<水田稲作>

前々回の発見された日本列島 その4 土器と稲作では、主に縄文後期と弥生前期の土器の形式とともに稲作についての関連をコメントしました。

 

国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎は、孔列文土器や突帯文土器が出土する朝鮮半島南東部にあるオクキョン遺跡(蔚山広域市)を紀元前11世紀の水田遺構であると位置づけ、日本の水田遺構より古いとされていますが、この主張を批評しました。
 
というのも、日本の最古級の水田遺構からも同様に孔列文土器や突帯文土器が出土しています。つまり、日本の水田遺構もオクキョン遺跡と同時期のものです。
 
藤尾副館長は、水稲の温帯ジャポニカの渡来ルートについては、紀元前50世紀に長江下流域、紀元前30世紀に山東半島、紀元前11世紀に朝鮮半島、紀元前10世紀に北部九州であって、水田稲作は朝鮮半島由来との考えです(『弥生時代の歴史』、講談社現代新書、藤尾慎一郎著、2015年)。
ですから、オクキョン遺跡の方が北部九州の水田遺跡より古いとしたいのでしょう。
 
 

ところが、日本列島における水田稲作の遺構については、以前より弥生時代の始まりがどんどん古くなってきており、土器編年では佐賀県小城市の石木中高遺跡や唐津市の菜畑遺跡などがオクキョン遺跡と同時代です。石木中高遺跡や菜畑遺跡は放射性炭素年代測定(AMS法)で確認されており、日本最古のデータは、石木中高遺跡の紀元前1050年となっています。また、今村峯雄(国立歴史民俗博物館名誉教授)の再検討では、菜畑遺跡から出土した山ノ寺式の較正年代として、紀元前1420~1100年(93%)の試料もあるとされます。(弥生時代の開始年代http://www.initiative.soken.ac.jp/journal_bunka/050509_fujio/thesis_fujio.pdf
今村峯雄(国立歴史民俗博物館名誉教授)

つまり、水田稲作の遺構は、朝鮮半島よりも日本列島の方が同時期か若しくは古い場合もあることから、水田稲作が朝鮮半島から日本列島へ伝わったとする藤尾副館長の主張や「発掘された日本列島」の説明は適切ではありません。
 
藤尾慎一郎(国立歴史民俗博物館副館長)

この展覧会「発掘された日本列島」は、新たに発見された遺跡の成果を示す展覧会ではありますが、水田稲作は、朝鮮半島経由であると断定的に説明されており、後述のDNA解析など新しい研究成果を十分に踏まえているとは言えないと感じます。
 

<温帯ジャポニカのDNA解析>
 

実は、温帯ジャポニカのDNA解析からも、朝鮮半島から日本列島へ水田稲作が伝わったとは言えないようです。ほぼ水稲の栽培種である温帯ジャポニカ種の遺伝子配列には、RM1-AからRM1-Hまでの8種類があります。中国大陸にはこれらの8種類すべてがあり、RM1-Bが最多です。これに対して朝鮮半島では、RM1-Bが発見されていません。

日本の水田稲作の多くは、温帯ジャポニカであり、RM1-A,B、Cの3種類のみであり、このうちRM1-Bが最多で次にRM1-Aがあり、RM1-Cはほとんどありません。

温帯ジャポニカのRM1-Bは、日本列島と中国大陸で最多であるのに対して、朝鮮半島にはありませんので、これをどのように理解するのかです。
 
まず、少なくともRM1-Bに関しては、朝鮮半島から日本列島に伝播したという可能性はゼロです。
ということは、これにとどまらず、北部九州と朝鮮半島南部で同時期に始まった水田稲作について、縄文人が朝鮮半島にある7種類のうちからBを除くAとCだけを選択できるはずもありませんから、RM1-B以外の温帯ジャポニカについても、朝鮮半島から日本列島へ伝播されていない可能性が濃厚です。
 
中国では90品種のうち61品種にRM1-B遺伝子を持つ稲が見つかり、朝鮮半島では、55品種のうちRM1-B遺伝子を持つ稲はありません。
また、日本列島では、在来種のうちインディカを除くジャポニカ65品種は、大部分がRM1-AとRM1-Bのほか、わずかにRM1-Cの3種類があるだけです。
 
とすると、朝鮮半島にあって日本列島にはないRM1-D、E,F,G,Hも、朝鮮半島から伝播していないのは自明です。であれば、RM1-AとCだけが朝鮮半島から日本列島へ伝わったと考えるより、RM1-A、B、Cはすべて中国大陸から日本列島へ直接伝播したと理解するほうが素直でしょう。
 
 
<野生種と栽培種>
イネ科イネ属の植物は現在22種が確認されています。
このうちアジアイネとアフリカイネが栽培種で残りは野生イネです。
狭義的には、世界的に栽培されているアジアイネが栽培イネです。

