悲しくてやりきれない~嫌われプロレスバカの硬くて粘着質な一生~/剛竜馬【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第191回 悲しくてやりきれない~嫌われプロレスバカの硬くて粘着質な一生~/剛竜馬
 

転落したプロレスラーの末路は無性に哀れだ。
リングで命を落とした者、障害を背負った者、生活ができないほどの貧困に喘ぐ者…。
生きながらにして廃人となっていくのが彼等の末路だとしたら、夢と希望を売るエンターテイナーとは光と影の格差が激しい職種である。
 
彼は自分の人生が破滅に向かっていることを悟っていたのかもしれない。彼はプロレス界の問題児であり、嫌われ者だ。それはキャラクターではなくリアルな話だ。あれだけ全盛期には鍛えこんでいた肉体は見る影もなく今やヨレヨレの肉体と化していた。酒の飲む過ぎで肝機能が悪化し、コンディションは最悪。それでも落ちぶれても、衰えても彼は引退することなく。リングに上がり続けた。何のために?プロレスラーを辞めたらもう生きる道がないからだ…。
 
もしかしたら明日にはこの世を去るかもしれない。
肝機能悪化による免疫力低下、一週間前に遭った交通事故で負った骨折の傷から細菌が入り全身に転移している最悪な状況。もしかしたら、最期の会話になるかもしれれないと思ったのかもしれない。彼の携帯電話からかつてのレスラー仲間に着信があったという。しかし、誰も彼の電話には出なかった。そもそも彼は相当な寂しがりやで、ひどい時は一時間に15回もかけるほどの電話魔。レスラー達は彼からの電話はうっとおしかったらしい。
 
病院のベッドの上、薄れゆく意識の中で、彼の脳裏には何が過ったのか。
327人の中から入門テストに合格できた喜びか。
ライバル達との激闘か。
東京ドームで大歓声を浴びた至福の時か。
数々の団体を潰し、多くのトラブルを起こし周囲に迷惑をかけたことか。
ひったくり事件に遭遇し逮捕されたあの時か。
ゲイビデオに出演して、肉体で金を稼いだことか。
 
死期が迫った時、男にこの想いは去来してのだろうか。
 
「俺はプロレスラーになってよかったのだろうか…」
 
レスラー仲間達と電話を話せなかった翌日の2009年10月18日、剛竜馬は敗血症でこの世を去った。
彼が亡くなって8年が経った。
今だからこそ問いたい。
 
「剛竜馬のレスラー人生は何だったのか?」
 
これは嫌われ者がリングにすべてを捧げ、廃人と化していった物語である。
 
剛竜馬は1956年3月23日東京都新宿区三光町に生まれた。本名は八木宏という。少年時代は野球やレスリングをしていた彼は「大金を手にして家族を楽にさせたい」とプロレスラーになる事を決意する。中学の時に兵庫県・神戸に移住していた彼は中学を待たずに上京し、日本プロレスの道場に通い練習生として活動するも、入門することは敵わず、1970年の国際プロレス新人テストを327人の受験者の中から見事に合格する。そして、1972年9月9日に群馬県藤岡市立体育館の米村勉戦で本名の八木宏でデビューする。
 
16歳でデビューした剛は早くも1973年3月に彼はヨーロッパ遠征に旅立つ。ヨーロッパマットと国際プロレスのパイプ役となっていた清美川梅之に預かり形で海外武者修行に出ることになった彼はその後、カナダやアメリカ・フロリダに渡る。カナダでは新日本の長州力とタッグを組んだこともあった。ちなみにまだ10代の彼に注目していたのが当時新日本プロレス営業本部長の新間寿氏である。
 
「彼が国際から海外修行に行っている頃、どこから聞いてきたのかは知らないけど、猪木が"新間、有望な新人が国際にいるぞ"って言ったんだよ。それが剛ちゃんだった。(中略)当時、剛ちゃんは長州と一緒にカナダにいて、あの時は長州本人から、"八木だったら、僕とタッグを組んで一緒にいますよ"と連絡があったんじゃないかな。ロスに呼んで、直接会ったんだよ。確かその時に、"マイク・ラーベル(新日本に外国人選手をブッキングしていたロスのプロモーター)に頼んでやるから、試合を組んでもらえよ"って言った記憶がある。まあ、彼はその後、国際に帰国したんだけどね」
【Gスピリッツ vol・14/辰巳出版】
 
