東京裁判(極東国際軍事裁判)で「戦争責任」は、最も国民に忠誠を尽した軍人、特に陸軍に押付けられ、多くの将校が絞首刑になった。
 
戦後70年を過ぎてようやく、当時の資料がつまびらかに成りつつあります。ご覧頂いた皆さんの考える「戦犯」は誰だと思われますか?
改めて、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦前夜の政治家、官僚、軍中枢、マスコミなどの関係者を拾い出してみた。年齢は日米開戦(昭和16年)の年末で算出しています。
 
宜しかったら、記事の下部「コメントする」から気軽に教えてください。
 

東條英機 Tōjō Hideki 開戦時の総理大臣
東條英機 明治17年(1884)~ 昭和23年(1948) 開戦時:57歳
陸軍大学校を首席卒業、陸軍省動員課長、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次近衛内閣で陸軍大臣。第三次近衛内閣が総辞職後、首班の裁可が下りる。新聞と世論の「開戦止む無し」を抑えきれず開戦。フィリピン、マレー半島で大勝するが、南方戦線を拡大しすぎて徐々に後退。米国が絶対国防圏を突破した事で、東條は責任取り辞任。
気配りの人、現場主義の権化、カミソリ東條、一種の恐怖政治、華族になりたかったなど…評価は分かれるが、昭和天皇の「東条を非常に高く評価している」とのお言葉もある。A級戦犯として巣鴨プリズンで絞首刑。

近衛文麿 Konoe Fumimaro 開戦直前までの総理大臣
近衛文麿 明治24年(1891)~ 昭和20年(1945) 開戦時:50歳
五摂家の筆頭の家系に生まれ、京都大学時代に、共産主義者の経済学者・河上肇、被差別部落出身の社会学者・米田庄太郎に学んだ。第二次近衛内閣は「昭和研究会」の推進する「新体制運動」に基づき日米開戦に備えて「基本国策要綱」を閣議決定し、一国一政党を目指す「大政翼賛会」を設立、日独伊三国軍事同盟」を締結した。
終戦の年には自らの左傾化を悔いて「近衛上奏文」を奏上するが、終戦後にA級戦犯に指名され自殺。

米内光政 Yonai Mitsumasa 第二次近衛内閣直前の総理大臣
米内光政 明治13年(1880)~ 昭和23年(1948) 開戦時:61歳
海軍兵学校29期、日露戦争に従軍して山本五十六と親交。海軍大学校甲種学生12期、林内閣の海軍大臣。昭和15年(1940)1月に総理大臣に就任するが、親英米派の米内は、近衛文麿ら新体制運動を静観する姿勢を貫く。三国同盟を支持する新聞に煽られた世論で、「寝たふり内閣」と揶揄されてわずか189日で総辞職。
戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯被告となった米内内閣の陸軍大臣・畑俊六の証人として出廷して畑を極刑から救う。米内は戦犯として裁かれなかったが、公職追放中に肺炎で死去。

及川古志郎 Oikawa Koshirō 第三次近衛内閣の海軍大臣
及川古志郎 明治16年(1883年)~ 昭和33年(1958年) 開戦時:58歳
海軍大学校13期、支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官に就任。昭和14年(1939年)海軍大将。第二次近衛内閣の海軍大臣の任期中に日独伊三国同盟、仏印進駐、日ソ中立条約締結や帝国国策遂行要領の決定などが決定された。戦時中は海上護衛司令長官、軍令部総長を歴任。
戦後は一時公職追放となったが、戦犯は免れた。

木戸幸一 Kido Kōichi 第三次近衛内閣の内大臣
木戸幸一 明治22年(1889)~ 昭和52年(1977) 開戦時:52歳
京都帝国大学卒業後は農商務省へ入省。近衛文麿の抜擢で、商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。二・二六事件では陸軍統制派と連携して事件処理を行い、その功績を昭和天皇に認められ、文部、厚生、内務大臣を歴任。開戦後、東條内閣を支えていたが、戦局不利と見ると東條を見限り、和平派重臣と提携して和平工作に邁進した。
東京裁判で「木戸日記」は、責任を軍人だけに押付ける結果となった。終身禁固刑の判決を受けたが、健康上の理由で仮釈放された。

