3人の蘭丸 | ヤマカン103のブログ

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滋賀県近江八幡市のゆるキャラ2体が「ふるさと県人会まつり2015に登場しました。
左:赤コン君、安土城を築城した織田信長が「コンニャクも赤色に」という説もあります。近江八幡の安土町のコンニャクは赤色です
こんにゃくは北へ行くほど白く、関東あたりは白と黒が混在し、西へ行くと黒っぽくなる傾向があるのに、ここだけなぜ「赤色」? 学習してください
前掛けの「まるはち」は名古屋市市章(尾張藩の旗印より制定)に関係あると思いましたが、近江幡の八ということでした


右:らんまる君、織田信長の小姓として有名な森蘭丸
説明するまでも無いと思いますがおさらい
愛知県一宮市生まれ。尾張の大名織田信長に小姓、信長と衆道の関係にあったとされ、本能寺の変において信長と共に死去。
注・衆道:女人禁制の戦場で武将に仕える美少年を「お小姓」として連れて行ったことなどが始まりだとされる。これ以上は各自自習してください、他の武将の多くのロマンスも伝えられています

織田信長に3人の小姓「蘭丸」がいたのをご存知ですか? 森蘭丸・伊藤蘭丸・早川蘭丸の3人です
蘭丸とは秘書のような仕事をする役職名、全員と衆道の関係ではありません。念のため

伊藤蘭丸 松坂屋の前身「いとう呉服店」を創業
松坂屋のルーツをたどれば、信長には3人の小姓「蘭丸」がいて、森蘭丸はご存知本能寺の変で殉死しました。
伊藤蘭丸祐道(すけみち・その時、19歳)は、信長の側近として八百石の禄を受け、清洲城に詰めていた。
絶頂期にあった主君の突然の死を知り、呆然自失、なす術を知らなかった。
その後、祐道は二君に仕えることを望まず、浪人となり、清洲城下に閑居した。
48歳になった時、これからは商人の時代だと達観した彼は、妻と次男祐基を連れて清洲越えを決断し、名古屋の本町にささやかな呉服小問物問屋を開業した。これが後のいとう呉服店(松坂屋の前身)である。 
 松坂屋社史より抜粋
松坂屋の包装紙にカトレアの図柄なのは、蘭丸にちなんだという説もあります。(カトレアはラン科ですね)

早川蘭丸 子孫は清州におられるようです。小姓の記録には残っていますが、その後のことは語られていません。清須市に行った時に尋ねますが、いまのところ回答はありません。
どなたかご存知の方はいませんか?