○こういうのってさ。実際の子供がありありと思い浮かべられるかどうかなんだよ。

そういう観察してないと描けない。
自分の自我にしか関心がない。

そういう日常生活を送ってる。

日本のアニメーションはね。観察によって基づいていない。ほとんど。人間観察が嫌いな人間がやってんだよ。
だからオタクの巣になるんだよ。


 宮崎監督は「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」というスタンスであり、インタビュアーが手にするiPadについてこんな指摘をしています。

あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、
妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。
嫌悪感ならあります。その内に電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。
電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだかけになった時も、ウンザリして来ました。

 資料探しの道具として使いこなせば良いのでは?という質問の流れで、
 時間をいただけるなら、文献を調べて取り寄せることもiPadで出来ますというインタビュアーの言葉に対して、

あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。
なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男達への感心も共感もあなたは無縁だからです。
世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、
上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。

一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。
あのね、六〇年代にラジカセ(でっかいものです)にとびついて、何処へ行くにも誇らしげにぶらさげている人達がいました。
今は年金受給者になっているでしょうが、その人達とあなたは同じです。
新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。
あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい

宮崎駿


○この、いささか不当にも聞こえるハイテクツール批判に根ざした宮崎駿の考えというのは、インターネットによって得られていると思っている知識が、現実から直接与えられるあれこれに比べ、二次的、三次的のものとなってしまうこと

への危機感が影響しているのだろう。
そもそも芸術の本分とは、いにしえのラスコーやショーヴェ洞窟の壁画からも分かるように、「現実を写し取る」というところから始まっている。
具象・抽象を問わずして、対象に対峙し本質をとらまえて表現するというのは、画家や彫刻家に留まらず、全ての表現者に共通する大テーマであるといえる。
もちろん、ここではiPad自体が悪者にされているというよりは、取材やものづくりの姿勢についての憤りでありサジェッションでもあったのだろう。
では、宮崎駿が自作の調査にあたり、どんなアプローチを行っているのか。
漏れ聞くところによると、例えば『千と千尋の神隠し』のために、彼はある家庭に泊り込み、そこの幼女と一緒に暮らしつつ何日間も観察し続けるという、怖ろしい方法で取材をしたという。
しかし、これが本当の芸術家の姿なのである。
対象の魅力というのは、表現しやすいもの、表現しにくいもの、美醜・清濁を併せ呑むものであり、それを一次情報から自身に取り込み、再定義しつつ作品に取り組むことで、真の表現に近づくのである。

またそれと同時期、押井守は現在のアニメーションの状況を、こういう言葉で批判している。
「僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」
ここでも、二次、三次的な情報を享受し作品をつくる、内向きのクリエイターへの問題が指摘され、さらにそこで生まれたものが、オタクに消費されているものに過ぎないのだという。

専門学校でアニメーションを教えている、私の知人も、よく同じようなことを愚痴るのだが、生徒のほとんどがアニメやTVゲームにしか興味がないというのである。
彼が、イマジネーションやオリジナリティの大切さを散々説いたとしても、そのような生徒に自由課題作品を作らせると、変わりばえの無い、現行のオタクアニメ風の表現しか出てこないらしい。
作品に程度の差こそあれ、それ自体がすでに現実から距離を置いたものである以上、それのみを参考とした、いわゆるコピー作品は、受け手にとって情報価値が薄いものになっていく。
彼は、アニメーションの制作現場にいたときから、周囲のスタッフの多くに同様の違和感を感じていたのだという。
我々は、世の中にいわゆる「アニメオタク」と呼ばれる視聴者が増えたことで、そういった作品が多く作られていると思いがちだが、じつは事態はもっと進行していて、制作現場そのものがオタク志向のスタッフであふれている状況が

だいぶ以前から始まっていたのだ。
しかし、何故現在の日本のアニメーション業界は、そのような状況になってしまっているのだろうか。

http://k-onodera.net/?p=237  より)


確かに、今の時代で、映画を作る人は映画ファンから始まっている。昔のように、映画会社が大きく儲かり、映画を見るのが難しい時代とは、違うのである。
押井守も自分は天才ではない、今まで見た映画を忘れなかっただけだ。自分の映画はすべて引用で成り立っている。完璧にオリジナルな映画なんてないと言っている。

しかし、そうだとしても、あまりにも今のアニメは引用の引用であり、現実を参考にしている部分があまりにもない。