このアジアイネには、比較的耐冷性の高いジャポニカ種と低いインディカ種の2系統の種があり、その中間の品種もあります。
また、ジャポニカ種には温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカがあります。

一般的には、日本国内にはイネの祖先である野生種が存在した形跡が無いことを理由に日本国外において栽培種となったイネと栽培技術が伝播したと考えられています。

栽培種の有力説は長江中下流域ですが、これに反して、次のとおりゲノム解析から次の珠江中流域とする説もあります。

  イネの栽培化は、中国の珠江中流域ではじまり、O. rufipogon(野生イネ)のかぎられた集団からジャポニカ(O. sativa japonica)の生まれたことが明らかになった。また、ジャポニカの誕生につづいて、東南アジアや南アジアの野生イネ系統とジャポニカとの交配によりインディカ(O. sativa indica)の生まれたことが判明した。
『イネの栽培化の起源がゲノムの全域における変異比較解析により判明した』2012年、倉田のり教授・久保貴彦助教(国立遺伝学研究所 系統生物研究センター植物遺伝研究室)
 
いずれにしても、アジアの野生イネから栽培イネのジャポニカが生まれたという点については同じであり、ポイントはアジアの野生イネです。

従来、インディカから進化したと考えられていたジャポニカ種の稲が、最近の野生イネのDNA分析の研究によりまず野生イネからジャポニカが生まれ、次いで一年生の野生種と自然交雑してインディカ種ができたとされます。最新の知見です。

また、栽培イネの多様性については、稲の栽培の北上につれて遺伝的多様性が少なくなったために、日本の稲は多様性がないと考えられています。
 
例えば、イネの栽培前線の北上に伴う寒冷適応に関する遺伝子とアイソザイム6型遺伝子が遺伝的に連鎖している可能性が考えられます。このようにイネの栽培前線が北上するに従って、遺伝的多様性が失われてきました。その意味で、日本のイネは非常に多様性が少なくなっていると考えなければなりません。 (日本のイネ育種の軌跡と行方 - 日本農業研究所)
 注.アイソザイム:タンパク質分子としては別種の酵素
 
気温が低い朝鮮半島の方が日本列島より遺伝子配列の種類が多いので、これからすると「北上するに従って、遺伝的多様性が失われてきました」という説明は疑問です。
一方で、栽培イネの多様性が起源地を示すとするのであれば、ミャンマーや中国雲南省が一番多様性があるとされますから、これらの地域がジャポニカの起源であると思われます。
ただ、必ずしも稲作の広がりとともに多様性が失われていくことばかりではなく、むしろ、遺伝性が多様化することもあるように思われます。
 
 
<ジャポニカとインディカ>
最近まで稲作栽培の起源は、野生稲から栽培種であるインディカが発生し、その後にジャポニカが誕生したとされていました。ところがイネのDNA分析により野生種の段階で一年草のインディカと多年草のジャポニカが存在していたことがわかってきました。つまりインディカとジャポニカは2つの品種群ではなく、まったく別の種であると考えるのが妥当とされるようになりました。

しかも、最新の知見では、野生イネからジャポニカが生まれ、その後にジャポニカと一年草の野生イネの自然交配によってインディカが生まれたとされます。
 
また、東アジアにおける紀元前5000年紀(紀元前5000年~前4001年)の稲は全てジャポニカであったことが判明しています。
参考1:熊本大学学術リポジトリ「農耕社会の形成」、甲元眞之(熊本大学名誉教授、考古学者)、P45、2008年
 
しかし、日本の在来イネ73品種の内訳については、8品種がインディカであり、残り65 品種がジャポニカに属しています。そのジャポニカの内訳は次のとおり分類されます。
①陸稲グループ(JA)
②陸稲・水稲混合グループ(J-B)
   ・陸稲グループ(J-B1)  熱帯Japonica    水稲から転用された陸稲
   ・水稲グループ(J-B2) 温帯Japonica
③水稲グルー プ(J-C)
 
とすると、要するに日本列島では、インディカもジャポニカもあって、また熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカもあって、熱帯ジャポニカはすべて陸稲ですが、温帯ジャポニカにも陸稲があり、さらに水稲から転用された陸稲もあり、多様になっているように思われます。
 
 

<陸稲発祥の地>
中国・江西省万年県にある仙人洞・呂桶環(せんにんどう・ちょうようかん)遺跡は、紀元前12000年頃の洞窟遺跡で、石器、骨製器、丸底土器の破片のほか、野生種から栽培種への過渡期の米粒が発見されました。

中国・湖南省道県にある玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡は、紀元前14000~12000年頃の洞窟遺跡で、ここでは稲の籾殻が見つかっていますが、農具が未発見であるため栽培稲であるかは未確定です。        
         