1976年7月に凱旋した彼は国プロと東京12チャンネル主催のファン投票によって新リングネーム『剛竜馬』を名乗るようになる。国際プロレスは彼は次代のエースとして育てようとしていた。端正なルックス、185cm 108kgの恵まれた肉体を持っていた彼は若き逸材だった。金網デスマッチ参戦、IWAワールドシリーズやIWA世界タッグ王座争奪トーナメントにもエントリーし、キャリアを重ねた。
 
だが、1978年5月に剛は突如フリー宣言。国際プロレスを退団する。次代のエースと目されていた男に何があったのか?そこに新間氏からの勧誘があった。
 
「新宿の京王プラザホテルで会ったんだよ。そこで"国際はヨーロッパや カナダにルートを持っているけど、新日本はアメリカはもちろん、カナダにしてもトロントのフランク・タニ―、WWWF'(現・WWE)のビンス・マクマホンの力を借りれば、どこでも試合ができるから。このまま国際にいるのか、それとも自分を試してみるのか。どうするんだ?"というような話をしたよ。そうしたら、剛ちゃんも”本当に新日本プロレスで面倒見てくれるんですか?”ってことになってね。それで"いつフリーになれるんだ?"と聞いたら、"自分は契約をしていません"って言うんだよ。"帰国した時にお金を受け取って、その時に何かサインをしましたけど、それは渡航費などの清算金として貰ったんだと思います。その後、契約したことはありません"って。"それなら藤波辰巳とやってみたらどうだ?どこかで狼煙を上げなよ"ということになってね」
【Gスピリッツ vol・14/辰巳出版】
 
実は剛は国際プロレスのギャラに不満があった。それを飲みの席で先輩によく言っていたという。国際の運営は厳しかった。皆、不満はあった。それでも彼等は国際に残り団体を支えた。
 
 「みんな苦労してきたんだぞ。おまえだけじゃねえんだ!」
 
先輩にはこう説教された。でも、剛はどうしてもお金がほしかった。父は病気で入院中で、3人の妹の生活は彼が面倒を見ていたのだ。だから早急にお金がほしかったのだ。また国際は元ラグビー世界選抜の阿修羅・原を次代のスターとして育てようとしていた。彼は自分の居場所は国際にはないと考えてしまったのかもしれない。その事を公にすることなく彼は裏切り者というレッテルを貼られて国際を去っていった。
 
国際を去った剛をどう扱うのか。新間氏にはある計画があった。剛は新日本と繋がりがあるロスのプロモーターであるマイク・ラーベルと契約させ、外国人選手と同じ扱いで新日本に参戦させようとしたのだ。国際から引き抜いたことをカモフラージュさせるために。
 
「藤波とタイトルマッチをやるためには、まず国際時代とイメージを変えなきゃいけないから、フロリダのヒロ・マツダさんのところでトレーニングをしたらどうかということでね。(中略)科学的な理に適ったトレーニングで、剛ちゃんを体格的にも技術的にも短期間で変えてもらったの。そして何試合かこなした上でロスに来てもらって、藤波に挑戦を宣言したわけだよ。(中略)(剛をマイク・ラーベルと契約させたことについて)やっぱり剛竜馬を守らなきゃいけないし、新日本プロレスの名前を守らなきゃいけない。裁判沙汰になることは避けたかったから」
【Gスピリッツ vol・14/辰巳出版】
 
剛は1978年7月27日に日本武道館大会で藤波が持つWWFジュニアヘビー級王座に挑戦する。剛は藤波に肉薄する。試合には敗れたものの、日本プロレス界の未来のホープとなった。当時24歳の藤波と22歳の剛の若武者ライバル対決によって、ジュニアヘビー級戦線はブレイクしていく。剛は藤波を生涯のライバルとして長年標的にし続けたのはこの抗争があったからだ。
 
