「証言UWF最終章」レビュー7・山本宜久 | ぐーすけとりきのブログ

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やまもと・よしひさ●1970年、山口県生まれ。新生UWFの
練習生を経て、91年、リングスに入門。92年に成瀬昌由戦で
デビュー。時期エース候補として活躍。95年にはヒクソン・グ
レイシーと対戦し「ヒクソンを最も追い詰めた男」と言われる。
2001年5月のリングス退団以降、PRIDEに参戦し高田
道場所属に。05年2月高田道場退団後はフリーとしてHER
O’Sへ参戦。

最近のヤマヨシの写真見て、「老けたなぁ~」と思うことしかり
一時は、前田なき後の筆頭日本人選手として期待されていたが、
いろいろないさかいがあり、田村に先を越されたとの印象を受け
る。

山本宜久はリングス設立時に練習生として入門。身長190セン
チ、体重103キロという体格を誇り、貴重な日本人ヘビー級
格闘家として活躍を続けた。

リングスの生え抜き選手として前田日明を至近距離から見つめ
続け、数々の激闘を繰り広げてきた“ヤマヨシ”の格闘家とし
てのスタートは、新生UWFから始まっている。

山本は新生UWFの4期生として入門。一つ上の世代に垣原賢人
冨宅飛駈、その上の世代に田村潔司がいた。しかし、新生UWF
の「道場」は山本が思い描いたものとは全く違っていた。

山本:「厳しいっていうのとはちょっと違う、イヤな雰囲気で
したね。今でいう体罰であったりとか、理不尽な暴力が蔓延し
ていました。前田さんは道場にはほとんど来てなくて、船木
(誠勝)さんや鈴木(みのる)さんといった中堅の選手が仕切っ
てました。少なくとも、選手を育成する場ではなかったし、自分
が思っていた『強くなれる場所』ではなかったですね」

練習生として理不尽な暴力に晒されていた山本は、ふとしたこと
から大ケガを負ってしまう。

山本:「スパーリングが終わって、リングから下りたら船木さん
に思いっきりぶん殴られたんですよ。口が開かなくなって、飯も
食えないくらいだったんですけど、それでも2日間は病院に行か
なかったですね。当時は練習生がケガで病院に行くなんてありえ
ないという雰囲気だったんです。でも、もう喋れないくらいに口
の状態が悪くなってしまったんで病院に行ったら、アゴが複雑骨
折していました。すぐにワイヤーで固定されて、それから1か月
ちょっとは流動食で過ごすことになりました。やっぱり固形物を
食べないと、人間ってストレスが溜まるんですよ。体重も15キ
ロくらい落ちましたから。いまだったら大問題というか、警察沙
汰になってると思いますけど、昔はそれが当たり前というか、日
常茶飯事で、みんな見て見ぬ振りをしていましたね。でも僕はこ
の時のことを忘れてないし、船木さんに対しても思うところはあ
りましたね」

船木の練習生の可愛がりぶりは、新日時代から有名であった。
山田恵一と練習生を水のはった風呂に押し込め、上から蓋をし
て、遊んだりしてた。山本も、船木の理不尽な暴力の犠牲者と
なったのだろう。

しかし、デビュー後の選手としてではあるが、札幌での前田vs
田村戦では前田が一方的に田村を追い込み、田村は眼窩底骨折
となり、1年棒に振った。これも前田の理不尽な暴力ではあるが
田村は、このことについて、俺の知ってる限りでは、前田に恨み
つらみをいっていることはない。

山本が女々しいのか、田村が大人なのか意見が分かれるところ
ではある。

閑話休題。

山本:「僕はUWFは途中で辞めて最後までいなかったので、解
散の頃のことはまったくわからないです。僕が辞めたのは『ここ
にいても強くなれない』と感じたのが大きかったですね。亡くな
った練習生もいましたし、まともな人間がいる道場じゃないと
思いましたから」

新生UWFを去り、マット界から離れていた山本だったが、リン
グス旗揚げのニュースを知り、再び入門を決意する。

旗揚げ時のリングスで日本人選手は前田だけだった。そこで選手
の育成が急務となり、道場にはムエタイやサンボのコーチが招か
れていた。山本が願っていた「強くなる環境」がリングスの道場
には揃っていたのだ。

