関しては、出自によりピンキリだったようですが、農村部での場合、3~5両(現在のおよそ30~50万円)で幼女を女衒が買ったという記録があります。下級武士の場合だと18両(およそ180万円)で娘が買われたという記録も。

いずれにせよ、現代人からみると理解しがたい話ですが、当時の事情は知るよしもなく、安易には批判できません。

彼女たちは「吉原へ行けば毎日白いおまんまが食べられるし、きれいな着物が着られるよ」と女衒に言われたり、「これも親孝行だと思って堪忍しておくれ……」と親たちに言われたりしながら、泣く泣く吉原へと売られていきました。

吉原へ売られてくる女性のなかには、すでに遊女として働いていた玄人(プロ)の女性たちもいました

前述したように、吉原は幕府公認の遊郭です。でも江戸には吉原以外にも「岡場所」と呼ばれた売春エリアがあり、幕府非公認つまり非合法の遊女(私娼)が色を売っていました。

『吾妻源氏 辰美の秋月』(歌川国貞 画)
(『吾妻源氏 辰美の秋月』歌川国貞 画)
有名な岡場所のひとつ深川。深川の遊女は「辰巳芸者」とも呼ばれ“粋”を売りとし、「芸は売るが色は売らぬ」と謳っていました。しかし、実際には色を売る遊女も

岡場所は非公認なわけですから、幕府は何度も私娼の取締りを行っており、その際に摘発された私娼たちがセリにかけられ吉原の妓楼へ売り渡されたのです。

彼女たちは「奴女郎(やっこじょろう)」と呼ばれ吉原の遊女のなかでも軽蔑されたそうですが、なかにはトップ階級の遊女にまで昇りつめる女性もいました。

『古今名婦鏡』「遊女勝山」(安達吟光 画)
(『古今名婦鏡』「遊女勝山」安達吟光 画)
その名も勝山(かつやま)。

勝山は江戸時代初期の吉原で絶大な人気を誇った遊女で、彼女の考案した髪型は「勝山髷(かつやままげ)」と呼ばれ大流行しました。

この勝山も、吉原の遊女になる前は「湯女(ゆな)」という色も売る湯屋の従業員で、私娼摘発により吉原へ連れてこられたのですが、美貌と才覚をもって破格の出世を成し遂げたのです。

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