安丸良夫著

神々の明治維新(P163~)より粋抜


神社改め

 新潟県社祠方に小池厳藻という者がいた。彼は、明治三年三月晦日から六月六日まで、蒲原五群と岩船郡の各村を巡回し、神社改めをおこなったが、それは、村々の神祠を実際に検分して神仏を分離させ、不都合な神体・飾り物などを取りのぞかせ、神名を定めたりするものであった。彼は、多い日には十社以上も検分し、その結果を『神社廻見聞録』に書きとどめた。同書は、村々の信仰の実状と神仏分離政策による変容とを、いきいきと伝えてくれる貴重な記録である。以下、同書によって、いくつかの例をあげてみよう。
 滝原村の多伎(たき)神社は、吉田波江という神職が奉斎する村の鎮守神であるが、神体は不動であった。社地の裏に滝があり、また村名にもちなんで、不動明王が祀られたのであろう。小池が巡回したとき、この地方では、神主も村人も不動を神だと思っており、社造りで祀られていた。そこで小池は、いまさら仏堂に改めさせることはできないと考え、社は元のままとし、不動像をとりのぞいて鏡を神体とし、幣束や鈴などを備えて神社としての様式を整えるように命じた。
 つぎの小見村は、八幡宮を鎮守としていたが、神体は梵字を彫りつけた青い石であった。小池はこの石を取りはらい、鏡を神体とし、幣束などを飾るように命じた。
 また、上野山村の鎮守は、子易(こやす)神社といったが、これは、これまで子易大権現と称していたものを、神仏分離にさいして、子易神社を改称したのであった。しかし、神体は、子易(安)地蔵と薬師菩薩を厨子に納めて祀ったものだったので、小池は、厨子を寺へ渡し、あらたに白木の小祠をつくって伊邪那美神を祀り、神体は鏡にするように命じた。
 また、花立村の鎮守は、久志神社といって、社造りで、神殿中には久志神社と記した木札が飾られていたが、額には瑠璃光堂と記され、旗にも薬師瑠璃光如来と記されていた。小池は、この額と旗を取りのぞき、神仏分離を明確にするように命じた。
 温出村の熊野神社の神体は、いが栗頭の仏像であった。小池は、仏像を取りのぞき、鏡を神体とするように命じた。
 越御堂村の床浦社は、元は疱瘡神であったが、先年、白川家の許状をうけて床浦社と改称し、神倭伊波礼毘古命(神武天皇)を祭神としたものであった。小池は、白川家の許状によるとはいえ、疱瘡神を神武天皇に祀り替えるとは、あまりに「無勿体(もったいなき)」ことだと諭した。