剛はその後、ヒロ・マツダ率いる「狼軍団」のメンバーとなり、よりマツダに薫陶していく。フロリダ、ロサンゼルス、カナダに遠征し、修行を積んできてた彼は一年後の1979年10月2日の大阪府立体育会館大会で藤波を逆さ押さえ込みで破り、WWFジュニアヘビー級王座を獲得する。その二日後のリターンマッチに敗れ2日天下に終わるも、彼はジュニアヘビー級絶対王者だった藤波を倒した数少ないレスラーとして語り継がれていく。
 
マイク・ラーベルと契約していたので、新日本のシリーズが終わると、ラーベルがプロモートするロスの大会に出場していた剛。彼は「自分には日本より海外が合っている」と思っていたという。だが、1980年4月2日の大阪府立体育会館大会で藤波に敗れ、新日本入りを決意する。
 
だが新日本入りしてからの剛はなかなか日の目を見なかった。はぐれ国際軍団が新日本に参戦した時に標的にされたが、それも短期間が終わり、前座戦線に甘んじることになった。その一方でコーチとして高田延彦や山崎一夫を厳しく育て恐れられたという。また、、テレビ朝日系列の連続ドラマ『警視庁殺人課』に、菅原文太、鶴田浩二、梅宮辰夫ら東映配役陣と共に刑事役で第13話までレギュラー出演している。
 
1984年1月27日の名古屋大会を最後に剛は新日本を去り、新団体UWFに参加を表明する。UWFには自身を新日本に連れてきた新間寿氏が参画していた。
 
「UWFを設立する時、私が誘ったのはラッシャー木村だったの。ラッシャーとは、東京プロレスで一緒だったしね。(中略)それでラッシャーが国際の後輩だった剛ちゃんに声をかけたんだよ。私が"剛ちゃん、いいのか?"と聞いたら、"新間さんには世話になったんで、僕も入れてください"って」
【Gスピリッツ vol・14/辰巳出版】
 
だが剛はラッシャー木村と共に、半年後の1984年11月にUWFを離脱し、全日本に参戦する。そして、木村、鶴見五郎、阿修羅・原、アポロ菅原、高杉正彦といった元国際プロレスのメンバーで「国際血盟軍」を結成する。元週刊ゴング編集長・清水勉氏は全日本時代の剛についてこう語る。
 
「剛さんが新日本を飛び出して、第一次UWFに参加したのが1984年4月。その年の10月に離脱して、全日本に参戦してる。初試合の日だったかな、インタビューしたんだけど、“全日本に革命を起こす”くらいのデカいことを言うんだよ(笑)単なるレスラー的な自己主張や打ち上げ花火ではなく、使命感や野望に燃えてて。冗談じゃなく、真顔で言うんだよ。新日本での藤波さんとの抗争や、UWF初代マッチメイカーを務めた実績から、“俺が全日本を変えてやる”という責任感につながったんだろう。レスラーとしての自信、マッチメイカーとしての自信に満ちてたんだろうけど、子供の頃からプロレス業界の中だけで生きてきたせいか、考え方に柔軟性を感じなかった。よく言えば生真面目なヒトだったんだよね。人当たりはいいんだよ。でも、ホント昔気質で、それが人によっては取っつきにくく感じられてたみたいだね。あの時代のファイトスタイルも、基本に忠実なしっかりした戦い方で、ともすれば斬新さのない、あまりに正直過ぎる試合だった。例えば上田馬之助さんや鶴見五郎さんとかはヒールに活路を見出して、カブキさんみたいにキャラクターを得た人もいたのに、全日本に来ても剛竜馬は剛竜馬だったんだよね」
【剛竜馬さん追悼企画【その2】剛さんとの最後の会話/Gスピリッツ ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅 】
 
だが国際血盟軍は、同時期に長州力率いるジャパンプロレス参戦で存在感は薄くなっていく。そして、1986年3月で人員整理のため、高杉や菅原と共に、全日本をクビになった。全日本を去り、上がるリングを失った剛。当時の日本プロレス界は新日本と全日本しかなかった。UWFは新日本と業務提携し、活動停止していた。
 
全日本を去ると、建設内装業で下働きし、生活費を稼いでいた剛はアメリカAWAに参戦したり、一シリーズだけ全日本に参戦したりしていた。日本プロレス界次代のホープと目されていた彼はいつの間にかプロレス浪人となっていた。
 
