日教組の組織率の推移(出所:文部科学省)

 

「国づくり、地域づくりは、人づくりから」を信条とする参議院議員赤池まさあき(全国比例区)です。

 

 4月13日(金)昼12時から、自民党本部において、私が部会長を務める文部科学部会が開催されました。議題として、平成29年度教職員団体への加入状況に関する調査結果等を取り上げました。 

 

●日教組の組織率は長期低落の23% 新規加入率は微増の19%

 

 昭和33年以来毎年、文部科学省では、公立学校の教職員団体への加入状況について調査を実施しています。

 http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/jinji/1401383.htm 

 

最新の昨年平成29年10月1日現在では、次のような状況です。

 

・教職員全体の加入状況

 

○ 教職員団体全体の加入率は、昭和51年以降42年連続の低下。

→ 103万人の内、加入率 34.1%(前年度35.2%) 前年度比 マイナス1.1ポイント

 

○ 日本教職員組合(日教組)への加入率は、昭和52年以降41年連続の低下。

→ 加入率 22.9%(前年度23.6%) 24万人 前年度比 マイナス0.7ポイント

 

・新採用教職員の加入状況

 

○ 教職員団体全体の新採用教職員の加入率は、昨年度に比べ上昇。

→ 3.5万人の内、加入率 25.2%(前年度24.3%) 前年度比 プラス0.9ポイント

 

○日教組への新採用教職員の加入率は、昨年度に比べ上昇。

→ 加入率 19.2%(前年度18.6%) 7千人 前年度比 プラス0.6ポイント

 

●都道府県別の組織率は

 

 都道府県別の組織率は、一覧表の通りです。

 

・義務教育

 

 日教組の組織率が高い県は、北から北海道、岩手、秋田、茨城、千葉、神奈川、新潟、富山、石川、福井、山梨、長野、静岡、愛知、三重、兵庫、岡山、大分、沖縄等です。

 

 全教(日教組左派から脱退し平成元年独立、共産党系、全日本教職員組合の略。4万人)の組織率が高い県は、東京都、京都府、奈良、和歌山等となっています。

 

 全日教連(教育の正常化を掲げる保守系団体、前身の組織が昭和32年組織され、昭和59年結成。全日本教職員連盟の略。2万人)の組織率の高い県は、栃木、山口、徳島、香川等となっています。愛媛は、全日教連の友好団体です。

 

・公立高校

 

 

 日教組の組織率が高い県は、岩手、山形、東京、神奈川、新潟、石川、福井、三重、奈良、鳥取、広島、大分、沖縄等となっています。

 

 全教の組織率の高い県は、北海道、秋田、埼玉、富山、山梨、長野、和歌山、岡山、山口、香川、佐賀、長崎等となっています。

 

 日高教(右派、昭和37年左右分裂。是々非々・不偏不党を堅持。日本高等学校教職員組合の略。8千人)の組織率が高い県は、福島、栃木、島根、徳島、愛媛、高知等となっています。

 

 その他に分類されていますが、全日教連は福岡、大分等で高い組織率となっています。

 

 ●教職員団体とは 日教組とは

 

教職員団体とは、公務員版の労働組合です。地方公務員法及び地方公務員特例法上の「職員団体」に位置付けられています。公務員がその勤務条件の維持改善を図ることを目的として組織する団体又はその連合体を言います。労働組合法の適用を受けず、公務員法制上は「職員団体」と言うことになります。民間の労働組合と比較すると、団体協約(労働協約)の締結権が否定され、争議権が否定されていることに違いがあり、その代償措置として、人事委員会又は公平委員会による救済が得られる点が異なっています。

 

 教職員団体の中で、最大な組織が日教組です。

 

 日教組とは何か。日教組は自分たちのことを公式ホームページで次のように説明しています。

 「1947(昭和22)年6月8日に、三つの教職員団体が合同して結成されました。教育の民主化と、研究の自由を獲得すること、平和と自由とを愛する民主国家の建設のため団結すること、そのために経済的・社会的・政治的地位を確立することを目的に結成されました。具体的には、全国の子どものための教育条件の整備や、教職員の待遇の改善、地位の向上などを主な目的として、教育に関わる制度・政策に対するアドボカシー、平和運動をはじめとする政治的な数多くの活動を行っています。

