うちの一族は、町では結構知られた発達障害一族だと思います。ですので、時々、何の関係もない他人から(あちらは長年の近所だからとお考えのようですが、そもそも交流がありません)おもむろに相談を受けることがあります。



一番多いのは、定型一般の子供さんの不登校の相談 です。その次に多いのが、機能不全のご家族の悩み相談です。定型さんの不登校については、以前の記事でふれているので、今回は機能不全のご家族の悩みについて思う事を書きます。



相談された時に頭の中で「機能不全の家族の相談」と、私達が勝手にカテゴリー分けしていることには理由があります。



・ 親が一生懸命で真摯であるのに、子どもの精神状態が非常に悪いケース


・ 会話していて、結論ありきで、第三者の意見はとうてい受け入れられない(医者やカウンセラーを含む)


・ 家族同士での不和が顕著であるにも関わらず、「愛」という言葉でその状況を維持しようとしている



この、最後のところが一番大きいかなと思います。「成長した時に、親の愛だと伝わるように」とか「無理に引き離すと、私に愛がないのかと疑われる」とか、とにかく愛情という象徴的な見えない物にしばられて、結局家庭は大混乱、家族全員が荒れたり、八つ当たりしたり、兄弟で過激ないじめがあったり、親に暴言があったり、とにかく私達の家庭から見ると信じられないぐらいにムチャクチャな状態になっています。



愛があれば、平和で、誰もが安心できて幸せなのでは??

定型の世界では、愛は試練なのか??


そう思わずにはいられないほどの、「親の子への愛情」「兄弟の友愛」にしばられた状態に見えるんです。



私達は冷めていると言われようが、結果が悪ければ何かが問題なのだ、という考え方をします。原因をつきつめたい論理的に把握したい衝動が生まれます。家族のだれもが原因に思い当らない、アイデアも出てこない、しかし家庭内の状況が悪いとなれば、いくら私達でも第三者の意見を聞きます。けれど、どんなに悪い状況であっても「これが正しいと信じて」医者の意見は聞くけど実行できない、納得がいかない、と親が頑張ってしまうみたいですね。親は大人だから頑張れるでしょうが、子供はどうなんでしょうか。所謂、アダルトチルドレンになりませんか。



どんなに愛があったとしても、兄弟のどちらかが、常にそばにいて一方の兄弟を攻撃する、親が子供の欠点に我慢できず日常的に攻撃する、夫婦が互いのカンに障り、常に罵り合い時には暴言、暴力をする、という状況があれば、それは親が子供を戦争状態に意識的に置いているのと同じです。大人として家庭内で平和を保障できないぐらいに力がない、手段がない、方法もないとくれば、他者や他の機関の手を借りてでも、攻撃を浴びている子供を救い出す、親が自分のやり方を変える方法を模索する、自分の身を守りかつ子の安全も確保する、というのが当然ではないかと思うのですが・・・


兄弟により陰湿ないじめ的攻撃についても、片方を家から出すということは「自立させる時期が早く来た、より精神が健康な時にと急いだ」という解釈はできないものでしょうか。兄弟にいじめぬかれて、精神的に病んでニートになり自立できない状態になるまで、兄弟で暗い経験を積んで憎しみ合うまで家にしばることはないと思うのです。同じように、互いを攻撃しあう夫婦関係についてもそうです。それは愛というより、束縛や執着なんではないか・・・マイナスにしかならない愛というのは、結局のところ個人の欲でしかないと思うのは冷血漢でしょうか。この辺りの感情が良くわかりません。



こういう意見を出すと、必ず「親が子供を捨てた、見放したと思われる」とか「片親だと子供が不憫だから私が我慢すれば」という風に泣かれます。その人の子供はもう自立できる年齢でした。その場で伝えたこととしては・・・うちの子達だと、逆です。長じて、大人になった時に「自分は子どもでどうにもできない状況だった。なのに親は見て見ぬふりをして、兄弟が攻撃するのを許した。自分は深く傷ついて今も辛い。親を許せない。」とか、「親がいても家庭が地獄なら、親は離婚して俺らは自分一人で生きていく方が希望が持てる」言うと思いますね。


