先日、タイトルに惹かれて「最後の『日本人』朝河貫一の生涯」(阿部善雄著)という本を読みました。これまで「朝河貫一」なる人物のことは全く知らず、「最後の『日本人』」というメタフォリカルなタイトルはどういうことを指しているのか?興味をそそられました。



最後の「日本人」―朝河貫一の生涯 (岩波現代文庫)/阿部 善雄

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大隈重信1838 -1922 、伊藤博文(1841 -1909 、高峰譲吉(1854 -1922 )、坪内逍遥(1859 -1935 、新渡戸稲造(1862 -1933 、徳富蘇峰(1863 -1957 )、野口英世1876 -1928 、吉野作造(1878 -1933 )。これは、明治初期の日本を代表する人々を生年順にアトランダムに並べただけではありません。これらの人々がそれぞれの立場で、明治から昭和という日本の時代におけるアメリカというカテゴリーの中で接した人物が本書の主人公、歴史学者・朝香貫一、その人です。


朝河貫一は、明治六年賊藩二本松に生まれ、二一歳で渡米。英文の『大化の改新』で、エール大学哲学博士号を取得、『入来文書』の研究で欧米歴史学界に衝撃を与えた。一方、『日露衝突』『日本の禍機』などの著書で日露戦争以後の日本外交への批判に全力を傾注し、日米開戦を回避すべく奔走した一日本人ヒューマンドキュメントなのであります。


まずは、後に非欧米諸国に絶賛された日露戦争(1904 明治 37年)26 - 1905  95 )の勝利。一方では、戦費調達に苦しんでいた日本銀行 副総裁の高橋是清 氏は、ロスチャイルド財閥(ユダヤ 人銀行家ジェイコブ・シフ )からの資金提供を受け、同盟関係にあった英国からも支援を受けていますが、他国も中立な立場でこの戦争を見守る形となりました。そんな他国の日本への「理解」を促したのが、朝河貫一氏の「日露衝突」という本でした。


「『日露衝突』(The Russo-Japnaese Conflict)は、英文で書かれているため、日本人にはよく知られていない。この本は、日露戦争が開戦後九ヶ月を経た1904(明治37)年11月に、アメリカとイギリスで出版された。おりから、乃木希典がひきいる第三軍は203高地を攻撃中である、一方、ロシアのバルチック艦隊は、太平洋に出撃するべく北アメリカまで南下していたのであった」。


「『日露衝突』は『序説』と第一章より第二十章にわたる各論を備えているが、序説は六十三頁が費やされ、明治期における東洋経済史ともいえる部分である。朝河は、日本の産業の構造が農業から工業へと変質してきた経過をとらえることによって、中国大陸に市場を求めるようになった事情を説き起こし、韓国・満州を舞台とした日露それぞれの経済関係の推移を、数字で示しながら説明していった。そしてロシアの満州にたいする植民地的占拠に向けての日満間の共通の利害を論じ、日露衝突の背景を描き出した」。

「第一章で、遼東半島の返還をめぐる三国干渉と日本に与えた影響をしるしたあと、第二章以下で、清国を舞台として火花を散らすヨーロッパ諸国の植民地的外交や利権扶植と、日本の関係の仕方を論じた。さらに、日英同盟・露仏共同宣言などについてもくわしくふれ、第十九章において日露の度重なる交渉決裂と、日本の宣戦布告におよんでいる。とくに彼が最後に一章を設けて、清国の中立と韓国の保全にたいする日本の立場を明確にしたことは注目にあたいする」。


「『日露衝突』は、発売されるやただちに驚異的な売れ行きをみせ、版を重ねていった。朝河はたびたび日露戦争についての講演をたのまれるようになり、日本の文化や習俗についての討論会にも招かれてM討論に参加することもしばしばであった。かたわら大衆的な『コリアーズ』誌を含め、多くの新聞雑誌に寄稿した。またその著書は、欧米の当局者や識者ならびに図書館・新聞社などの注目を集め、彼の戦中の三十数回にわたる講演とあいまって、大きな反響を呼んだのである」(P48


そして、時代は40年弱が経ち、朝河氏を取り巻く環境は、米国で暮らす住民と日本人としてのアイデンティティの狭間を悩ますものとなっていきます。


1941年(昭和16年)の十月と十一月、朝河にはかぎなく重苦しい日々がつづいた。エール大学で彼の講義を受けていた学生たちの目にも、彼の淋しさがはっきりうかがえた。それは、けっして孤独の淋しさではなかった。破綻しかけている日米関係の憂慮であり、いよいよはげしさを加えてきた祖国日本の独善にたいする憤りであった。朝河は十月、日本の大改革を絶叫し、十一月には、天皇へ平和をよびかけるルーズベルト大統領親書の打電運動の心身を使い果たしたのである」。