 

 長い期間、文部科学省(旧文部省)などの教育行政が、トップダウン方式で画一的な教育を指向することに反対し、現場の教員による柔軟で人間的な教育の実現を訴え対立してきました。しかし、1995年(平成7年)には単純な対立の構図では解決できなくなった様々な教育課題の状況を踏まえ、それまでの教育行政との対立関係から、拮抗と協調のパートナーシップに基づく新たな展開へと移りました。現在は、「女性と男性、高齢者と青年、大人と子ども、単身者と家族が共に支え合う社会の発展を持続するには、多様な価値観を認め合いながら、共に学び共に生きる横断型の市民社会」をめざし、子どもと教育、 教職員に関する様々な課題・政策に対する要求や提言・各種活動を行っています。」

 https://www.jtu-net.or.jp/whats-jtu/group/ 

 

●日教組とは 国から見ると・・・

 

 以上、日教組は自分たちのことを「教育の民主化」「平和と自由とを愛する民主国家の建設」を目的にしていると綺麗に自己紹介していますが、実態はどうだったのでしょうか。

 

対峙してきた文部科学省は、日教組のことを「階級闘争」「戦う日教組」を掲げて、「国の文教行政と対立」し「ストライキを含めた激しい反対闘争」、「裁判」闘争、「ILO提訴問題」等を展開し、「組織分裂」を繰り返してきたと説明しています(平成4年文部省編纂「学制百二十年史」より)。

 

以上のような闘争を行ってきた歴史があるからこそ、昭和33年以来教職員団体の調査を文部科学省が実施してきたということです。

 

日教組自身が言うように、平成7年の村山富市社会党党首が総理を務めた自社さ連立内閣以来、対話路線に転じて、20年以上経つわけですが、その本質が変わったかどうかは疑問があります。平成18年の教育基本法改正反対運動や、最近でも朝鮮学校無償化支持、反原発、沖縄普天間基地移転反対、国の教育行政に反対や抗議を続けています。日教組は支持する政治家を通じて、議会活動を通じて、自らの主張を実現しようとしており、民進党分裂の中で、来夏の参院選では比例区において立憲民主党公認候補を応援することにしており、立憲民主党への支持に傾斜してきています。

 

  組織率が下がってきているとはいえ、日教組の影響はいまだ大きいと思っています。また、日教組左派として脱退・独立した全教は、共産党系であり、教育の正常化のために、日教組とともに十分注視していかなければなりません。

 

 

●(参考)日教組の歴史を学ぶ

 

日教組の歴史を学ぶために、文部省が編纂した「学制百二十年史」(平成4年)より長くなりますが、以下引用します。

 

「昭和二十二年に結成された日教組は、我が国最大の教職員団体として、経済闘争、教育闘争、政治闘争を幅広く展開し、それらの運動を抜きにしては、戦後の我が国の教育界を論じ得ないほどの影響を与えた。

 

 二十七年六月の定期大会は、「教師の倫理綱領」を制定して階級闘争の立場を明確にし、以後の諸活動の基盤とするとともに、同年八月には日本教職員政治連盟(後に、日本民主教育政治連盟―通称日政連)が結成され、日教組と密接な関係を持って政治活動を行い、日教組推薦の議員を多数国会や地方議会に送り出した。

 

(筆者注:教師の倫理綱領とは1.教師は日本社会の課題にこたえて青少年とともに生きる 2.教師は教育の機会均等のためにたたかう 3.教師は平和を守る 4.教師は科学的真理に立って行動する 5.教師は教育の自由の侵害を許さない 6.教師は正しい政治をもとめる 7.教師は親たちとともに社会の頽廃とたたかい、新しい文化をつくる 8.教師は労働者である 9.教師は生活権を守る 10.教師は団結する)

 

(筆者注:日政連には、現在衆議院議員4名、参議院議員3名、自治体議会では約200人の議員が所属しています。詳細は https://www.jtu-net.or.jp/whats-jtu/jtu-link/ )

 