湖南省の彭頭山(ほうとうざん)遺跡では、紀元前7000年の稲籾が発見されました。
 

AMS法の利用や研究が進んだことによって、日本列島における土器の使用開始時期が急ピッチで古くなっており、縄文土器の始まりは16000年前になっています。1990年代には縄文土器の始まりを10000年前と言っていたのですから大幅な前倒しです。

なお、この世界最古の縄文土器については、kamakuraboyさんが「縄文土器(世界最古の土器)」のタイトルで、ちょうど2年ほど前にコメントされていますね。

https://blog.goo.ne.jp/eternalturquoiseblue/e/1cf732ed6af2d82b832cf2d02c4fa0bf

 

土器は煮炊きに利用されるものですから、土器が16000年前つまり紀元前14000年ごろに日本列島で発明されたのであれば、焼畑のように畑による稲作は、縄文時代後期ではなく縄文時代前期の土器発明とそれほど離れていないことが予測されます。

これを裏付けるように、縄文時代前期の地層から稲のプラント・オパールが発見されつつあります。

 
陸稲発祥の地は、インディカ種がインドのアッサム地方が原産で、ジャポニカ種が中国の雲南省が原産と言われてきましたが、中国の長江下流域にある新石器時代の上山遺跡(浙江省浦江県)から1万年前の世界最古の栽培稲のもみ殻が発見されるとともに、8500~1万年余り前の初期稲作の遺構が見つかっており、プラント・オパールの形状解析やDNA分析の結果はいずれもジャポニカ種でした。また、栽培種かどうかは確定していませんが長江中流域の玉蟾岩遺跡(湖南省)や仙人洞遺跡(江西省)からも1万年前のもみ殻が見つかっており、長江中下流域を稲作発祥の地とするのが通説となっています。
 
 
なお、長江文明は中国北部の畑作牧畜を営む漢民族の南下により滅びています。
 
1990年代にジャポニカ長江起源説を提唱した佐藤洋一郎名誉教授は、「はじめに南から陸稲がやってきて畑稲作として定着し、つづいて中国から(あるいは朝鮮半島南部を経由して)水田稲作と水稲が渡来したと考える。」とされます。
しかし、その著作の10年後に行なわれた「こだわりアカデミー」の対談(2003年)では、「水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?」の問いかけに「稲は朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。」とあります。
「(あるいは朝鮮半島南部を経由して)」の考えを幾分修正したかのようです。 
 https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
参考2 佐藤洋一郎(農学者、総合地球環境学研究所名誉教授)『日本のイネの伝播経路』1992年
 
 
先にも述べたようにRM1-A、Cも朝鮮半島由来ではなさそうです。
 
日本では稲モミの圧痕については、熊本県本渡市の大矢遺跡から5000年前から4000年前の土器にあるのが最古のようです。また、炭化米については、岡山県の朝寝鼻貝塚から発見され、約6000年前の熱帯ジャポニカと分析されています。

畑遺構としては、松山市文京町にある文京遺跡が、もっとも古く縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭の畑跡とされるほか、稲籾を含む等高線に直交する畝が発見された三沢蓬ヶ浦遺跡(福岡県)が弥生時代前期とされます。

やはり、陸稲についても、稲作発祥の地とされる長江と日本列島の遺跡との時間的隔たりをどう捉えるかが問題です。

 
<水田稲作発祥の地>
水田稲作は、6000年前の長江下(揚子江)流域が起源という説が有力とされます。
長江下流域の草鞋山(そうあいさん)遺跡では、紀元前4000年の水田遺構が発掘され、検出されたプラントオパールの形状は温帯ジャポニカです。また、紀元前7000年の稲籾が発見された彭頭山遺跡の西方に位置する環濠集落を伴う城頭山(じょうとうざん)古城遺跡からも、紀元前4,500年の水田遺構が発見されています。

これらのことから水稲や水田稲作技術は中国大陸の長江下流域から日本列島に伝播したとする説が有力になっています。

となると、6000年前の長江下流域の水田遺跡と3000年前の北部九州の水田遺跡である石木中高遺跡や菜畑遺跡とは、3000年程の時間的隔たりがあり、水田稲作についても、これをどう捉えるのかが問題です。
 
6300年前の完新世の高温期の終焉に連れて、冷涼化・乾燥化が始まり農作物の収量が減少したことが影響しているのではないかと思われます。農作物が減少したため中国北部の黄河地域において畑作牧畜を営む漢民族は、より暖かい長江地域へ南下します。
3000年前には、稲作と漁労に生業の基盤をおいた長江文明は滅びています。長江文明の滅亡に伴い中国大陸から海外に逃げた人々が暖流に乗って、北部九州や朝鮮半島南部に辿り着き稲作技術をもたらしたと説明できるのではないかと現時点では思います。
 