アメリカすでに戦争準備を始めだし、十月二日に、「すべての国の領土と主権の尊重」、「内政不干渉」、「すべての国の平等と原則の尊重」、「太平洋の現状維持」という従来の四原則に加えて、中国・仏印からの日本軍の全面撤退を要求する覚書を野村吉三郎(駐米大使)に手渡していました。(P208

この厳しい状況下で講じた朝河氏の日本改革の要請とは・・・


「日本軍の大陸よりの撤退、三国軍事同盟の破棄、日本における政務と軍務の分離、民心と教育の解放、これらを断行せよというものであった。これらはいずれも、朝河がこれまで日本を毒するものとして祖国へ忠告してきたものであり、その忠告の総決算である。そして彼はさらに、これを断行するうえでは、明治維新前後における徳川慶喜以下の聡明な諸侯や志士が示した公明正大な方針を範とせよと迫った」。



「彼はまた、いまこうした抜本的な改革をしないで、当面を糊塗する妥協にとどまるならば、一時は英米やその同盟国と平和を保つことができても、中心問題が解決されていないので、必ず将来に禍根を残すであろうと強調した」。(P211


結果は、歴史が示すとおりです。なぜ、朝河氏をはじめとした開戦阻止の運動が功を奏さなかったのか?著者は、それをハル・ノートに対する日本政府の読み違いであったと指摘しています。



朝河貫一

朝河貫一(あさかわかんいち、1873 (明治6)12月20 - 1948 (昭和23)8月10 )は、「福島県 二本松市 出身。日本 が生んだ世界的歴史学者 。尚、イェール大学では、”Historian”, "curator" (キュレーター) ,"Peace Advocate" (平和の提唱者)として、朝河貫一を評価している」。


「福島県尋常中学校在学中、英国人教師トーマス・エドワード・ハリファックスに教えを受ける。1892(明治25)年3月、同校卒業の後、一時郡山尋常小学校(現福島県郡山市立金透小学校)で英語の嘱託教員を勤める。同年11月東京専門学校(現早稲田大学 )に編入学し、1895(明治28)年首席で卒業。同校在学中に大西祝 坪内逍遙 等の教えを受け、横井時雄より洗礼 を受ける」。


1895(明治28)年、大西祝、大隈重信 徳富蘇峰 勝海舟 らに渡航費用の援助を受けてアメリカへ渡り、ダートマス大学 で学ぶ。1899(明治32)年に米国 ダートマス大学を卒業。1902(明治35)イェール大学 大学院を卒業。1902(明治35)Ph.D. 1902(明治35)年ダートマス大学講師。1906(明治39)年~1907(明治40)年米国議会図書館とイェール大学図書館から依頼を受けた日本関係図書収集のため一時帰国」。


1907(明治40)年再渡米、イェール大学講師、次いでイェール大学図書館東アジアコレクションキュレーターに就任。1907(明治40)年ミリアム・キャメロン・ディングウォールと入籍する。1910(明治43)年同大学助教授。1913(大正2)年ミリアム・朝河と死別(ミリアムの墓は米国コネティカット州ニューヘブン市内エヴァグリーン墓地にある)」。


1917(大正6)年~1919(大正8)東京大学史料編纂所 留学。1930(昭和5)年イェール大学準教授。1937(昭和12)年日本人初のイェール大学教授に就任。1942(昭和17)年同大学名誉教授。1948(昭和23)バーモント州 ウェストワーズボロで死去」。(ウィキペディア)


本書では、朝河貫一氏の死を、AP電、UPI電は「現代日本がもった最も高名な世界的学者」として伝え、日本占領のアメリカ軍「スターズ&ストライブス」は弔意の記事を掲載し、横須賀基地では半旗をかかげたことが記されています。


一方で、日本の新聞界は、この訃報電文を新聞の片隅に三、四行をさいて載せたものの、その名前の綴り方すら知らなかった、と記しています。第二次世界大戦 の際、外務省 の命令に反してユダヤ人 亡命 できるようにビザ を発給し、ナチス 政権下のドイツ による迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救った外交官・杉原千畝(ちうね、1900 -1986 )さんが、長らく国内で評価されなかったことに通じるものがあります。


<著者>

阿部善雄;19201986。台湾生まれ。45年東京帝国大学文学部卒業。東京大学史料編纂所教授、聖心女子大学講師を歴任。専攻江戸時代史。