「俺は死んでいない」
 
マスコミが集まる場で彼はいつもこう言っていた。
まだ三十代前半。まだ体力もある。情熱もあるのだ。己のプロレスを開放させることに彼は飢えていた。
 
1988年11月15日に独自にスポンサーを獲得した剛は高杉、菅原の三人で「パイオニア戦志」設立を発表する。それは1989年に日本にインディー団体の概念を生んだ大仁田厚率いるFMWが誕生する半年前に出来事だった。1989年4月30日後楽園ホール大会で旗揚げをしたパイオニア戦志は、高杉が剛と菅原に声を掛けて誕生したという。高杉はパイオニア戦志についてこう語っている。
 
「たまたた剛から電話がかかってきて飲んだんですけど、あいつがみずほらしい格好をしてたんですよ。かつては藤波さんに勝って、一世を風靡した男がヨレヨレの服を着ていて。そこで"もう一回やろう"となって。菅原にも連絡して。旗揚げの時、リングは新日本から借りたんですよ。剛が藤波さんと接点があるから。リングの使用料は、ビックリするほど取られましたね。でも、売れたんですよ、チケットが。3人で一生懸命チケットを売って、全部出ましたよ。会場費、リング代、諸経費を抜いても数百万ぐらい余りましたから。それでみんなで分けて、伊東温泉へ旅行に行きましたよ。あれは初めてだから、みんな観に来てくれたんですよね。俺が最初にやりたかったのは、パンクラススタイル。シューティングがやりたかったんです。ああいうプロレスとはまた違う次元の戦いというか、パンクラスがやっているような形にしたかった。若い奴を育ててね」
【実録・国際プロレス (G SPIRITS BOOK) Gスピリッツ編集部/辰巳出版】
 
パイオニア戦志は空手家の青柳政司も加わり、その後パイオニア軍団として新日本に参戦していくが、なかなか評価は厳しかった。それでも1990年12月に藤波とのシングルマッチで対戦する。
 
「俺にはプロレスしかないから。プロレス無しでは生きて行けない、プロレスバカですよ」
 
彼はこの頃、インタビューでこんなことを言っている。それはプロレスしかない男の本音だった。だが、パイオニア戦志は新日本から提携が終了すると、活動停止に追い込まれる。ちなみに剛と言えば、金が汚いという評判はこの頃から始まっている。高杉はこう証言している。
 
「剛が新日本と話をしてるんだけど、俺には一言も説明しないんだよね。『こういう流れで行くから』ってしゃべらない。長州は『何かあったら言ってくれ』って気にかけてくれたけど。全部コレしようとしたんでしょ(ポケットにお金を入れる仕草)。(中略)。『俺にすべて任せてくれ! 俺が交渉するから』って。俺も面倒だからさ、『いいよ、剛ちゃんに任せるよ』って。でも、青柳が剛のやり方を長州に暴露したようなんだよね。(中略)剛経由でギャラの分配してたから、そこでごまかしてたのがバレたんじゃないかな。パイオニア戦志の半田大会で青柳は剛のやり方を批判したでしょ。青柳は泣きながら『高杉さんも何か言ってくださいよ!』って言ってたけど、いま思えば『そうだよな!』って同意しておけばよかったんだけど。そんなことになってるとは当時は知らなかったから。俺らと新日本はもともと1年契約だったんだけど、1年持たずして新日本との関係は切れたから。でも、青柳だけは新日本に残ったでしょ。そういう理由で剛は新日本から追放されたわけですよ」
【パイオニア戦志 高杉正彦インタビュー〜剛竜馬とウルトラセブンに愛をこめて〜/Dropkick】
 
パイオニア戦志は一時期、SWSに1道場として吸収される話が上がるが、しかしSWSの選手達は皆、反対する。その理由は剛の金がらみの悪評と癖のある性格だったという。高杉によると剛は大の博打好きで宵越しの金は持たないタイプだという。それが金がだらしなくなる体質を生む。そして、剛の父も博打で破滅している。その血を剛は悪い意味で継いでいたのだ。
 
