フジサンケイ、鹿内家の興亡と花嫁の死 | 永田町異聞

フジサンケイ、鹿内家の興亡と花嫁の死

1984年、美人アナ、頼近美津子がフジサンケイグループを率いる鹿内家に嫁いだとき、誰がその後の彼女の波乱の人生を想像できただろうか。


当時、鹿内ジュニアといわれた夫の春雄は、85年に父、信隆のあとを継いでフジサンケイグループ会議議長となった。「楽しくなければテレビじゃない」の「軽チャー路線」で、フジテレビの業績を好転させ、鹿内王朝は黄金期を迎えたように見えた。


メディアグループの若き敏腕経営者、春雄は容姿にも恵まれ、頼近美津子は世の女性の羨望の的だった。


春雄は次々に手を打っていく。例の「目ん玉シンボルマーク」で、マスコミの古いイメージからの脱却をはかり、産経新聞の紙面を業界で先陣を切ってカラー化した。「南極物語」「ビルマの竪琴」「子猫物語」などの映画もつくった。


ところが、人生には思いがけないことが起きる。1988年、春雄は急性肝不全のため42歳の若さで急死する。美津子は二人の幼い息子をかかえて未亡人になった。


ゴッドファーザー、鹿内信隆はすばやく後継者を決めた。興銀に勤務していた娘婿、佐藤宏明を養子縁組で鹿内宏明とし、春雄の死後わずか11日目にして、銀行マンをいきなりメディア帝国の議長代行に据えた。


滅茶苦茶な人事がまかり通ったのも、産経OBの作家、司馬遼太郎が憂えた、鹿内信隆という独裁者の体質があったからだ。


鹿内信隆は戦後財界の司令部といわれたいわゆる「コバチュウ・グループ」の対労組戦闘隊長のような存在だった。ニッポン放送を設立、財界四天王の一人、水野成夫とともにフジテレビをつくり、のちに水野を追い落として産経も手中にした。


さて、89年に、現在のフジテレビ会長、日枝久を社長とし、宏明がその上に君臨する議長となったが、90年、信隆の死で後ろ盾を失った宏明は、役員によるいわゆる「将軍たちのクーデター」で解任され、グループから追放された。


このあと、グループの実権を握ったのが、ニッポン放送株買い占めでフジサンケイの支配を狙ったホリエモンとの激突で知られる日枝久である。


未亡人となった美津子は1990年、2人の息子をつれて渡米、ワシントンの高級コンドミニアムに住んだ。しかし、その生活は長続きしない。


コンドミニアムをグループ本社に売却して、93年以降、日本のテレビにときたま出演するようになった。ピアノも上手で、多彩な才能を持った人だったらしい。


しかし、頼近美津子がテレビ出演していたという印象を持っている人は少ないのではないだろうか。あの華々しい結婚、夫の急死という悲劇、鹿内家における立場・・・彼女に関するそうした記憶も、いつのまにか薄らいでいた。


頼近美津子さん死去のニュースは、女子アナブームの先駆けとして大きく報じられた。元祖アイドルアナという表現も見られる。


しかし、筆者には、フジサンケイグループをかつて支配した鹿内家の興亡と二重写しになって、記憶の底からよみがえってきた。夫、春雄と同様、あまりにも若すぎる死だった。 (敬称略)


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