松岡洋右 Matsuoka Yōsuke 第二次近衛内閣の外務大臣
松岡洋右 明治13年(1880)~ 昭和21年(1946) 開戦時:61歳
オレゴン大学法学部卒、外交官及領事官試験に首席合格して外務省入省。外務省退官後、満鉄の理事、副総裁を歴任。衆議院議員総選挙に当選(政友会)。満洲国承認を巡って国際連盟総会に首席全権として「十字架上の日本」で参加各国の共感を得たが、日本は脱退する結果となる。開戦前の日米交渉で突然「ハルノート」を突付けられ断念。
敗戦後はA級戦犯容疑者に指名され、一度の出席で罪状認否で、全被告人中ただ一人無罪を主張。結核悪化で加療中に病死。

賀屋興宣 Kaya Okinori 東條内閣の大蔵大臣
賀屋興宣 明治22年(1889)~ 昭和52年(1977) 開戦時:52歳
大蔵省に入省し、主に主計畑。陸海軍予算を担当し若手軍人と親交。「昭和研究会」常務委員、第一次近衛内閣で大蔵大臣となり、「賀屋財政経済三原則」を発表。東條内閣大蔵大臣時代には戦時公債を濫発、増税による軍事費中心の予算を組み、戦時体制を支えた。
戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑となったが、昭和33年(1958)に減刑された。第28回衆議院議員総選挙に立候補し当選。米中央情報局(CIA)、蒋介石政権に広い人脈を持っていた。

鈴木貞一 Suzuki Tēichi 第三次近衛内閣の国務大臣兼企画院総裁
鈴木貞一 明治21年(1888)~ 平成元年(1989) 開戦時:53歳
陸軍大学校卒業後、「背広を着た軍人」と呼ばれていたように、実戦部隊での経験はあまり無く、対外的・官僚的な仕事に携わるケースが多かった。第3軍参謀長から興亜院政務部長、第三次近衛内閣で国務大臣兼企画院総裁に就任。
極東国際軍事裁判で鈴木がA級戦犯として告訴された最大の要因は前述の御前会議において開戦を主張したことにあるとされている。終身禁固の判決を受け服役。昭和33年(1958)に減刑された。

風見章 Kazami Akira 第二次近衛内閣の司法大臣
風見章 明治19年(1886)~ 昭和36年(1961) 開戦時:55歳
早稲田大学政経から朝日新聞記者など経て信濃毎日新聞主筆。岡谷製糸争議で共産党員を擁護、共産党宣言を賛辞する記事を連載。その後、衆議院議員になり第一次近衛内閣で書記官長に抜擢。盧溝橋事件で政府の不拡大方針に反して、報道関係に「近衛の北支派兵声明」と発表して和平交渉を壊す。「昭和研究会」世界部門委員。
戦後は、政界復帰して左派社会党。憲法擁護国民連合代表委員、日ソ協会副会長、日中国交回復国民会議理事長などで活動。

有沢広巳 Arisawa Hiromi 陸軍省戦争経済研究班 英米班主査
有沢広巳 明治29年(1896)~ 昭和63年(1988) 開戦時:45歳
東京帝国大学経済学部の第一期生で、大内兵衛に師事してマルクス経済学を学び統計学助教授。大内らと共に人民戦線事件で治安維持法違反で起訴。昭和研究会で「日本経済再編成試案」を作成した。
戦後、東大経済学部に教授として復帰、日本統計学会会長、法政大学総長、日本原子力産業会議会長、学士会理事長、日本計画行政学会会長などを歴任、中国社会科学院より名誉博士号を授与。