元週刊プロレス編集長のターザン山本氏は剛についてこう評している。
 
「基本的に剛竜馬は体制内というか、組織の中に埋没して生きていくタイプの人間ではなかった。性格的にそれがネックとなっていろんな団体を転々として渡り歩くことになってしまった」
【剛竜馬が嫌われたのにはもう一つの理由があった/プロ格コラム】
「剛竜馬をレスラーとして使おうという団体がいないのだ。普通、団体に所属していないフリーのレスラーなら、なんらかの形でオファーはあるもの。それが彼に限ってはほとんどなかった。これは剛さんの性格からきているのだろうか? みんな使いたがらないのだ。ある部分で嫌われていたというか、敬遠されやすい人物だったといえる。たぶん自分の方から売り込みをしても、いい返事はなかったと思う。これが剛竜馬というレスラーのすべてである。その結果、彼は誰も頼らずに自分の手で団体をおこすしかなかったのだ」
【プロレスバカの剛竜馬はマット界の捨て子だった/プロ格コラム】
 
こうして誕生したのがオリエンタルプロレスだった。
 
1年半の休止後に新スポンサーを獲得して1992年6月に新団体『オリエンタルプロレス』として再出発した。ジェシー・バーをはじめ実力派外国人レスラーの参戦、『出前プロレス』、『ほっかほかビデオ』などユニークな企画で滑り出し数戦は好調だったが、長州の人脈で借りたフロント陣が次々と去っただけでなく、4か月後の同年11月の千葉県船橋市大会(金網デスマッチ、対ブルースブラザース)を最後に、ギャラ搾取に怒った選手会が、代表の剛の永久追放処分を発表。剛にとっては1986年の全日本解雇に次ぐ2度目の団体解雇となった。これは若手との軋轢とも、売り上げを巡って広報担当やスタッフと揉めたためとも伝えられた。オリプロには高杉、板倉広と新弟子だけが残され、W★INGプロモーションやユニバーサル・プロレスリング、宮川道場との交流戦で食い繋いだ。なおオリプロは1993年12月に崩壊している。
【剛竜馬/wikipedia】
 
マット界の問題児となった剛は彷徨い続ける。人生本当にうまくいかない。元週刊プロレス編集長・佐藤正行氏は剛の担当記者だった。元週刊プロレス記者の鈴木健は剛と佐藤氏の関係についてこう綴っている。
 
パイオニアが2年持たず、その後に旗揚げしたオリエンタルプロレスも内部不和が原因で離脱するなど、剛さんのプロレス人生はまさにその座右の銘のごとく七転び八起き。うまくいかないことがあると、佐藤さんは剛さんに呼び出され、何時間も話を聞いた。そして、夜中に編集部へ戻ってくると「また剛、ダメだったよ。バカだよなあ…本当に」と呟きながら落胆するのだった。剛さんは実直で昔気質な性格ゆえ、その人間性を理解した上でつきあう“根気”を要した。だから失敗を重ねるうちにひとり、またひとりと剛さんの元を離れていく。そうした中、佐藤さんはどうにも見捨てることができなかったのだ。「そんなに剛を追ったところで何もいいことなんてないだろう? どうせムダなんだからやめた方がいいよ」周囲からそのような忠告を受けたのも、一度や二度ではなかったはず。それでも佐藤さんは「腐れ縁だから」の一言で、その言葉を振り払った。
【生涯一プロレスバカ/剛竜馬さんを偲ぶ /鈴木健.txtブログアーカイヴ】
 
 
もう誰も仲間はいない。ならば、一人で旗揚げする。こうして誕生したのが「剛軍団」だった。不定期に興行を続けていく中で遂に人生大逆転のチャンスが来る。
 
1994年8月1日の後楽園ホール自主興行で、自らの志向とは正反対の怪奇派レスラー・宇宙魔神X(正体は島田宏)とのシングルマッチを含むダブルヘッダーが決定。2連戦の第1試合はチャボ・ゲレロ&ビリー・ジャック・ヘインズに剛&バーが勝利し、CWUSA認定インターナショナル・タッグチャンピオンを防衛したものの、剛が首を負傷した。宇宙魔神X戦は「あんなオモチャ野郎に負けるわけにはいかない」と昔ながらの山篭り特訓に励み、試合は場外乱闘で何度も「ショア」と叫び、椅子、モップやチリトリなどを掲げながらアピールしての攻撃に、会場のファンは大声援。試合後のマイクアピールで「私はプロレスしかできない『プロレスバカ』です!そんな馬鹿で不器用な男ですがまた会場に来てください!」と発言し会場客の喝采と大量の「バカ」コールを浴び、マスコミでも大々的に取り上げられた。『プロレスバカ(PB)』なるニックネームが定着したのは、この試合の前後で、会場で「バカ」コールが起きるようになり、剛も「見る方のプロレスバカの皆さん」とマイクアピールで応酬した。
【剛竜馬/wikipedia】
 