 日教組の運動方針は、二十八年以来、闘争重点主義(戦う日教組)が強く打ち出され、いわゆる教育二法反対闘争、「道徳」特設反対闘争、勤務評定反対闘争、学力調査反対闘争等を行った。

 

 他方日教組は、組合活動と結合した教育研究活動を重視し、二十六年に第一回を開いて以来、毎年教育研究大会を開催した。特に三十年の研究大会からは、その名称を研究集会と改め、父母や労働者の参加をも求めた。

 

 日本高等学校教職員組合(日高教)は、二十五年四月、日教組の小・中学校教員偏重の運動に不満の教職員が、日教組から離脱して全日本高等学校教職員組合(全高教)を結成した(三十一年日高教と改称)ものであるが、三十七年二月に至り、指導部の姿勢をめぐり左右に分裂し、左派は、日教組とほぼ同様の活動を、右派は、これとは別個の行動を取った。」

 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318276.htm

 

 「日本教職員組合(日教組)は、昭和二十年代後半から、国の文教行政と対立し、新しい文教施策が採られるごとにストライキを含めた激しい反対闘争を展開してきた。三十年代には、勤務評定の実施阻止闘争(三十二年~三十四年)、道徳教育を含む学習指導要領の改正に対する反対闘争(三十三年~三十五年)、全国学力調査反対闘争(三十六年~三十七年)などの反対闘争がある。四十年代後半になって、日本労働組合総評議会(総評)、日教組等はスト権奪還を目標にストライキ等の実力行使を拡大し、また、裁判、公務員制度審議会及び国際労働機関(ILO)の場に持ち込んで闘争を展開した。

 

 四十九年四月十一日、日教組は、春闘の統一行動の一環として、スト権奪還、賃金引上げなどの目的を掲げて全国的規模で約三〇万人参加の全一日ストライキを行った。これに対し、検察・警察当局は、これらの違法行為をあおる等をした組合幹部の行為が地方公務員法第六十一条第四号に該当するとして、約二〇名を逮捕し、そのうち四名(当時の日教組委員長ら組合幹部)を起訴した(四名のうち三名は、平成元年及び二年の最高裁判決で有罪確定)。

 

 一方、裁判においては、公務員の争議行為をめぐる憲法上の解釈をめぐって最高裁判所の判例上の変遷があり、公務員の職務の公共性と争議行為の態様とを勘案して罰則を適用する必要があるとの限定解釈説を採る最高裁判決があって、勤務評定の実施阻止闘争をめぐる都教組事件の東京地裁判決(四十六年十月)で都教委側が敗訴するなど混乱した状況が見られた。これに対し、四十八年四月の全農林警職法改正反対闘争事件に関する最高裁大法廷判決は、公務員の争議行為の全面一律禁止を定めた現行法の規定は合憲との判断を示し、従来の限定解釈の考え方を変更した。五十一年の岩教組事件の最高裁判決もこの判断を踏襲し、これによって、裁判上の問題には事実上終止符が打たれた。公務員の争議権については、公務員制度審議会においても審議が行われ、四十八年九月の答申において、非現業公務員のスト権については三論併記という形になったが、同年四月の最高裁判決を踏まえ、争議権の問題について憲法解釈をめぐる論議を避けて、立法政策の問題として解決すべきことを基本認識として示している。

 

 また、ストライキによる懲戒処分をめぐっては、ILOへの提訴問題があり、四十六年の国鉄労働組合(国労)等の提訴に始まり、四十八年には日教組、日本高等学校教職員組合(日高教左派)等の大量提訴があった。四十八年から四十九年にかけて採択されたILO結社の自由委員会の報告では、政治ストは結社の自由の原則を逸脱するという指摘がなされるなど、基本的には日教組等の態度に厳しく反省を迫るものであった。なお、四十九年には、同年四月の統一ストによる当時の日教組委員長の逮捕をめぐってILOへの提訴が行われたが、五十三年に、結社の自由の侵害とは言えないとの報告が採択されている。

 

日教組の分裂

 