そうしないときっと恨まれます。障害の特徴として記憶が消えない、その時の場面、場面が映画のワンシーンのように脳に永遠保存されるぐらいの子達ですから。しかも、一人が結構好きな人間が多いので・・・(これは定型一般の家族で寄り添って支え合う、という価値観とは全く違う点です)。そして、私が戦争状態を放置した場合、いかなる理由があろうと、それは確かに私の不手際だと感じます。子を産んだのは私の都合であり、子達はそこに責任を負わされる必要はない、と考えます。子供は成人まで自分ではどうにもできないのですから。



決まって、片方の兄弟を家から出せば、片方が恨む、というのですが、問題ある方を家庭で丁寧に対応して、問題ない方を外に避難させればよいのでは、と単純に思うわけです。ですが、それが「親が子を捨てた」という解釈になるようで、そこがやっぱりわかりません。距離をあけて安心して過ごせる環境を用意してくれた、ということは、愛情にはつながらないのでしょうか??片親が、片親を罵倒したり暴力をふるう姿を見るのは、それに耐える親の愛情だと子供は心から理解できるのでしょうか??心の傷になる場面から避難させてもらえれば、大人になって、自分が辛かった時に緊急避難させてくれた親の行為に賛同し、それが後から親の愛情を感じる、ということになるのでは・・・と思うのですが。



親子の愛情とつながり、というのは常に傷つけあったとしても、べったりとそばにいることなんでしょうか。ここが非定型である私達にはわかりません。小学校時代に陰湿ないじめで不登校にあった親族が、中学から地域を離れ、家を出て寮制の学校へ行きたいと言うなら、それを応援してやりますが、これと同じ考え方でよいのではと思うのです。子供は自分の身を守るための緊急避難の必要性というのを、大人が思っている以上にきちんと理解していると思うのです。もしかしてうちの一族だけかもしれませんが。



でも、親になって思うことがあります。家族全員の平安と、心の安心を維持する責任は親にあります。夫婦であれば二人とも、お互いに責任があります。どの子、どの夫婦も、等しくリラックスできる家庭である必要があるんじゃないでしょうか。愛情がわからない私達でも、お互いの平安を守り傷つけないことが大事だというのは理解しています。例えば、家庭で補えないことは、公的機関の手助けを借りてもよいのではないでしょうか?



家庭内暴力や、ご夫婦どちらかからの経済的、精神的DVや、そんな家庭内のかなりひどいと思われる不和であってさえ、話を聞いていると、結局のところ「愛」のために我慢、「愛」のために一緒にいる、と結論があるのです。解決を望みつつ、手放したくない愛を最上のものとして語られるのですが、聞けば聞くほどにその価値がさっぱりわからなくなります。



最後に、よく「子供が発達障害かもしれない。だからこんなことになったのかも。」と言われますが、発達障害以前の問題だと思うので、まずは子供は医療機関で検査すればすぐに障害があるかどうか判断がつきますが、それよりも家庭内の家族間の機能不全状態をどうにかしないと、誰がそこにいても辛く悲しい生活になるのでは・・・と思わずにはいられません。


正直なところ、発達障害の問題よりも、機能不全の問題の方が深刻なのではないかと思います。障害には特徴があり、工夫や対策で何とかなることが多いですが、機能不全の場合は心が縛られた状態の大人が、子供を同じように捕縛していくような、そんな見えない精神上の病巣がある気がします。一人の個人の問題ではなく、家族全員がまきこまれるというのは、かなり重大な問題ではないかと。これは医療の手をかりないといけないケースだと感じます。



ということで、私の個人的な見解としては、「発達障害児がいる家庭は親も子供もみな苦しんでいる、うちと同じだからアドバイスがほしい」というような考えで意見を求められても、それは違う、家庭とその家族自身が持つ問題だ、障害は関係ないよ、と返答したいと思っている次第です。








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