石黒忠篤 Ishiguro Tadaatsu 第二次近衛内閣の農林大臣
石黒忠篤 明治17年(1884)~ 昭和35年(1960) 開戦時:57歳
東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省、農林次官を務めて退官、農村厚生協会会長、産業組合中央金庫理事長などを歴任して「石黒農政」と呼ばれた。「昭和研究会」常務委員。第2次近衛内閣の農林大臣に就任。
戦後は、公職追放解除後、第2回参議院議員補欠選挙に立候補して当選(緑風会)。憲法調査会委員、全国農民連合会会長、全国農業会議所理事、全国農業協同組合中央会理事等を歴任。

板垣征四郎 Itagaki Seisirō 朝鮮軍司令官
板垣征四郎 明治18年(1885)~ 昭和23年(1948) 開戦時:56歳
陸軍士官学校は第16期、関東軍の高級参謀、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。第一次近衛内閣改造で陸軍大臣。朝鮮軍司令官となってからも東亜連盟運動に関与。板垣の「桐工作」では、汪精衛、蒋介石政府の合作を仲介を試みた。
第七方面軍司令官としてシンガポールで終戦を迎え、イギリス軍に身柄を拘束。極東国際軍事裁判では死刑判決を受け絞首刑。

武藤章 Mutō Akira 陸軍省軍務局長
武藤章 明治25年(1892)~ 昭和23年(1948) 開戦時:49歳
陸軍大学校卒、参謀本部作戦課長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長で、最後まで対米交渉の妥結に全力を尽くす。開戦後は戦争の早期終結を主張して東條らと対立。終戦前年に>山下奉文の希望で第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任。
東條英機は判決後、「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と武藤に漏らしたと云われる。武藤は巣鴨はプリズンで絞首刑。

秋丸次朗 Akimaru Jirō 陸軍省戦争経済研究班
秋丸次朗 明治36年(1898)~ 平成4年(1992) 開戦時:43歳
陸軍高等経理学校を卒業、東京帝国大学経済学部に派遣。その後、陸軍中野学校を作った軍務局軍事課長・岩畔豪雄大佐の元で昭和14年に経済戦研究班(秋丸機関)を結成。各界の知識人を集めて英米独などの経済力を徹底分析し経済戦略を構築。最弱点である東南アジア植民地を独立させ経済で英米の国力を削ぐ戦略だった。しかし海軍が真珠湾に固執し米国を本気にさせた。
日米開戦前に「戦争回避」とGHQに受止められた。福島県の飯野町の町長を二期務め、その後は社会福祉協議会を設立し会長を長く勤めた。

永野修身 Nagano Osami 海軍軍令部総長
永野修身 明治13年(1880)~ 昭和22年(1947) 開戦時:61歳
元々政治家を志して東京帝国大学への入学を希望たが、海軍兵学校第28期で入学。軍事学以外にも政治、経済、外交、科学など幅広く専門書籍を読み続ける。卒業して海軍少尉、海軍中尉に進級。日露戦争後、海軍兵学校長、広田内閣の海軍大臣。昭和16年(1941年)軍令部総長に就任。海軍内で日独伊三国同盟を推進。
A級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷。裁判途中の昭和22年(1947年)急性肺炎で巣鴨プリズンから聖路加国際病院へ移送後に死去。

山本五十六 Yamamoto Isoroku 連合艦隊司令長官
山本五十六 明治17年(1884)~ 昭和18年(1943) 開戦時:57歳
海軍大学校乙種学生を卒業。昭和14年(1939)連合艦隊司令長官に就任。南方の持久作戦を推奨する軍令部に反し、真珠湾攻撃を積極的に推進し航空戦で圧勝する。昭和17年(1942)空母4隻とその搭載機の全てを喪失したミッドウェイ海戦後も戦線を東南海域に拡大して、ガダルカナル島まで進出した。
昭和18年(1943年)4月18日、前線を視察中にブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され戦死。