<イネの伝播ルート>
稲の伝播のルートは、一般的に、
 ①中国大陸からの直接伝播、
 ②朝鮮半島ルート、
 ③南西諸島ルートに大別できます。

『日本のイネの伝播経路』(佐藤洋一郎、1992年)の時点の図では朝鮮半島にも温帯ジャポニカがあるようになっていますが、「こだわりアカデミー」(2003年)では朝鮮半島には温帯ジャポニカは皆無であるように図示されており、朝鮮半島経由の温帯ジャポニカの伝播ルートについては可能性が低そうです。また、南西諸島経由については、古い陸稲の痕跡が無く可能性は低いと思われます。
 
ただし、佐藤教授は、熱帯ジャポニカのほとんどが南西諸島の八重山から沖縄本島に残っていることを、熱帯ジャポニカの南方ルートの根拠にされています。これは、島伝いのルートに固執されているからだと思われます。
朝鮮半島南部も熱帯ジャポニカがありますから、南西諸島経由だけを主張されるのは論理の平等性に反します。
 
イネ雑種弱勢原因遺伝子Hwc-2  と 劣性 hwc-2  
(雑種植物が極端に虚弱化することを雑種弱勢という)
 
 
熱帯ジャポニカに限れば、長江下流域から、フィリピン、台湾、南西諸島、日本列島、朝鮮半島、それぞれに直接伝播したとする考え方もありうるでしょう。
 
かつては岡山県朝寝鼻遺跡彦崎貝塚のプラント・オパールが6000~7000年前で最古とされていましたが、興味深いことに島根県板屋Ⅲ遺跡において、13,000年前の層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている1万年前の長江中下流域よりも古い年代となっています。
 
イネのプラント・オパール  左:現在、右:板谷Ⅲ遺跡

また、鹿児島県上野原遺跡では、テフラ(BP9000)直下の9500年前の土壌試料からイヌビエ(Echinocloa属)のプラント・オパールを検出しており、イヌビエと栽培ビエは極めて近縁で共に食用になります。上野原遺跡では集落跡が確認され、ヒエの粗放栽培が始まっていた可能性が充分に考えられます。

参考3:熊本大学学術リポジトリ『農耕社会の形成』、甲元眞之(考古学者、熊本大学名誉教授)、P43、9~12行、2008年
     「鹿児島県で11000年前の層からイネのプラント・オパールが発見」
参考4:熊本大学学術リポジトリ『九州先史時代遺跡出土種子の年代的検討』、甲元眞之ほか、P172、5~7行、2003年
     「鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩. 火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出」

参考5:『日本の穀物栽培・農耕の開始と農耕社会の成立』、藤尾慎一郎(国立歴史民俗博物館副館長)、117頁、9~10行、
     および註(2)、2004年。
      島根県板屋Ⅲ遺跡の縄文前期末に相当する包含層から,キピ属とイネのプラント・オパールを発見。AMS法で10950B.P.。
     B.P.は1950年基点なので14C B.C 9000年(紀元前9000年)。

参考6:『板屋Ⅲ遺跡におけるプラントオパール分析による栽培植物の検出結果とその考察』、高橋護(元岡山県立博物館副館長)、
      232頁、6~8行、2003年、イネのプラントオパールが検出された第4黒色土層でのAMS法でCal.B.C.10950。
     cal B.C.は較正後の年数なので紀元前10950年。

参考7:『水田稲作以前の稲作存否に関する実証的研究』、藤原宏志(元・宮崎大学農学部教授、元学長)、1997年、テフラ(B.P.9000)直下の土壌試料からイヌビエ(Echinocloa属)のプラント・オパールを検出。
 
とすると、稲の第2の起源は、島根や九州南部などの日本列島である可能性もゼロではないことになります。
参考4(2003年)では鹿児島内のイネのプラント・オパールで「12000年前の下層から」と記述されていましたが、参考3(2008年)では新しい知見で「11000年前の層から」と時代修正がなされています。
ところが、参考6では、板屋Ⅲ遺跡が紀元前10950年(13000年前)となっており、これが世界で最古の栽培イネのようです
 
なお、板屋Ⅲ遺跡の紀元前10950年10950年前の稲のプラント・オパールは、現代の栽培されたアジアイネの組織と一致することなどから熱帯ジャポニカの栽培種とされます。*ここのところ研究論文の錯綜があり従前を見え消しにして記述を修正。
 
日本列島における世界最古級の稲のプラント・オパールの時期は、紀元前10950年11000年前です。
13000年前11000年前の栽培種のプラント・オパールが発見された島根県板屋Ⅲ遺跡を始め、縄文時代草創期(約13000年前~10000年前)の遺跡から稲作の遺構が発見されるのは時間の問題であるように思います。