140815 記

前記事の続きになります
万一記事が見られなくなったときのため、自分の覚え書としてここに写させていただきました



―「ねずさんのひとりごと」ブログ記事より―

■韓国建国の詐術と未来
2013年03月02日
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1812.html

たまたまWIKIを見たら、韓国の独立は昭和23(1948)年8月15日で、米国の承認を得て李承晩が韓国の独立を宣言した、と書いてありました。出典がどこなのかはわかりませんが、おもわず苦笑してしまいました。

どういうことかというと、実際には李承晩が韓国の独立を宣言したのが、昭和23年8月13日だからです。ところがあとになってから、李承晩はこれを8月15日に「変更」しました。
なぜかというと、8月15日だと、日本の終戦記念日と重なり、あたかも日本から韓国が独立したかのように「見える」からです。で、記念日の名前を「光復節」としています。


韓国の歴史歪曲は、日本に対するものだけではなく、なんと、自国の建国の歴史まで、捏造、変造しているわけです。
人が郷土に対する愛着を持つのは、あたりまえの人間心理ですが、その郷土史にさえも変造を加えるというところに、韓国の施政者の底知れぬ悪意を感じます。韓国の民衆は、はたしてそういう史実をしっているのでしょうか。


ちなみに大東亜戦争が終結したとき、当時朝鮮総督にいた阿部信行陸軍大将と、朝鮮軍司令官上月良夫陸軍中将が、朝鮮総督府から日章旗を降ろして、いまの韓国国旗である太極旗を総督府に掲揚させています。
そして同日に朝鮮総督府政務総監だった遠藤柳作は、日本統治終了以後に人望のあった朝鮮人の呂運亨(りょうんきょう)に、朝鮮建国準備委員会(建準)を設置を要請したのです。

こ れは、ポツタム宣言の趣旨に沿ったものであるとともに、もとより日本は朝鮮半島を日本の一部にするというよりも、朝鮮が独り立ちして日本と友好的に独立す ることを望んでいたわけですから、ごく自然な成り行きであったこと、および、朝鮮半島が無政府状態に陥ることがないように、そして民衆保護を目的として、 当然の措置であったと思います。

ただし厳密にいえば、この朝鮮建国準備委員会は、国ではありません。国ならば主権をもっていますが、そうではなくてあくまでも日本の一部としての「自治権」が与えられたにすぎません。
呂運亨らは、この朝鮮建国準備委員会で、朝鮮半島内の治安維持に努める一方、独立主権を持ち、国際的に承認される朝鮮人民共和国の設立のために努力をしました。ですから本来であれば、朝鮮半島内の治安もキチンと維持できたはずなのです。


ところが、8月24日になるとソ連軍が朝鮮半島に侵入します。そして産業の中心地であった平壌にその拠点を築いてしまう。満州にいた日本人居留民の悲劇は、ここからはじまったわけです。

一方、朝鮮建国準備委員会は、いつまでも準備委員会のままでいたら、朝鮮半島の独立の夢は果たせなくなるからと、9月6日に朝鮮人民共和国の独立を宣言します。北と南にわかれた朝鮮ではなく、あくまで統一朝鮮としての建国です。

ところがその翌日、米国がソウルに進駐軍を送り込んできた。
その米軍が何をしたかというと、実はここがたいへんおもしろいのですが、なんとソウルの町に掲げられた統一朝鮮の象徴である太極旗を、すべて降ろさせたのです。で、何をしたかというと、そこに日の丸を掲揚させたのです。
つまり米国はこの時点で、朝鮮人による朝鮮半島の独立を認めなかったわけです。あえて日の丸を掲げさせることで、朝鮮半島を「日本の一部」として取り扱い、そうすることで進駐を正当化したわけです。つまり、そこは「日本だ」というわけです。

戦勝国である米国が朝鮮半島に進駐するためには、そこが日本の一部でなければならなかったわけです。もしそこが自主独立した朝鮮共和国なら、米軍の進駐は法的根拠を失なう。

で、さらにその2日後の9月9日には、マッカーサーが朝鮮半島の占領統治を布告します。そしてこの段階で再び日の丸が降ろされ、こんどは星条旗を掲げたわけです。つまり米国は、「朝鮮半島の日本からの独立」を認めず、米軍の占領地域にしたわけです。それからまる3年、平壌以南の朝鮮半島は米軍の占領統治下に置かれました。


一方、統一朝鮮国設立の立役者である呂運亨は、荒縄、棍棒、拳銃、手榴弾などによって、二年間でなんと12回ものテロに遭いますが、それでも統一朝鮮の構築のために、左派にも右派にも属せず、祖国のために戦い続けていました。ところが、昭和22(1947)年7月19日、ついに弱冠19歳の韓智根(かんちこん)の銃弾に倒れ、そのまま帰らぬ人となります。

この暗殺は、当時は極右団体の仕業と発表されたのですが、最近ではソ連の息のかかった教唆主義者朴憲永(ぱくけんえい)一派による犯行説が有力です。ちなみに朴憲永は、その後北朝鮮内で金日成と対立し、アメリカ帝国主義のスパイとレッテルを貼られて投獄され、いまでは考えられないような酷い拷問の末、昭和30(1955)年12月15日に、満56歳で北朝鮮で死刑になっています。