後藤隆之助 Gotō Ryūnosuke 近衛文麿の側近
後藤隆之助 明治21年(1888)~ 昭和59年(1984) 開戦時:53歳
ヒトラー、スターリン、ルーズベルの政策に感銘を受ける。その後「昭和研究会」を設立し、左翼から右翼まで広い人脈を結集した。戦後は公職追放の解除後、参議院議員に当選して、山本有三らと貴族院議員からのスライド組、官僚出身者、文化人などを集めて「緑風会」を結成し、参議院最大会派となった。師弟には社会主義インターナショナル副議長の永末英一、日本社会党の滝井義高、後の総理大臣・宮澤喜一、新日本製鐵社長になった武田豊らがいた。

後藤文夫 Gotō Fumio 貴族院議員
後藤文夫 明治17年(1884)~ 昭和55年(1980) 開戦時:57歳
内務省官僚出身で「天皇陛下の警察官」を自称。「新官僚」の代表と見られる。台湾総督府総務長官時代に台中不敬事件で総務長官を引責辞任。貴族院勅選議員に勅任。「国維会」を近衛文麿らとともに発起し理事。「昭和研究会」常務委員、「大政翼賛会」事務総長。
戦後はA級戦犯に指名され巣鴨拘置所に拘置るが不起訴により釈放。参議院議員一期(緑風会)、日本青年館理事長、名誉会長。日本の原子力発電導入に尽力。

蝋山政道 Rōyama Masamichi 衆議院議員
蝋山政道 明治28年(1895)~ 昭和55年(1980) 開戦時:46歳
東京帝大在学中に大正デモクラシー・吉野作造の影響を受ける。社会主義的論評雑誌「改造」に出稿。「昭和研究会」常務委員、衆議院議員(大政翼賛会)。
戦後は中央公論社副社長「中央公論」編集主任に就任。公職追放にあうがまもなく解除。公益事業学会理事長に就任、日本行政学会を設立理事長に就任。お茶の水女子大学学長に就任、国際基督教大学教授に就任。民主社会主義連盟理事長として社会党をサポート。

大蔵公望 Ōkura Kinmochi 鉄道院官僚
大蔵公望 明治15年(1882)~ 昭和43年(1968) 開戦時:59歳
東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、渡米してミズーリ・パシフィック鉄道、タイドウォーター鉄道などに勤務。帰国後、鉄道院官僚で南満州鉄道運輸部次長を経て理事に就任。男爵号を継いで貴族院議員、満洲移住協会理事長、拓殖大学専務理事。東亜旅行社の総裁。「昭和研究会」常務委員に就任。
戦後は、東亜旅行社から日本交通公社に改称して会長就任。貴族院議員を辞職して公職追放。

稲葉秀三 Inaba Hidezō 企画院官僚
稲葉秀三 明治40年(1907)~ 平成8年(1996) 開戦時:34歳
東京帝国大学を卒業後、企画院に就職。「昭和研究会」常務委員。
企画院事件」で治安維持法違反容疑で投獄。
戦後、日本初のマクロ経済系シンクタンク「国民経済研究協会」を設立して理事長に就任。サンケイ新聞論説主幹、日本工業新聞社長、サンケイ新聞社長を経て、国策研究会会長。戦後の経済安定本部(後の経済企画庁)の三羽ガラスと言われた。

勝間田清一 Katsumata Sēichi 企画院官僚
勝間田清一 明治41年(1908)~ 平成元年(1989) 開戦時:33歳
宇都宮高等農林学校でマルクス主義に触れ、社会主義的思想を持つ。京都帝国大学から労資協調のための「協調会」に就職。更に内閣調査局に転職し、内調は企画院に組織変更。「大政翼賛会」九州班長に就任するが「企画院事件」検挙。
戦後は左派社会党で党内の理論派、日本社会党委員長に就任。元KGBの職員が持ち出した「ミトロヒン文書」により、勝間田はソビエト連邦の工作員であることが裏付けられた。