山本:「新生UWFの時は前田さんは道場に来ないし、ほとんど
話したこともなかったんですけど、リングスの時は毎日道場に
来て練習を見てくれました。それにサンボとか、ムエタイのコー
チもいて、技術的なことも学べた。練習がきついのは当たり前で
すけど、理不尽なことはない場所だったんで、練習するには凄く
いい環境でした。でも興行は毎日あるから雑用も多くて、考える
ヒマがないくらい忙しい毎日でしたね。

前田さんの付き人を僕か成瀬がやるしかないという状況で、僕は
性格的に繊細じゃないので無理だろうってことになったんですよ。
最初に1日だけ前田さんの付け人をやったんですけど、新幹線に
乗る前に前田さんから『シュウマイ弁当を買ってきてくれ』って
一万円札を渡されたんで、僕は弁当を一万円分買ってきたんです
よ。そしたら『誰が食べるんや、それ』って(笑)。僕は一万円
渡されたから、一万円分買うものだと思うわけじゃないですか。
でもその日で僕に付き人は無理ってことになって、前田さんの
付き人は成瀬になりましたね」

94年12月7日に安生洋二がロサンゼルスのグレイシー柔術ア
カデミーに出向き、道場やぶりを決行。非公式戦ながら、ヒクソ
ン・グレイシーに敗れる。そして、そのヒクソンと山本はリング
で相まみえることとなる。

山本:「ヒクソン戦は自分から前田さんに直訴しました。安生さ
んが仕返ししないんだったら、俺がやってやると。もちろん、ヒ
クソンという男がどれだけ強いのか?ということにも興味があり
ました。あの当時はバーリ・トゥードも、まだそれほど世間に
認知されてなかったじゃないですが。柔術ってなに?っていうか
情報がぜんぜん入ってこなかったですからね。そういう状態だっ
たので、対ヒクソン用の特別な練習とかはとくにしてなくて、普
段通りのリングスでやっている練習をして、試合に挑みました」

佐山聡が率いる修斗が主催していた「バーリ・トゥード・ジャパ
ン・オープン」。初開催となった94年大会に参戦を果たしたヒ
クソンは、無類の強さを発揮してトーナメントに優勝。ヒクソン
は95年大会にも参戦し、トーナメント1回戦でヒクソンvs山本
戦が実現した。

安生はUインターという看板や会社を背負ってヒクソンの道場に
殴りこみに行った。対照的に、山本は自分のために闘ったという
山本は「ヒクソンを最も追い詰めた男」となったが(当時、ルー
ル違反ではなかったロープを掴みながらのフロントチョークでヒ
クソンを追い詰めた)、3R3分49秒ヒクソンがチョークス
リーパーで勝利を飾り、そのまま2年連続でトーナメント優勝
を果たした。

明けて96年、山本のリングスにおける運命を変える出来事が
起こる。Uインターに所属していた田村がリングスに移籍し、9
6年6月29日、東京ベイNKホール大会に初参戦したのだ。

リングスに入団した田村はすぐに頭角を現し、マスコミは山本と
田村によるライバル関係を煽った。その初対決は、96年12月
21日、福岡国際センターで行われたメガバトルトーナメント準
決勝で早くも実現。二人の激突は、リングスの次期エース決定
戦といわれた。

山本:「田村さんが入ってきたときは、自ら下げてるというか、
田村さん一歩引いている感じがありましたね。でも、試合となっ
たら向こうも本気で潰しに来ると思いました。周りもリングスと
Uインターの対抗戦のような見方をする人も多かったですから。
あれは個人的にも思い入れが強かったし、どんな手を使っても
勝ちたかった試合ですね」

試合は9分49秒、腕ひしぎ逆十字固めで田村が激賞。その後の
98年の再選でも田村が勝利。99年の3度目の対決は時間切れ
引き分けとなっている。

高田vsヒクソン戦から明けて98年、前田の現役引退へのカウン
トダウンが本格的になっていく。そして同年7月20日、リング
ス横浜アリーナ大会で前田のリングスルールでの最終戦がアナウ
ンスされ、その相手に前田は山本を指名。これが前田と山本の
最後の一騎打ちとなった。