さて、混乱を極めた朝鮮半島が、米国の占領下から独立したのは、終戦から3年経った昭和23(1948)年8月13日のことです。

日本よりも早い段階で独立が承認されたのは、北の金日成が、ソ連のバックアップを受けて北朝鮮で統一朝鮮の建国を図るという動きが顕著になり、その北の動きを牽制するために、米国は急遽、李承晩を大統領に仕立てて、統一朝鮮としての大韓民国の建国を宣言させたのです。

ですから、大韓民国の統治は、日本から米国、そして独立という順を踏んでいるわけですから、大韓民国の独立は、米国の占領からの独立です。ところが李承晩は、これを「日本からの独立」とすり替えました。さらに独立の日も、8月13日ではなく、独立祝賀会が行われた8月15日に、後に訂正しています。そうまでして、米国の占領からの独立ではなく、日本からの独立を装ったわけです。

けれど、よくよく史実をみれば、日本は終戦と同時に、朝鮮半島内に独立のための準備機構を立ち上げ、朝鮮総督府の建物に太極旗を掲げることさえも許可した上で、自主的に朝鮮半島から引き揚げてきているのです。誰がどうみても、韓国は「日本から独立」したことにはなりません。
つまり、韓国の歴史教科書には申し訳ないけれど、韓国は建国の歴史からして、嘘を書いているわけです。

この動きに対し金日成は、危機感を持ちます。
なぜ統一朝鮮に前向きだった金日成が危機感を持ったのか。それは韓国大統領に李承晩という極端な反共主義者が就任したからです。

器量が小さく、権力主義で人の命を軽んずる嘘つきの李承晩が大統領に就任すれば、早晩、半島内の共産主義者たちは粛正の憂き目に遭う。そう考えたから、金日成は、同年9月に朝鮮民主主義人民共和国の建国を強行したのです。


これは、はっきり申上げて、韓国民衆の選択ではなく、米国の選択の誤りです。
日 本否定に凝り固まった米国は、大統領に李承晩を据えたのですが、このときもし李垠などの朝鮮の皇族か、あるいは呂運亨などのしっかりとした国家観を持った 教養人か、あるいは旧陸軍士官学校卒業生の朴将軍や金将軍のような優秀な頭脳を初代大統領に据えていたら、おそらくその後の朝鮮戦争は起こらなかったであ ろうと思います。

結果は、2年後に現実となりました。
金日成がソ連から兵器を借り受け、昭和25年6月25日午前4時、突如韓国への砲撃を開始し、破竹の勢いで南朝鮮に攻め込みました。朝鮮戦争の勃発したのです。


この朝鮮戦争は、昭和28年7月27日まで続きました。南北合わせて500万人以上が死亡するという、大惨事を招きました。当時の朝鮮半島の人口のおよそ10分の1が失われたのです。

しかもこの戦争の結果、自分の国の大統領一派による虐殺をおそれた韓国の民衆が、ボートピープルとなって、日本に大量に押し寄せました。朝鮮戦争後、日本はこのとき日本にやってきた韓国人を国に帰そうとしましたが、韓国はその受け入れを拒否しました。そのことが、いまの在日問題を、日韓両国に招いています。


さて韓国は、いまも8月15日を「祖国が解放」され「独立」を勝ち取った「光復節」として祝っています。けれど、本当の独立記念日は8月13日です。しかもその祖国が解放されたのは、米国の占領からです。日付も違えば、その意義、内容も間違っています。
それでも韓国は、建国の理念が「反日」であったことによって、いまもその「反日」を国是としています。国自体が、嘘を建国の理念としているのです。


はじめの一歩を踏み間違えた国は、どこまでいっても歪みが矯正されることはありません。
歪みは、年とともに拡大するだけです。国是が嘘ですから、国民が嘘をつくのもあたりまえでしかないのです。

このことは、韓国の大統領が替わるくらいでは、韓国が大韓民国として存在する限り、おそらく未来永劫変わることはありません。韓国の人々が、嘘から目を覚まし、いまある大韓民国を「別な国家」として樹立しない限り、国も企業も個人も、その歪みは決して治ることはありません。

以下略。←韓国と中国の未来について書かれています






※建国の理念が「反日」であったことについてはシンシアリーさんの記事を読んでみて下さい
※抜粋です


■大韓民国憲法・前文
2012-09-10 08:30:15
http://ameblo.jp/sincerelee/entry-11350561128.html

この前、「韓国が反日なのは憲法に定められている」と書いたことがありますが、今日はその内容を詳しく見て行きましょう。

1948年7月12日、建国(日本の敗戦後のことです)時の憲法の前文

「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は己未三一運動で大韓民国を建立し、世界に宣布した偉大な独立精神を継承し、今や民主独立国家を再建するに当たり、正義、人道と同胞愛により民族の団結を強固にし、すべての社会的弊習を打破し、民主主義制度を樹立し、政治、経済、社会、文化のすべての領域において各人の機会を均等にして能力を最高度に発揮させて、各人の責任と義務を果たすようにし、内には国民生活の均等な向上を期して、外では恒久的な国際平和の維持に努力して私たちと私たちの子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを決意し、私達の政党、また自由に選挙された代表として構成された国会で檀紀4281年7月12日に憲法を制定する