正木千冬 Masaki Chifuyu 企画院官僚
正木千冬 明治36年(1903)~ 昭和57年(1982) 開戦時:38歳
東京帝国大学在学中はマルクス経済学を学び、セツルメント運動に没頭。大阪毎日新聞社に入社し「大阪産労」に参加し、野坂参三と知合う。共産党員一斉検挙で4回以上投獄。友人の迫水久常の勧めにより企画院に移って「企画院事件」で逮捕。獄中では尾崎秀実や宮本顕治との交流もあった。
戦後は、内閣統計局次長を経て國學院大學教授に就任。昭和45年(1970年)に日本社会党と日本共産党の連携で鎌倉市長に当選。

青木一男 Aoki Kazuo 大蔵官僚
青木一男 明治22年(1889年)~ 昭和57年(1982年) 開戦時:52歳
東京帝国大学法学部から大蔵省に入省。近衛文麿首相の要請により企画院の創設に携わり、その後総裁となる。貴族院勅選議員となって阿部内閣で大蔵大臣として初入閣。東条内閣で初代大東亜大臣。
戦後はA級戦犯容疑者として収監されるが、その後釈放される。参議院選挙に吉田自由党から立候補して当選。革命勢力の集団的暴力活動に対処する方策や、日教組の偏向教育と勤務評定対策などの攻究と是正に尽力した。

高橋亀吉 Takahashi Kamekichi 企画院専門委員
高橋亀吉 明治24年(1891)~ 昭和52年(1977) 開戦時:50歳
早稲田大学商科から久原鉱業に就職するも馴染めず、石橋湛山が主幹を務める東洋経済新報社に入社。欧米視察を経て「前衛」「マルクス主義」「社会主義研究」で資本主義研究を執筆。高橋経済研究所を創立して「高橋財界月報」を刊行。「昭和研究会」常務委員、企画院専門委員、「大政翼賛会」政策局参与。
戦後は、日本経済研究所の創設、通商産業省顧問、産業計画会議委員等を歴任。拓殖大学教授を務める。

田島道治 Tajima michiji 日本銀行参与
田島道治 明治18年(1885)~ 昭和43年(1968) 開戦時:56歳
東京帝国大学時代に新渡戸稲造家に書生として住込み、無教会主義キリスト教徒。愛知銀行に入行し調査部長を経て鉄道院総裁・後藤新平の秘書となり、外遊後に愛知銀行で常務取締役。昭和金融恐慌後の収拾策で昭和銀行が設立され常務取締役、頭取。「昭和研究会」常務委員、日本産金振興会社社長、日本銀行参与などを歴任した。
戦後は、昭和天皇が宮内府の交代に難色を示したが、宮内府長官に就任。初代宮内庁長官となり宮中の民主主義教育を促進。

東畑精一 Tōbata Sēichi 植民政策教授
東畑精一 明治32年(1899年)~ 昭和58年(1983年) 開戦時:42歳
東京帝国大学農学部で農業経済学を専攻し、ドイツ留学で数量経済学を学び、学友の蝋山政道と「昭和研究会」常務委員、農業問題担当、東大植民政策講座主任教授を兼任。満洲開拓政策に影響を与えた。戦時中は、比島調査委員会委員として占領地運営の社会調査を行った。
戦後は、米価審議会、経済審議会、国民生活審議会、税制調査会、農政審議会など政府諮問機関の委員・会長を歴任。アジア経済研究所初代所長に就任。

三木清 Miki Kiyoshi 京都学派哲学者
三木清 明治30年(1897年)~ 昭和20年(1945年) 開戦時:44歳
京都帝国大学で西田幾多郎に師事した京都学派の哲学者。法政大学文学部哲学科主任教授となる。日本共産党に資金提供をした事で逮捕。その後、ジャーナリズム活動の傍ら「昭和研究会」常務委員として哲学的基礎づけ作業を担当。
治安維持法違反の高倉テルが仮釈放中に逃亡し、三木が逃走の幇助を行なった事で検事拘留処分を受た。豊多摩刑務所に収監されてから、疥癬(かいせん)に起因する腎臓病の悪化で死亡。