山本:「ちょうど腰が悪くて間に合うかどうかわからなかったん
ですけど、何とか間に合ったという試合ですね。前田さんもヒザ
とかボロボロのはずなのに、強かった。僕の掌底で前田さんの歯
が飛ぶくらい激しくやり合いましたね。99年2月のカレリンと
の引退試合も近くで見てましたけど、前田さんも凄かったし、カ
レリンも化け物でしたね。あの前田さんが軽々リフトされたのは
驚きました」

それほどまでに前田を慕い、前田引退後もリングスで孤高の闘い
を繰り広げていた山本だが、2001年5月に突如としてリング
スを退団することが発表された。

山本:「控え室で前田さんとモメて、それでリングスを辞めるこ
とになったんですよ。原因は単なる勘違いなんですけど、当時
僕は藤原敏男先生のジムに出稽古に行っていて、そのジムのサン
ドバッグを僕が蹴って破いちゃったんですよ。それを弁償するか
しないかで前田さんと僕が揉めたんです。それで、前田さんが
『俺の勘違いだった』って謝ってくれたんです。でも僕の気持ち
は変わらなかったんで、そのまま退団することになったんです。
あそこまで揉めてしまったのは、ある格闘技雑誌の編集長が前田
さんにあることないこと言って焚きつけてたからなんですよ」
山本の退団と同時期、苦楽を共にしてきた成瀬や、田村、坂田ら
も続々とリングスを去っていった。

リングスを退団した、山本は、ふとした縁から高田道場へ入るこ
ととなる。

山本:「ゴールドジムに行ったら、たまたま高田さんに会ったん
ですよ。そこで『俺に出来ることがあったらなんでも』みたいな
ことを言っていただいて、それなら高田さんの所で練習させてく
ださいっていうことで、高田道場に入ることになったんです。

高田道場では、桜庭さんとか松井(大二郎)と練習してました。
彼らの練習はスパーリング中心で、準備運動も何もしないで、い
きなりスパーリングみたいな感じで、リングスとは全然違って
新鮮でしたね。桜庭さんは話しやすかったけど、松井は何言って
るかわからないし、話が通じなかったですね(笑)」

やがて、高田と山本の関係性にも隙間風が吹き始める

山本:「悪口じゃないですけど、高田道場はチームを前面に出し
て、個性を受け入れてくれないところがありましたね。僕も頑張
って溶け込もうとしたんですけど、やっぱり違和感があって。リ
ングスのときは個人主義だったんで、そっちのほうが性に合って
たんだと思いますね」

最終的に高田と揉めた決定打となったのが、スパーリングパート
ナーの拒否だった。

山本:「最後には高田さんとも揉めたんですけど、その原因は
パウエル・ナツラっていう柔道の金メダリストを高田道場で預か
ることになって、マスコミを呼んで公開スパーリングをやること
になったんですよ。そのスパーリングパートナーをやってくれ
って頼まれて、僕は、それはイヤですって断ったんです。そした
ら高田さんが怒って、ジッと僕の顔を見て『お前の目つきは前田
日明そっくりやな!』って言われました。やっぱり僕は高田さん
にとって意にそぐわない感じというか、異端児だったんだと思い
ますね」

高田道場を離れ、PRIDEからも離れた山本は、対抗プロモー
ションだったHERO’Sに参戦することになる。そのHER
O’Sで、スーパーバイザーを務めていたのがかつての師匠・
前田だった。

HERO’Sに参戦するようになり、山本は前田とも和解する。

山本:「やっぱり時間が解決するというか。今はもうわだかまり
とかまったくないですね。前田さんがアウトサイダーを始める
ちょっと前くらいだったと思いますけど、前田さんと二人だけで
釣りに行ったことがあるんです。前田さんが釣り船を持っていて
その船を運転してくれて。格闘技の話とかいっさいしないで、
二人で釣りの話だけしてましたね」