石鎚登山ロ-プーウエイや石鎚スカイラインが開通していない時代は、成就社や石鎚山へ、下から歩いて行っていた。
古くから、色々な方面から登って行く道が、いくつもあったようだが、表参道と呼ばれた西条藩管轄の今宮道、小松藩管轄の黒川道を行く人が多かった。
1968年(昭和43年)に石鎚登山ロープ-ウエイが完成するや両登山道は登山客の激減で急激に廃れ、今宮集落、黒川集落合わせて40軒ほどあった季節宿は廃業に追い込まれていった。
登山道途中に、古くからあった今宮集落や黒川集落の人たちは、現金収入を求めて山を下りて行き、今宮や黒川集落はついに無住となってしまった。
ロープウェイやスカイラインが出来るまでは、今宮集落には氏神の三倍神社が、黒川集落には八妙神社とそれぞれの集落に神社があり、お山開き期間中はおおぜいの参拝者で賑わった。
季節宿跡 上黒川集落にて
この石垣の上にも立派な建物の季節宿があった。
この石垣の横を通って八妙神社跡へ行く。
鳥居が見えてきた。
上黒川にある八妙神社の鳥居。
この鳥居をくぐっていくと右側に社がある。
その手前に一対の大きな狛犬が鎮座している。
鳥居の一部が崩れ落ちている。
鳥居付近にあった石碑も崩れ落ちている。
大きな狛犬
八妙神社拝殿
本殿
八妙神社と書かれた石碑、かつて黒川道沿いには大きく分けて二つの集落があった。
黒川道途中の下手にあった下黒川集落と、上にあった上黒川集落。
かつて上黒川には八幡神社があり下黒川には妙見神社があったが、明治の合祀令により二つの神社は合祀し、それぞれの神社の頭の文字をとり、八妙神社と呼ばれるようになったようだ。
八妙神社と刻まれた石碑は、昭和3年に御大典記念として建立されている。
昭和3年当時の氏子総代の名が刻まれている。
石碑に石工名が刻まれている。
なんと三津屋の粟田省悟?と刻まれている。
家の近くにある石材屋さんだ。
ちなみに、村内にある諏訪神社の入り口に在る諏訪神社と刻まれた大きな石碑は、石工の名が吉井村今在家 汐崎甚七となっている。
中山川の北側に位置する石工である。
地元である小松の石屋さんではなかった。
石鎚に行く黒川道
コンクリート製のろ過を兼ねた水を溜めるタンク?
丸いのは排水用の土管。