太田道灌の旅❶ | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

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内藤 飛鳥

巨匠 太田道灌の予習に来ています。
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✴︎太田道灌とは?

上杉 孝久先生の御先祖様の有能家臣です。
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室町時代後期の武将。
武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。
摂津源氏の流れを汲む太田氏。
諱は資長(すけなが)。
太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍しています。

※江戸城を築城したことで有名ですよね。

武将としても学者としても一流という定評があります。

都市江戸を語るのに最初に登場する人物として太田道灌がいます。

戦国時代初頭に活躍した道灌はさまざまな伝説にも彩られ、史実に加えて多様な人物像が語られています。 

今年はその太田道灌が江戸城を築城して560年にあたります。
 
①太田道灌像(複製) 
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原資料年代:1695年(元禄8) 
静勝寺(北区)に伝わる道灌の像。

静勝寺第 6世の風全恵薫によって造立されました。

太田道灌の風貌を想像させる代表的な像です。

②太田道灌初テ歌道ニ志ス図
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年代:1887年(明治20) 
作者:月岡芳年/画

太田道灌に山吹を捧げる様子を描いた図。 

太田道灌が意味を解せず、
和歌を学ぶきっかけとなったという伝説の場面を描いています。

数ある道灌伝説のなかでも、著名なワンシーンですよね。
 

❇︎幼少期の逸話❇︎

道灌は幼少時から英才ぶりが世に知られ、それを物語る逸話が存在します。

『太田家記』によれば、父・資清が俊英にすぎる鶴千代を心配して

「知恵が過ぎれば大偽に走り、知恵が足らねば災いを招く。
例えれば障子は直立してこそ役に立ち、曲がっておれば役に立たない」

と訓戒すると、鶴千代は屏風を持ち出し

「屏風は直立しては倒れてしまい、曲っていてこそ役に立ちます」

と言い返したそうです。

『寛政重修諸家譜』によれば、ある日父・資清は筆をとって「驕者不久」(驕れるものは久しからず)と書きました。

すると鶴千代はこれに二字書き加え
「不驕者又不久」(驕らざるものも久しからず)と書いたそうです。

道灌の才気と物怖じしない毅然とした性格を示す逸話です。

③太田道灌書状
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年代:15世紀後半

実は太田道灌が発行した文書の現存数は10点程度と極めて少ないそうです。

陣中見舞いを受けた道灌が、
鎌倉円覚寺黄梅院の僧に出した礼状だとされています。

※江戸城は、武蔵国豊嶋郡江戸
(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城です。

江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、

別名千代田城と呼ばれています。

城郭構造 輪郭式平城または平山城

天守構造 連立式層塔型5重5階地下1階(1606年築)
独立式層塔型5重5階地下1階(1621年再)
独立式層塔型5重5階地下1階(1635年再)
(いずれも非現存)
築城主 太田道灌
築城年 1457年(長禄元年)
主な改修者 徳川家康、秀忠、家光(江戸期)
宮内省・宮内庁(明治以降)
主な城主 太田氏、扇谷上杉氏、後北条氏(戦国期)
徳川将軍家(江戸期)
(以下、皇居としての所有者)
皇室(大日本帝国憲法下)
国(日本国憲法下)
廃城年 使用中
遺構 現存櫓・門、石垣・土塁・堀
指定文化財 国の重要文化財(桜田門、田安門、清水門)
特別史跡
再建造物 富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓
桜田巽櫓、大手門
位置 北緯35度41分17.97秒
東経139度45分15.72秒

※扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)

室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家です。

戦国時代には河越城に本拠を移し、
武蔵国を拠点とする大名となり、
南関東に勢力を扶植しました。

✴︎扇谷上杉家

扇谷上杉氏は室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕を祖とする家で、

南北朝期の貞治年間に重顕の養孫にあたる上杉顕定が関東に下向し、

重顕の兄弟上杉憲房の諸子から出た諸上杉家と同じく鎌倉公方(関東公方)に仕えて鎌倉の扇谷(現在の鎌倉市扇ガ谷)に居住したことから扇谷家の家名が起こったそうです。

扇谷家の名跡は一族の上杉憲勝が継ぎ、
永禄4年(1561年)山内家の家督と関東管領職を継承した越後の長尾景虎(上杉謙信)によって武蔵松山城主に据えられるも、

永禄6年(1563年)に後北条氏に降伏したそうです。

山内家の名跡を継ぐ米沢藩主上杉綱憲の実父吉良義央は扇谷家の血統を引いているため、
それ以降の上杉家にも扇谷家の血統は残っているとの事です。

上杉重房
上杉頼重
上杉重顕
上杉朝定
上杉顕定(扇谷の地に在住)
上杉氏定
上杉持定
上杉持朝
上杉顕房
上杉政真
上杉定正
上杉朝良
上杉朝興
上杉朝定
上杉憲勝

最後のお写真は
緋宮家元と太田道灌後子孫、太田資暁様
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