ミャオ族の祖先が日本の弥生時代を始めた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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九州に渡来して縄文人と同居し弥生時代を開始し、紀元前400年ころから吉野ヶ里に入植した人々はミャオ族の祖先でした!

彼らは日本に稲作をもたらしました!彼らは魚、獣何でも蛋白源にしてお米を食べる。自給自足の稲作弥生人でした。和服の原点、呉服は彼らの衣装でした!

彼らは、山陰地方に渡来するヤマト政権につながる斉系弥生人の祖先チャン族(Y-DNA遺伝子D2系)と生存をかけて争った歴史を持つ、Y-DNA遺伝子O2bを持った民と確信している(参考)。また、呉越同舟で知られたライバルの越人(O2a)は現在のベトナム人と考えられているが、一部、日本列島に渡来し、越の国(福井県から新潟県あたり)に定住したと推定した(参考)。


参考

① 中国貴州省のミャオ(苗)族(参考)

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ミャオ族(苗族)は現在、中国では貴州省、湖南省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖北省、海南省に住み、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムにも分かれて住んでいる。この少数民族の歴史は古く、揚子江周辺の長江文明(紀元前14000年~紀元前1000年)にまで遡る。畑作の黄河文明に対して、長江文明は稲作文化であり、日本の米(ジャモニカ米)の発祥地方の文明である。この時代のミャオ族の神話で、紀元前3350年~紀元前3040年頃、伏羲(ふくぎ)と女媧(じょか)の兄妹が主人公で、彼らの父が雷公(チャン族)の戦いで洪水攻めに合い、ミャオ族のほとんどが死んでしまって、その時に船で逃げ出した二人の神は結婚して、子供を沢山生んでミャオ族を復興させた。

紀元前2500年頃、夏の初代皇帝、禹(う、紀元前2070年頃)の祖、漢字を開発した黄帝(紀元前2510年~紀元前2448年)がいた頃、黄帝は、蚩尤(しゆう)と大戦争になり、涿鹿(河北省張家口市付近)の戦いで勝利を治める。この時に、蚩尤に味方したのがミャオ族の祖、九黎族です。黄帝に敗北した九黎族は揚子江付近に逃れて、三苗族となった。それから、黄帝の子孫、が夏を建国した。

その後、華夏族(漢民族)に反発し、反乱を起こしたりしていたミャオ族は、周の時代に華夏族と同化した部族と春秋時代に楚、呉、越の配下に付いた。そして、呉が越に滅ぼされ、越が楚に滅ぼされ、最後に楚が秦に滅ぼされたため、ミャオ族はさらに南下して、広西チワン族自治区、海南省、ベトナムに移住した。そのミャオ族の一部が黒潮海流に乗って、沖縄諸島から奄美諸島、そして、南九州に、さらに対馬海流に乗って、対馬列島や朝鮮半島南部や北九州に上陸する事になる。では、何時頃日本に渡来したか。中国の春秋時代の頃で、楚・呉・越の戦いが盛んな頃、紀元前500年頃、日本では縄文時代晩期から弥生時代早期に当る。ちょうど、日本に水田による稲作が渡って来た頃です。

最後に、魏志倭人伝で倭人の衣装に触れた文章があります。それには、幅の広い布に穴を開けて、そこから頭を通して、腰を紐等で縛る貫頭衣と言う服装です。そこで、ミャオ族の民族衣装と沖縄の民族衣装と古墳時代の衣装、日本の和服の原型の十二単の画像を紹介します。民族衣装だけでなく、ミャオ族が日本に渡ってきた証拠は他にもある様に思われます。


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② 長江文明を築いた人々の父方Y染色体にはO2a及びO2bが含まれている。そのうちO2bだけが日本人に見つかる。ミャオ・ヤオ・チワン族などの少数民族のO系統はO2a及びO3で、日本人はこれを持つ人はわずかしか見つかっていない(O2a東京=1)。ゆえに前章で検証したミャオ=楚人が倭人であった可能性よりも、BC470年からBC330年頃にかけて華北から黄河文明が波及し、つぎつぎに滅亡してゆく呉越(呉滅亡はBC473年、越国はBC334年頃)人=もともと越南人形質のO2aとO2bを持つ人々が南北へ分離し、北上したO2bだけが、朝鮮半島あるいは華北東部海岸=会稽東冶(かいけいとうや)から日本の北部、西部九州に上陸したと考えられる。

歴史的には呉越人が朝鮮半島に難民が流入することは鳥越憲三郎や諏訪春雄が指摘しており、伝説では始皇帝の道師だった徐福の蓬莱出航より少し前でほとんど同時代で、あるいはこの話が始皇帝に敗れた呉越人の出国を表した可能性が感じられる。ミャオは長江文明の影響を受けて日本人とよく似た稲作文化を持つこととなったと考えられる。日本人との文化様式の類似は表面上のものである。

朝鮮民族の51%を締めることから、O2bはあきらかに朝鮮半島経由でやってくるはずである。呉越人が朝鮮半島に入り、そこから九州に来たか、あるいは華北東部海岸部から直接、西九州長崎あたりに上陸した。日本最古の陸稲稲作遺跡である菜畑が長崎県にあることを考え合わせれば、長江の水耕稲作も西九州が最初だった可能性は捨てがたい。このようにO2b形質を持つ長江人はベトナム人
と日本人に別れた(参考)。


③ 北九州には既に縄文人(Y-DNA遺伝子D2)がおり、仲良く暮らした考古学的実証(玄界灘文化圏)がある。また、後を追うように斉系弥生人(Y-DNA遺伝子D2)が隣りの山口県下関市の土井ヶ浜(響灘文化圏)に渡来することになる(参考)。