 昭和五十年代になっても、日教組のストライキ闘争は続けられ、五十年からの主任制度化・主任手当支給阻止闘争等により、ストライキを反復実施した。このような長期にわたるストライキ闘争により懲戒処分を受けた教職員は多数に上り、この支援のための組合費負担も高まり、労働運動に対する無関心層の増加とあいまって、日教組の加入状況は大きく低下してきた。三十年代には九〇%近くを占めていた日教組の組織率は、六十年には五〇%を下回り、特に新規採用教職員の加入率は三〇%程度で組合離れの傾向は著しくなった。

 

 他方、労働界全体が総評・全日本労働総同盟(同盟)などに分立している状況を再編統一する動き(労働戦線統一問題)が、五十七年ごろから民間労組先行で進行するに及び、この問題に対する日教組方針をめぐり、主流派と反主流派が激しく対立し、更に主流派内部からも執行部批判がなされるなど、複雑な内部対立を生むこととなった。このような動向の中で、六十一年度が委員長はじめ本部役員の改選期に当たっていたが、主流派内で委員長人事をめぐる対立が激化し、六十一年度の定期大会を開催できないという状況となった。その後も、委員長人事問題に労働界再編統一の動向に対する路線問題も絡み、定期大会が開催できないという混迷の状況(いわゆる「四〇〇日抗争」)が続いた。総評が調停に入ったことで、人事・路線問題に関する一定の合意が主流派内でなされ、六十三年二月に六十年七月大会以来、二年七か月振りに第六四回定期大会を開催し、役員人事・予算等を決定して麻痺していた本部機能を回復した。

 

 しかし、その後も、労働界再編統一に対する対処方針(「日本労働組合総連合会(連合)」への加盟問題)をめぐり、日教組の内部対立は混迷の度を深めた。平成元年九月の第六八回定期大会において、日教組は連合加盟を正式に決定したが、この大会は反主流派教組の大半のボイコットにより事実上の分裂大会となった。一方、反主流派教組は同年十一月、全日本教職員組合協議会(全教)を結成、日教組も同年十二月の第七〇回臨時大会で全教加盟の教組を事実上の除名処分とすることを決定し、これにより日教組の分裂が確定した。この日教組の分裂は、各都道府県(高)教組段階の分裂・新組織結成の動きに波及(現在までに二三県において分裂)すると同時に、日教組の組合員数は激減して約四二万人(組織率約三六%)となり、現在では非加入者の占める割合(約四〇%)を下回る状況となっている。

 

 日教組は平成二年六月、連合加盟後、組織分裂後初めての定期大会(第七二回定期大会)において、「参加・提言・改革」のスローガンを打ち出し、翌三年七月の第七三回定期大会では、対話と協調を基本としたよりソフトな表現の運動方針を決定するなど、従来の「反対・粉砕・阻止」の姿勢を現実路線に改める旨を標傍(ぼう)しているが、運動方針の各論部分では、依然として初任者研修、学習指導要領、国旗・国歌、主任制度などに基本的には反対の姿勢を示しており、国の教育政策に反対する姿勢自体に大きな変化は見られない。また、四年三月の第七四回臨時大会では、法人格取得のための規約改正(大会決定事項から「争議行為に関すること」を削除するなど)を行ったが、同大会で決定した春闘方針では、ストライキ闘争をやめるとはしていない。

 

 全日本教職員組合協議会(全教)は、連合の結成と同時期に結成された反連合の全国労働組合総連合(全労連)に加盟し、同じく全労連加盟の日高教左派との間で組織統一のための協議を進め、新組織の名称を「全日本教職員組合(全教)」として平成三年に発足した。全教の運動姿勢は、国の教育政策との対決姿勢を強く打ち出している。

 

 日本高等学校教職員組合(日高教右派)は政治的中立の立場に立ち、関係機関への要請など穏健な活動を展開している。

 

 日教組の闘争方針に批判的な教職員が、日教組から脱退し、教育の正常化等を目標に結成した団体に、日本教職員連盟(日教連)、日本新教職員組合連合(新教組)があったが、両組織間に統一の機運が持ち上がり、五十九年に全日本教職員連盟(全日教連)として統一された。全日教連は、四十九年に結成された全国教育管理職員団体協議会(全管協 校長・教頭が組織する職員団体)などの諸団体とともに、教育の正常な発展を目指した活動を行っている。」

 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318370.htm