プロレスバカとしてブレイクした剛。テレビ朝日の「リングの魂」に出演し、アニマル浜口との番組でゲーム対決し、注目を浴びた。浜口とのコンビで天龍源一郎率いるWARに参戦したり、東京ドームで行われたベースボールマガジン社主催プロレス・オールスター戦に出場した剛に6万人の観客席から「ショア!」、「バカ!」、「1,2,3,4,剛!」といったチャントが起こった。プロレスバカ現象はカルト的人気でプロレス界全体に知れ渡ることになる。
 
鈴木健はこの現象についてこう書いている。
 
剛さんは「バカにしたいのならすればいい。だがバカはバカでも、俺はプロレスバカだ!」と開き直り、通常は揶揄にあたる“バカ”の二文字を全面的に受け入れる。この姿勢がマニア層に響き、プロレスバカはファンに評価された。今ほどプロレスの表現手段が多様化していない時代に、自分が公の場で「バカ」と言われるのは相当な抵抗があった。ましてやプロレスラーは人並み外れてプライドが高い人種。書く側も、称賛の意で使っているのに「プロレスラーをバカにするなんて、それでもプロレス専門誌か!」と読者から抗議を受けることもしばしばだった。それを受け入れるレスラーも、そして伝えるマスコミも覚悟を決めて「バカ」をポジティヴな意味で世に投げかけた結果、あの剛現象を生み出す。1994年の夏あたりから、プロレスバカと「ショアッ!」によって、観客との一体感が発生。(中略)かくして剛さんは、翌年の「夢の懸け橋」で東京ドームのリングへと到達。外野スタンドまで埋め尽くした6万人の大観衆が、誰にはばかることなく「バカーッ!」と叫び、剛さんが右腕をドームの天井へ突き上げると「ショアッ!」のチャント。その表情は、誰もがしあわせに包まれていた。しあわせとはほど遠いレスラー人生を歩んできた男が、他者にしあわせを与えるまでになったその姿を、佐藤さんは東京ドームの片隅から万感の思いで眺めていたに違いない。
【生涯一プロレスバカ/剛竜馬さんを偲ぶ /鈴木健.txtブログアーカイヴ】
 
勢いに乗った剛にスポンサーも現れた。1996年4月に旗揚げした「冴夢来プロレス」は彼にとって最後の居場所になるはずだったが…。やはりスポンサーと衝突し、団体は消滅していった。もう誰も彼にオファーをかけなくなった。あるとすれば、国際プロレス時代に繋がりがある鶴見五郎のプロモーションと、ミスター・ポーゴのWWSぐらい。幾度も藤波との対戦や新日本参戦を直訴しては無視されていく。それも当然だ。これだけトラブルを起こした堅物レスラーを誰が使いたいというのか!!
 
鶴見の計らいで引退試合が組まれたこともあった。だが、剛がなんとドタキャンする始末。本人がいない中で10カウントゴングが鳴らされる前代未聞の引退セレモニーが行われた。
 
生活苦に陥った。
借金が重なり、妻子と別居し離婚。
しまいにはゲイビデオに出る羽目に。「極太親父」、「格闘家〜燃える肉弾〜」、「でかんしょ旋風児」、「野郎四人衆」、「侍」、「一本」、「VG-men」など数々の作品に出て、文字通りに体で金を稼いだ。
どん底に落ちた彼に更なる追い打ちが…。
 
2003年1月15日午後6時25分頃、JR新宿駅西口の自動券売機前にて69歳の主婦の財布をひったくり、逃亡するも会社員らに取り押さえられ、逮捕後も頑に犯行を否定したことで188日間の拘置所生活を送ったが、結局不起訴処分になった。一般紙報道時の肩書は「元プロレスラー、派遣会社員」だった。なお、この報道に際してコメントを求められた藤波辰爾は「ライバルとか言われたら気分悪いですよ」と発言している。また村西とおるは、自身の公式サイトの日記(2009年10月31日付)(中略)ひったくりに関して、落ちていた主婦の財布を拾って返そうとしただけであるという無実の説を述べている。
【剛竜馬/wikipedia】
 
