~1973年 前家系時代。羽田の貝塚から背ガラが出土し、ゴム長の足跡が採取されているとされるが、詳細は推測の域を出ない。

1974年 吉村実を当主に建て、新杉田に吉村家が興される。
ここで家系の源流が供されたが、その濃厚な豚骨に醤油の味が、職人や商人を中心に好評を博すこととなった。また眼前で執り行われる、門下生を相手取った当主の正拳突きや膝蹴りなどの演武披露も話題を呼び、徐々に民衆の支持を増やしていった。

1984年 吉村家の繁栄を受け、本牧に吉村家直系の本牧家を制定。のちにその官位を失うこととなるが、初の分家としての直系の誕生である。

1988年 本牧の乱。あくまで醤油を前面に押し出す政策を曲げない吉村実との対立に端を発した、本牧家のお家騒動が続いていたが、ここに来て神藤隆に従う一派の一斉蜂起に及んだ。神藤は志を同じくする者らと共に独立し、六角家を創設。低粘度の豚骨と鶏油をあつらえ、瞬く間に東白楽を支配下にする。

1990年 本牧の乱により散逸した勢力および六角家から派生した各家々が次々と頭角を現し、傾倒する民衆が爆発的な増加を辿ることになる。本牧家系寿々喜家の発生。繊細なスープの寿々喜家系譜の始まりである。

1991年 本牧家系川崎家の勃興。クキワカを駆使して川崎駅周辺での版図を拡大し、まこと家など名門家を輩出することになる。

1992年 本牧家に仕え、横濱家、介一家の創設に携わってきた近藤健一がついに近藤家を打ち立て、六角家との同盟を結ぶ。

この年は戦乱の激化が始まった年でもある。直系や本牧家由来の各系譜の躍進に刺激された独立系、すなわち師弟関係を持たない独自の勢力が、次々と鬨の声を上げ始めた。その筆頭がたかさご家系譜である。独立系でありながら直系と似た粘度の高い醤油味を提唱したたかさご家は、輩出した町田家、中野武蔵家らと共に傍流を形作った。
また同年、本部から極度に乳化したスープを各家々に供給する、中央集権型の独立系譜が出現する。ウズラを家紋に配した壱六家を本体とした、いわゆる壱系である。

このように横浜を中心に戦火が広がるが、本牧勢の各系譜が善戦できた背景として、直系から離脱したにも関わらず、酒井製麺の加護を受けることに成功した神藤隆の功績は大きい。その一方で独立系の各系譜の家々は、大橋製麺に助けを求めてこれに対抗した。
庶民の熱狂的な流行も落ち着き、やがて戦火は下火になってゆく。しかし激戦に疲弊し味を落としたり、新たな客層に契機を求め迷走し、結果的に没落の途を辿る家々も少なくなかった。注文時に、より難解な呪文詠唱を要するため門戸が狭かった二郎璃庵への入信者の増加が見られたことも、逆風になっていたと言えよう。

1999年 吉村家が本拠地を新杉田から横浜西口に遷移。吉村実はこの西口の館を一括で買い入れたとされ、平成の石垣山城と称された。新杉田の統治には、新たに杉田家を置いてこれに当たらせた。
六角家系譜では、吉祥寺に中野武蔵家とは別系譜である吉祥寺武蔵家を置き、更に全盛期の六角家本店を長年率いた森田与司男が南麻布に笑の家を築き、江戸市中への進出を強化した。
また、松村に率いられていた本牧家が本家と激しく対立。二号店の看板を打ち捨てて遁走、下永谷に同名の独立店舗を構えた。間門の政変と呼ばれる事件である。

2000年 怒りに震える吉村勢は、それを追撃するべく下永谷に吉村家直系の環2家を置いた。なお、吉村実が二足の草鞋として御禁制の春画を商った廉で磯子奉行所の縄に下ったのもこの年である。

2004年 1988年に拓かれるも直接衝突の姿勢を見せていなかった山岡家が南下し、関東への本格的な侵攻を開始する。山岡家は、吉村家の味を模した独立系である。

2011年 このころ、たかさご家系譜の過激化が目に余るようになる。中野武蔵家に発し、武道家、武術家、町田家系の侍などの勢力を生み出し、一大武力集団が形成された。時にはライス無料の令により、貧困層を対象とした兵の徴募を押し進める策も執られるようになる。

2013年 かつての勢いを失っている六角家本店の懐に、新たに直系の末廣家が送り込まれ、新たな火種が生じた。