宇野功芳

去る6月10日、音楽評論家の宇野功芳氏が逝去なさいました。享年86歳。

音楽好きからの知名度は高いものの、その批評がシリアスに受け止め
られることはあまり無く(たぶん…)、それでいて発言・批評はかなりの
影響力を持っていた、批評家の先生というより日本クラシック論壇の
「名物お騒がせ男」といった印象が強かったです。

良くも悪くも毀誉褒貶の多い評論家で、その独善的・断定的な批評に
拒否反応を示す人も多かったはずです。

「僕にいわせれば、たった一言で終わりである。「メータのブルックナー
など聴きに行く方がわるい」。知らなかった、とは言ってほしくない。
ブルックナーを愛する者は、そのくらいは知らなくてはだめだ。」
 
『クラシックの名曲・名盤』(講談社現代新書)

ほとんど言いがかりに近い書きっぷりなのですが、少なくともメータ
に対する論評としては(書き方はきついですが)おおよそこの評価
で妥当なのではないかと 笑

その他にも小澤征爾指揮のベートーヴェン『エロイカ』評において、

「人気は高いが味のうすいアサヒ・スーパー・ドライのよう」

とこき下ろした際には、読者からかなりの賛否を巻き起こしたとか。
でも別に間違ったことは言ってないですよね(ですよね?)


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とくに近年はネット上で「宇野珍ポーコー」なるあだ名をつけられ、
ほとんどからかいの対象となっていたのは笑っていいものかどうか。

批評の独特さにくわえて、よせばいいのにオーケストラの指揮を
やってしまった(やっちゃった…)のですが…。

珍妙としかいいようのない指揮解釈によって、ただでさえ頑迷批評で
敵が多かったのに、さらにネタ的な怪人と化してしまいました。
果たして笑っていいものかどうなのか…。

合唱指揮者としてはそれなりに好意的な評価もあるとのことですが、
オーケストラの指揮は……(絶句)。


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で、ぼく自身もまた宇野功芳の批評に対してはほぼネット上の立場と
変わることがなく、ネタ的に笑って楽しむことが多かったですね。

たとえば『クラシックCDの名盤』(文春新書)におけるバーンスタイン
評のページにおける功芳氏の書きっぷり。

「ウソで塗り固めたカラヤンに対して、バーンスタインの演奏は正直そのものであった。」

バーンスタイン評なのにカラヤン関係ないじゃん、と驚いてしまう
一文で始まっていました。そしてこの独善的でひねくれた文章こそが
怪評論家・宇野功芳の独壇場というべきでしょう。
(あえて文末に「いえよう」を使わず 笑)

宇野功芳を嫌う人って、こういうのを大真面目に受け止めて
本気で怒るのでしょうね。

しかしぼくに言わせればこういうのは真っ当な批評として読むべきでは
なく、音楽評論のパロディとして笑って読むのが楽しいのであります。

カラヤンを盲信するアンチ宇野のクラシック愛好家がこの文章を目にし、
怒りに顔を真っ赤にして目を血走らせ、歯を食いしばりながら、

プンプン「うぐぐぐおのれ、功芳奴っ……パンチ!

と激しい憎悪の言葉を吐き出す、そういう場面を頭に思い浮かべつつ
笑って読むのが宇野批評の楽しみ方なのです。ですから生真面目な
批評として受け止めずに、腹を抱えて笑いながら読みましょう。
わっはっは。


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宇野功芳といえば自他ともに認める「カラヤン嫌い」として有名であり、
カラヤンを盲信する手合いからは蛇蝎のように嫌われていました。

功芳氏がカラヤンを酷評する理由としては「精神性の欠如」という
一点が大きかったです。

指揮者カラヤンをどう評価するか、というのはいまだに賛否分かれる
ところですが、現在では宇野功芳ほど声高にカラヤンを非難する
勢力は少なくなっていると思います。

カラヤンが追及したのは「音の響きの美しさを極限まで追求して
磨き抜くこと」でした。これによってカラヤン時代のオーケストラ、
とくにベルリン・フィルの技術が高められたことはカラヤンの大きな
業績だったことは間違いありません。

そしてその一方で、カラヤンは「表面的な音の響きを追求するあまり
音楽の内面に存在するはずの精神性・文学性をないがしろにした」
という批判を浴びることになります。こうしたカラヤン批判は世界中
で起こり(今も存在する)、日本における急先鋒が宇野功芳でした。

音楽における「精神性の有無」というテーマは、20世紀のクラシック
批評においてかなり議論された論点だったのではないでしょうか。

そして現状はというと、もはや音楽を語る際に「精神性がどうの」
と語り出したら、どちらかというと嘲笑を浴びることが多いような。
(ぼくの個人的な私見ではありますが…)

これは文学を語る際に「娯楽か芸術か」「純文学と大衆文学のどちらを
志向するべきか」といった話題にも通じると思いますが、今やあらゆる
芸術分野において「芸術性」「精神性」「文学性」を重視する立場が
「エセインテリ」「スノッブ」として忌避される時代になってきたという
のが、ぼく個人の印象としてあります。

音楽(クラシックにおいてもポピュラー音楽においても)や文学といった
芸術全般が、今日では20世紀よりも表層的・快楽的になってきているという
印象が強くなってきており、それとともに前世紀にあれほど隆盛を極めた
「カラヤン批判」が今ではかつてほど通用しなくなってきた……
というのは穿ちすぎかしらん。

それを思うとカラヤンが追及した姿勢――音楽の内面に存在する精神性を
排除してまでも表面的な音の響きの美しさを、磨くことに全精力を傾ける
――は、20世紀後半から21世紀の現在に至る時代の流れにおいて、
ある意味時代の先を読んだ上での必然的な姿勢だった…と言えるかしらん。

そしてこのカラヤンの、音楽の表面的な技巧のみにこだわる姿勢が、
後にリッカルド・ムーティに代表される「イン・テンポ主義」なる
非人間的・非音楽的なる潮流を生み出してしまったとも言えます。


その一方で、頑迷なまでにカラヤンの姿勢を非難し、前時代の
フルトヴェングラーに代表される「精神性を重視した音楽表現」に
固執した、宇野功芳のような反動主義者の存在が、カラヤン的な
表層的な美にこだわる音楽の「堕落・退廃」に歯止めをかけていた…
と言っては言い過ぎになるでしょうか。