剛を新日本に引き抜いた張本人・新間寿氏はプロレス界から一線を引いていた。そんな新間氏には心残りがある。
 
「新宿の事件の時に、何で親身に話を聞いてあげられなかったのかなって。あの事件について、本人は最後まで否定してたでしょ? あの時に大日本プロレスのグレート小鹿社長から、"新間さんが保証人になってくれるなら、剛竜馬をウチで引き受けますよ"と言われていたのにもかかわらず、自分はもうトラブルに巻き込まれたくないという気持ちが情けない」
【Gスピリッツ vol・14/辰巳出版】
 
釈放後の剛の姿は衰えを越えて、プロレス廃人と化していた。
 

2004年5月、NPO法人『WAP』のエース格になり、若手有望外国人レスラーとの連戦で一部マニアの注目を集めた。しかし、腰痛を理由に欠場し、「金返せ」コールを止めない客の求めで担架に乗せられたまま「ショア!」させられたりするうち、1年後の後楽園ホール大会で自然消滅。半引退状態を経た2006年7月、DDTにて復帰戦(対マッスル坂井)が行われたが、過度の飲酒が原因で無惨なほど衰えており、あまり話題にならなかった。
【剛竜馬/wikipedia】

 
鈴木健氏は晩年の剛についてこう綴っている。
 
後年、剛さんはスポットで試合に出ていたが肉体の衰えが手に取るようにわかった。ラストマッチとなったのは宮本和志興行9・3新木場大会だったが、最後の後楽園ホール登場が8月30日のユニオンプロレス。この時、村田晴郎アナウンサーとともにサムライTVの実況席から入場してきた剛さんを見て2人で一瞬、声を失った。どんなに落ちぶれても、プロとして体だけはガッチガチに作っていた剛さん。なのに、そこへあったのは変わり果てた姿だった。ここで村田さんと私の間に、無言の疎通があった。試合中、一度たりとも肉体の衰えを口にしてはならない――その思いで自然と合致したのだ。それをして庇っているとか、美化するなと言われようとも、本能でそう判断したのだから貫こう。リング上を見ているため、いっさい隣に座る村田さんの顔は見ていなかったが、そう呼びかけられているように感じた。今にも自分が倒れそうなラリアットに、場内が失笑に包まれる。そこで我々は、剛さんが十八番としていた“当たってから飛ぶ”ジャンピング・ネックブリーカードロップが打てないほどに衰えている現実を知った。けれども、それをグッと飲み込んだ。たとえプロレスラーの肉体でなくなっていても、剛さんの試合を伝える中継はプロレスらしいものにするのだ。後日、この試合を見た人から「あんな剛竜馬は見たくなかったし、リングに上げてはならない」という意見を聞いた。正論である。プロレスができぬ体になったら、リングを降りるのがプロの務めだろう。しかし、結果的にあの試合が剛さんにとって最後の聖地となったことを思えば、それさえも定めだったとはいえまいか。しかもパートナーは自分を敬愛してやまぬ竜剛馬であり、対戦相手にはオリプロ時代の愛弟子である松崎和彦がいた。あそこで組まれなかったら、剛馬はプロレスバカとショアを本家から直接的に継承できぬままに終わっていた。
【生涯一プロレスバカ/剛竜馬さんを偲ぶ /鈴木健.txtブログアーカイヴ】
 