那須皓 Nasu Shiroshi 満蒙開拓移民推進役
那須皓 明治21年(1888)~ 昭和59年(1984) 開戦時:53歳
東京帝国大学農科大学教授。「日本農業経済学会」を結成。小作争議や農村の貧困問題の研究を行い、「農政の神様」と称された石黒忠篤農林大臣の側近、ブレーン。「昭和研究会」常務委員、国内農業問題解決のための満蒙開拓移民の推進役を果たす。
戦後は、公職追放から復帰。駐インド兼ネパール大使となり、帰国後「アジア救ライ協会」を設立して理事長に就任。国連食糧農業機関の総会議長に就任するなど国際交流に貢献した。

緒方竹虎 Ogata Taketora 朝日新聞主筆
緒方竹虎 明治21年(1888)~ 昭和31年(1956) 開戦時:53歳
大阪朝日新聞社に入社、朝日新聞社主筆、代表取締役となり、一時は「緒方筆政」と云われた。一方で「昭和研究会」常務委員として、前田多門、佐々弘雄、笠信太郎、尾崎秀実らを送込んだ。ゾルゲ事件で尾崎秀実の逮捕と、親友の中野正剛が憲兵隊に身柄拘束され釈放後の自殺したことで、東條内閣と対立する結果となった。
戦後、公職追放の解除されてから、第25回衆議院議員総選挙で中野正剛の地盤を引き継いで当選し、内閣官房長官、副総理に就く。

前田多門 Maeda Tamon 朝日新聞論説委員
前田多門 明治17年(1884)~ 昭和37年(1962) 開戦時:57歳
内務省官僚から、東京市の助役、朝日新聞論説委員、米国の日本文化会館館長、新潟県知事などを歴任する。朝日新聞時代に「昭和研究会」政治部門委員。
戦後、貴族院議員となり、東久邇宮内閣の文部大臣に就任するが、公職追放になり、娘婿の井深大が起した東京通信工業を、田島道治と田島の友人の全国銀行協会々長の万代順四郎の力を借りて応援し、自ら東通工の社長に就任した。

佐々弘雄 Sassa Hiroo 朝日新聞論説委員
佐々弘雄 明治30年(1897)~ 昭和23年(1948) 開戦時:44歳
東京帝大時代は、美濃部達吉吉野作造の薫陶を受ける。欧州留学から帰国後は、新設の九州帝国大学法文学部教授に就任。中野正剛の「九州日報」で論説、上京して雑誌「改造」や「中央公論」の常連執筆者として政治評論を書いた。東京朝日新聞社に入社、次いで論説委員、昭和研究会」常任委員。
戦後は、参議院議員(緑風会)となり、
熊本日日新聞社の社長兼主筆に就任。次男は内閣安全保障室長の佐々淳行

笠信太郎 Ryū Shintarō 朝日新聞論説主幹
笠信太郎 明治33年(1900)~ 昭和42年(1967) 開戦時:41歳
東京商科大学(現、一橋大学)を卒業して朝日新聞社に入社し、後に論説委員、「昭和研究会」委員。戦時中、スイスのベルンで米情報機関OSSの欧州総局長アレン・ダレス(後のCIA長官)を仲介とした、対米和平工作に協力。戦後もCIAとのつながりが継続。
戦後は、朝日新聞論説主幹、常務取締役・論説主幹を歴任。第一次安保闘争で改定反対、岸内閣退陣の論陣を張ったが、死者が出ると一転「暴力を排し 議会主義を守れ」という7社共同宣言を起案。

尾崎秀実 Ozaki Hotsumi 朝日新聞記者
尾崎秀実 明治34年(1901)~ 昭和19年(1944) 開戦時:40歳
東大大学院で、大森義太郎教授によるブハーリン「史的唯物論」の研究会に参加して共産主義者となる。東京の朝日新聞社に入社。社会部に同輩の田中慎次郎がいて尾崎の協力者になった。
開戦の直前にソ連スパイのゾルゲ事件が発覚し、首謀者の一人として尾崎が逮捕された。日独の情報を取ると共に、日米開戦に仕向ける情報を流し、世論を誘導していた事が判明した。ゾルゲと尾崎らは、裁判で死刑になった。

 
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