3.1運動で大韓民国を建立・・・・・って何の冗談だ?と思われるかも知れませんが韓国は韓国という国の歴史の流れを
・大韓帝国→併合時代→大韓民国ではなく、
・大韓帝国→臨時政府→大韓民国としています。

建国憲法当時から臨時政府の理想を受け継いだからこんな見方(31運動時の宣言文で臨時政府が出来たことになっています)が出来るのです。



1962年12月26日、第5次改憲の時、前文が随分変わりました。

「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は3.1運動の崇高な独立精神を継承して4.19義挙と5.16革命の理念に立脚して、新しい民主共和国を建設するに当り、・・・(前と同じ)・・・永遠に確保することを約束して、1948年7月12日に制定された憲法を今、国民投票によって改正する」


檀紀から西暦
民主共和国という言葉を入れたのに、419(イ・スンマンを追い出した大規模のデモ)と516(パク・チョンヒのクーデター)も追加されました。クーデターは民主共和国とはちょっと違うような気もしますが。


1972年12月27日・第7次改憲

「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は3.1運動の崇高な独立精神4.19義挙と5.16革命の理念を継承し、祖国の平和的統一の歴史的使命に立脚して、自由民主的基本秩序をさらに強固なものにする新しい民主共和国を建設するにあたり、政治·経済·社会·文化のすべての領域において各人の機会を均等にして能力を最高度に発揮するようにし、責任と義務を果たすようにして、内には国民生活の均等な向上を期し、外には恒久的な世界平和に貢献することで、私たちと私たちの子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを約束しながら、1948年7月12日に制定され、1962年12月26日に改正された憲法を今国民投票によって改正する」


「3.1運動・独立精神継承」は1948年からあったのに、「平和的統一」は1972年から
1980年には「419」と「516」が外されました。後で419は復活しますが、516は今でも外されたまま


1987年12月29日、9次改憲

「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は3.1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と不義に抵抗した4.19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して正義・人道と同胞愛により民族の団結を強固にし、すべての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和をもとに自由民主的基本秩序をより強固なものして政治·経済·社会·文化のすべての領域において各人の機会を均等にし、能力を最高度に発揮するようにして、自由と権利に伴う責任と義務を果たすようにし、内には国民生活の均等な向上を期し、外には恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することで、私たちと私たちの子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを約束しながら、1948年7月12日に制定され、8回に渡って改正された憲法を今、国会の議決を経て、国民投票によって改正する」


これが今でもそのまま使われています。

80年代には反日が弱かった・・という話もありますが、実は「臨時政府」と明記させたのが87年です。88年オリンピック直前。これさえ何とかすれば先進国の仲間入りだ!とウキウキしていた頃ですね。

「大韓民国憲法前文」の定義は、「大韓民国憲法の条文の前にある公布文であり、憲法制定の歴史的過程、目的、憲法制定権者、憲法の指導理念や原理などを規定している」ものです。
本文と同様に「法規範としての価値を持つ」と見るのが一般的な見解だそうです。

韓国はこの「棒(法)」にいろんなものがくっ付いて出来ています。

併合時代の発展など継承しません。
併合時代の必要性など認めません。
受け継ぐは3.1運動であり、認めるは抗日闘争の精神です。


反日は韓国そのものであり、今までも、これからも変わる気配がありません。





参考:
三・一運動(さんいちうんどう)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E9%81%8B%E5%8B%95
1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった運動。独立万歳運動や万歳事件とも。


3.1独立運動とは? - 自由主義史観研究会(特集)
←首謀者が何故そういう行為に至ったかも書いてありますので上記とあわせて読むといいと思います



4.19義挙=四月革命(しがつかくめい)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9C%88%E9%9D%A9%E5%91%BD_(%E9%9F%93%E5%9B%BD)
1960年3月に行われた第4代大統領選挙における大規模な不正選挙に反発した学生や市民による民衆デモにより、当時、第四代韓国大統領の座にあった李承晩が下野した事件。最も大規模なデモが発生した日が4月19日であったことから、4.19革命(サイルグヒョンミョン、4·19혁명)、4.19(サイルグ、사일구)とも言う。また、革命後一年足らずで朴正煕少将らによる軍事クーデター(5・16軍事クーデター)が発生して、自由が抑圧された長い軍政時代に突入したため未完の革命(ミワネヒョンミョン、미완의 혁명)とも呼ばれている。



5・16軍事クーデター(5・16ぐんじクーデター、5·16 군사 정변)
後の韓国大統領で当時少将(第2野戦軍副司令官)だった朴正煕などが軍事革命委員会の名の下、起こした軍事クーデター。1961年5月16日に発生したため「5・16軍事クーデター」と一般的に言う。
目的:軍事政権による反共体制の強化と腐敗の一掃及び合憲的政府の再樹立