2009年10月18日、剛竜馬死去。
享年53。
どんなにくたびれても、どんなに嫌われても、彼はプロレスラーとして生涯を終えた。
 
一時期、剛を憎んでいたという三宅綾は剛と別居していた家族のその後についてこう語る。
 
息子さんとは剛さん抜きでも交流があります。斎場でゆっくり話せました。
「キミのお父さんは凄い人だったんだよ。東京ドームで6万人を盛り上げるレスラーなんて数える程度しかいないんだよ!分る?」
高校生の息子さんは父親がプロレス界で一時代を風靡した事を知らない。。剛さんは自分がどんなに過酷な状況でもこの息子さんを溺愛した。剛さんが何故離婚した後も奥さんの家の近所に住居を拘ったか?私には痛いほど理解出来る。
「いつか許して貰えるなら寄りを戻して家族で一緒に暮らしたい」
そんな思いだったハズ。実際斎場で奥さんと話した時
「なんだかんだ理由付けてはうちに来ようとするんだから。ただの子供。ストーカーみたいよ!」
「もう一度家族で一緒に暮らしたかったんですよ。。」
「そうねぇ。。。結果的に骨もうちで引き取る事になったし。結局あの人の思い通りになったって事だね」
奥さんがそう言うと私も奥さんも何故かクスクス笑ってしまった。
その「笑い」は剛さんと深い交流があった人間にしか分らない「やれやれ。剛さんに一本取られたな!」の笑いです。プロレスに対する執念も凄かったけど、家族と寄りを戻したい執念も凄かったと思う。奥さんと子供が住む近所に「住居」を拘り続けた結果息子さんが異変を察し、翌日長女が救急車を呼び、家族全員に看取られ、骨になって家族の元に帰れた。剛さん執念の勝利!見事家族の元に返り咲き・・・私はそう思いたいです。
【剛竜馬さん/三宅綾ブログ~本音でよろしいですか?】
 
高杉が剛と最後に会った時の事をこう語る。
 
「死ぬ3カ月前かな。IWAジャパンの興行。もうヨタヨタしてて階段なんかまともに歩けなくて。控室で「元気か!」って胸に軽くパンチ一発かましたけどね。それが最後のやりとりだったねぇ。アイツね、悪い奴だけど、ハートの熱いところもあったんですよ。ボクがメキシコから帰ってきたとき、剛だけですよ。『高杉、ご苦労さん。一席持とう』と誘ってくれて酒を飲んだのは。(中略)国際の頃からの付き合いで、大宮の合宿所でちゃんこ食った仲だし。国際のレスラーはみんな散り散りになったから、どこか気になるもんですよ、やっぱり」
【パイオニア戦志 高杉正彦インタビュー〜剛竜馬とウルトラセブンに愛をこめて〜/Dropkick】
 
剛竜馬のレスラー人生を考察してみると、彼の性格は堅物と自堕落の二重構造。そこに粘着質な内面が包み込む実にクセのある性格。そりゃ誰も関わりなくないはずだ。硬いし、めんどくさいし、うっとおしい。でも、彼に長年関わってきた者達は彼との関係を「腐れ縁」だと言って、支援を続けた。そんな周囲に対してどこまで彼は依存し続けた。なんて情けなくても、どうしようもない人間なんだろう。その性格がレスラーとしてスキルや器量に繋がってしまったように思える。
 
でも皆、彼をほっとけなかった。
プロレスしか生きられないプロレスバカを…。
確かに嫌われ者だった。憎まれたかもしれない。だが、結局彼のことを皆、憎みきれなかったのかもしれない。つまり、周囲をバカ負けさせていたのだ。それが剛竜馬という不思議な人間力だったのかもしれない。
 
ザ・フォーク・クルセダーズの名曲「悲しくてやりきれない」の歌詞にはこんな一節がある。
 
悲しくて悲しくて
とてもやりきれない
このやるせないモヤモヤを
だれかに告げようか
(中略)
悲しくて悲しくて
とてもやりきれない
この限りないむなしさの
救いはないだろうか
(中略)
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる苦しさは
明日も 続くのか
 
剛竜馬のレスラー人生は本当に悲して、哀れで、やりきれないものだ。
だがどんな形でも生涯一プロレスラーを貫いたのはこの男の執念だった。
やるせないモヤモヤ、限りないむさしさ、もえたぎる苦しさの果てに彼がたどり着いたのは「プロレスバカ」という生き方だった。
 
「多くの人にプロレスの素晴らしさ、凄さを伝えることが、『プロレスバカ』である私の使命」
 
生前、剛竜馬が語っていたこの言霊を多くのプロレスラーが継承してほしい。
この男の熱が帯びた粘着質な執念には我々の心を動かすサムシングがあったのだ。
 
虎は死して皮を残す、人は死して名を残す。
プロレスバカは死して、物語と教訓を残したのである。