こんにちは。
獣医師なので動物に無理やりこじつけたようなタイトルで、今日はちょっと自分の関心ごとの話です。
ADHD、子育てをしていると子供の関心ごととしてよく取り上げられていますが、今は子育てをしているお母さんじゃなくても、聞いたことがないという人の方が少ないのではないでしょうか。
ADHD:注意欠如・多動性障害(2014に注意欠陥・多動性障害から改められたようですね)。
私も、常々関心をもってアンテナをはっていることの一つです。
そもそも、発達について興味をもち講義を受けていた学生時代にこのような障害があることを初めて学んだのだと思うのですが、その後、保育士試験の勉強でも少し勉強し、自身の生い立ちに結び付けてなんとなくADHDへの関心を持ち続けていました。
自分も似ている、でも自分はたぶん多動ではないから、違うんだろうな。。。と。
そして、数年前、あるブログで、
「女の子のADHDは頭の中が多動!」
と言う記事に出会ったんですね。
とてもセンセーショナルでした。
頭の中が多動!
教室をウロウロはしないけれど、先生の話を聞き続けることができず、入ってきたキーワードから頭の中が連想ゲームをはじめ、想像は膨らみいつの間にか何も聞いていない(これが「ボーっとしているように見える」んですね、不注意の症状の一つ)。
自分ではちゃんとやっているつもりなのに「私だけ知らない」「私だけ違うことをしている」という小さなエピソードの数々! また、頭の中で連想した結果を口に出すので、話が飛んでいるらしく「何の話かわからない」と言われたことも(笑)。
これらは、もはや(過去の)失笑話なので、まぁおいおい書くかもしれませんが、とにかく もしかして私ADHDかも!と思ったきっかけでした。
そんなADHDですが、私たちが育った時代に比べてどんどん診断される数が増えているそうで、現代は疑わしい子供が3~7%などの統計もあるようですね。
日本でも発達障害を疑う子供が6.5%、そのうち5.2%が行動面に著しい困難(集団の指示が聞けない、座っていられない等)があるという調査もあるそうですが、5%というとクラスに1人か2人はいる計算ですよね。それに加えて、たぶん隠れ多動(頭の中が多動な女子)もいるかもしれないこと、そして著しい困難はないがその気のある、いわゆる「グレー」な子もいる。
そう考えると、ADHD、とても身近に感じられませんか。
※ADHDは統計的に男の子に多いそうですが、女子の多動はぼんやり型で気づかれにくいのでは?と個人的に思ってみたり…。
私は「変わった子」「ジコチュー(自己中心的)な子」と言われたこともありますが、かろうじて集団の中に居続けることができたので、グレーなぐらいなのかなぁ、と、診断を受けに行ったわけではないので勝手に自分のことを分析しています。
私が専門にしている動物行動学でもそうですが、「障害」とは、その生活や身体の健康に困難がある場合をいいます(たぶん人医でもそうだと思うのですが…)。
犬などで同じ行動を繰り返し続ける「常同行動(尾追いや足なめ等など)」も健康や飼主との生活に問題が生じれば「常同障害」、そこまででなければ「常同行動」で必ずしも障害とは言えません。
でも、「困難がある」って判断が難しいですよね。人の心と発達の専門家の人に聞いたら「これ以上は障害です」って明確に線引きがあるんだろうか。
自分自身は振り返ってみれば社会生活の小さな困難は乗り越えてきたと思うけれど、困難があったから黒なのか、乗り越えられたからグレーなのか自分ではよくわからない。
…そもそも困難のない人生なんて誰にもありえないわけだし。
自分が育った時代はそんな「変わった子」もちょっと変わった子として地域の中で育まれていたんだろうなぁと思います。診断されずに普通の子として育ててもらえた時代も良かったと思いますし、一方 子育てをしている立場としては、扱いづらい子供が自分の育て方のせいではなく「ADHDの疑いがあります」と診断してもらえる方が母親はよっぽどホッとするだろうし、学校などでも注意してみてもらえた方が安心するだろうなぁという気持ちもよくわかります。
なんの話をしているやら、書きたいことを書き連ねているだけなのですが、確かなことはひとつ。
ADHDもギフトだ!
と、私は思います。
「注意欠如」とか言いますが、欠如じゃなくて違うものにもんのすごい注意して集中しているんですよね、実際は。
先生がみんなに向けて言っている言葉には注意できないけれど、頭の中にすごいストーリーができていたりする。
大人になって大業を成し遂げた人にはADHDやアスペルガーのような性質を持った人が実はとてもたくさんいるんじゃないかと私は思います。だって、一つの研究に一生を捧げたり、数式と結婚したり、絵を一日中描き続けたり、普通できないですよ!!
ADHDもアスペルガーも自閉症もそれができる可能性を持って産まれた子たちなんじゃないかな~って私は思っています。
そして、遺伝子の不思議、これらの性質がこれだけの割合(人口の数%!)淘汰されずに続いているということは選ばれ残るべくして残っているはずなんです。
かくいう私も、どうしても誰に言われても「獣医師になりたい、獣医師でいたい」というこだわりから逃れられなかったので、ただ頑固なだけではなく立派なギフトをもらっているのかもしれません。
こうやて文章を書き始めると何時間だろうが丑三つ時を過ぎようが止められなくなるのもギフトなのかも…?
さて、タイトルの「猫」はどこにいったかというと…、
ADHDがギフトであるとともに、ADHDって猫の性格に似ていると思うんです。
衝動的で、エネルギッシュで、でも自分に関係ないと思うとまったく注意を向けず、でも集中しだすと飽きるまで遊び続けたり。我がままで自己中心的だけどピュアでにくめない。
だから、生き物の強さの一つの形として、本来の動物らしい姿として、生きるのが辛くない程度にコントロールしていくこと、サポートしてもらうことができたら、そういう性質はアリなんじゃないかと。
それは自分らしさでいいんじゃないかなって。
長くなりましたね、以上です。
ADHDやアスペルガー等について思うこと、考えることは日々本当にたくさんあるので、もしよければまたお付き合いください。
私は、こんな自分で良かった!って今は思っています、本当に。
※障害には程度の幅がとても大きくあり、集団生活への順応や学習面などで私には想像できない困難を抱えている方もいるかもしれません。そのような方が不快に感じられる表現がもしありましたら申し訳ありません。訂正させて頂きますのでご指摘ください。