※本稿は(1)からご覧ください。

 

証言(供述証拠)の証拠性を否定しようとする人は、どうも証言の証明力が足りないことを理由としているようです。確かに、証言(供述証拠)というのは、供述における3つの過程、すなわち、知覚→記憶→叙述の中に誤りや恣意が入る可能性があり、非供述証拠に比べて事実認定に狂いが出やすいということは言えるかもしれません。しかし、非供述証拠であれ偽造はあり得るのだから、それだけで証言(供述証拠)の証拠性を否定することは、端的にいって誤りだと言えるでしょう。実際、電車内での痴漢事件で自白という被告人の供述と被害者供述のみしかないにもかかわらず有罪判決が下され得るということは周知のとおりであり、もし被害者供述(=証言)が証拠でないなら、このような場合には無罪にせざるを得ないはずです(刑事訴訟法317条参照)。しかし、そうなっていないのだから、証言が証拠であることは疑い得ません。

 

この時に、憲法38条3項の「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」という規定と刑訴法319条2項「被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない。」を持ち出して証言の証拠性を否定する人があるようですが、これも条文をちゃんと読んでいないというしかありません。両条項はいずれも「被告人の自白」だけが問題とされているためです。これらは、そもそも、歴史的に「自白は証拠の女王」と呼ばれたように、被告人の自白という(犯罪事実を認める不利益な)供述が証拠であることを前提とした規定なのです(自白獲得だけに捜査が集中しないようにこれらの規定はあり、また自白が「強力な」証拠であるために、その自白の採取過程についても拷問等の禁止などが働いているのです(憲法38条1項、刑訴法319条1項))。仮に法律論を知らなくとも、魔女裁判のことなどを思い出せばこれらはすぐに理解され、にもかかわらず「証言が証拠でない」などと言うのは無教養のそしりを免れません。

また、刑事裁判では起訴状の朗読後に裁判長から被告人に「あなたがこの法廷で喋ったことは、あなたに有利か不利かを問わずすべて証拠になります」と告げられ(いわゆる黙秘権の告知)、その後に「先ほどの起訴状で述べられた事実について、何か言いたいことはありますか?」と問われるのです(いわゆる罪状認否)(以上、刑訴法291条3項)。法廷ですら既にこの段階から被告人の言葉は「証拠」なのです。

 

もっとも、供述証拠に誤りが(非供述証拠よりも)入りやすいのは確かです。だからこそ、法廷では反対尋問や供述態度の観察、(刑事被告人、民事当事者以外でかつ宣誓した)証人には偽証罪の告知をすることでその精確性を担保しようとしています。ここでは、「証拠となり得ること(業界用語での「証拠能力」)」と「実際にその証拠が信用できるか(証拠の証明力)」とが分離されていることになります。ある事実についての証明力のない証拠は「そもそも証拠ではない」のではなく「この事実の証明のためには証拠とはならない」だけに過ぎないのです。したがって、ある事実については証明力はなくとも、別の事実については証明力があることはあり得、どちらしてもその証拠は証拠能力自体は持っています。それは供述証拠でも変わりがありません。

元札幌高裁長官で著名な刑事裁判官であった石井一正先生は、『刑事実認定入門』(判例タイムズ社。現在最新版は第3版(2015年)。本稿では2005年の初版を参照)の中で供述証拠の場合に注意すべき点として、①客観的証拠や動かしがたい事実と整合しているかどうか、②供述獲得の経緯(自発的かどうか)や変遷、③供述内容や態度からわかる具体性、迫真性、臨場感、真摯性、④供述者と事件や他の当事者との関わり合い(例えば、知人が見知らぬ他人か、何か特別な利害関係がないかどうかなど。ここで「あえて自己に不利益な供述をする場合には、よほどのことがない限り、その信用性は高い」とされている)と4つの注意点を挙げられています(同書初版56ページ以下)。

 

証言の証拠性を否定する人は、よく「人はウソをつく」ことを理由にします。しかし、これは一面的過ぎます。供述証拠の信用性チェックの重要性は、上述した供述過程が意図的・無意識に関係なく「誤り」が入る可能性があるからであり、「ウソをつくから」だけではないのです。端から他人を「ウソつき」呼ばわりしたり、あるいはそれを念頭に置くというのは、そもそもの態度として問題があるでしょう。人は自分の経験を基礎に判断をしやすいものですが、ウソだけを理由にしている人は、その人自身がウソつきなのか、よほど周りに恵まれなかったのどちらかなのかと邪推してしまいます。あるいは記憶違いと故意的なウソを混同していたりするのでしょうか。

また、「その証言が正しいなら必ず物証がある」などという人もいますが、それも誤りです。例えば、痴漢事件では、被害者供述だけではなく、自白があることも往々にしてありますが、それ以外の物証(厳密には非供述証拠)はなかなか出てきません。第三者供述も証言です。つまり、証言だけで有罪判決がなされることもあるのです。ただ、証拠が(非供述証拠、供述証拠に関わらず)1つしかないということはないと言っていいように思います。まず、自白であれば、法律上それ以外の証拠が必要ですし、被害者供述にせよ、それ以外にも別の第三者の供述や別の被害者の供述があったりします。でなければ、やはり「合理的な疑いを入れないほど確からしい」とはいえないからです。その意味で、証拠相互間の関連性を検討することは極めて重要です。しかし、それは物証に限られません。例えば、窃盗事件において、他人の物をある者が持っていたというだけでは足りないのです(拙稿「証拠構造論序説」参照)。

 

したがって、非供述証拠であれ、供述証拠であれ、その証拠の証明力の検討は別個必要なのであり、供述証拠だけに関わるものではありません。それにもかかわらず、「証言は証拠ではない」というのは、いったいどういう了見に基づいているのか、自らの生活で「証言しか証拠がない」ということがおよそないのかをあまり考えていないのではないかと思わざるを得ないのです。

もちろん、歴史研究においては、より精度の高い検討が必要とはなるでしょう。しかし、それは短時間ではなされず、時間をかけてゆっくりとなされるものです(裁判は長引くべきではないので、そこには差があります)。それでも、証言供述を否定するものではないはずで、本質が変わるわけではありません。

 


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