論文:仏教考察② | レムリアの音霊~愛と光と虹~

有為の現象界を<(まぼろし)の如きもの>とする表現は仏典に屢々見られる。これは無為の世界を真実在と考える立場から、有為の世界(これを世間とも謂う)を真実でない世界として、<幻の如きもの>と形容するのである。決して、現象界が存在しないと言うのではない。蜃気楼(しんきろう)などを除いて現象界は断じて幻ではない。勿論、現象の全てが迷妄ということもない。現象界を貶める言説(ごんぜつ)は、無常の世界への執着を断たしめ、無為の世界に目覚めさせようとの慈悲行なのである。無為に覚醒すれば、苦の生存から脱することが出来る。これが無明を明に転じれば苦が滅する、の意味である。

 

(くう)について

仏教では、空(梵語 śūnya)に目覚める智慧を般若(はんにゃ)(梵語 prajñā)と謂う。

般若について詳述している『大般若経』の所説を引用する。

()菩薩摩訶(ぼさつまか)(さつ)、一切の煩悩の(じっ)()(行為が心に残す習慣性)を抜かんと欲せば、応に般若波(はんにゃは)()(みつ)()を学すべし。」(『大般若経』、大正蔵経、第5巻、12頁下)「(しゃ)利子(りし)、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識は空に異ならず、空は受・想・行・識に異ならず、受・想・行・識は即ち是れ空、空は即ち是れ受・想・行・識なればなり。何を以ての故に、舎利子、是の諸法の空相は不生不滅・不染不浄・不増不減・過去に非ず、未来に非ず、現在に非ざればなり。」(空である無限定の存在と限定の存在は一体である。空界は対立を超えた世界である。)(同、大正蔵経、第5巻、22頁中)「菩薩摩訶薩、般若波羅蜜多を修行する時は、応に本性空を以て一切諸法を観ずべし。」(同、大正蔵経、第5巻、209頁上)「諸法は本来自性清浄なり(有為の本体は清らかな世界である)。」(同、大正蔵経、第6巻、749頁下)「一切法は皆空を以て自性(じしょう)(性質)と為し、一切法は皆無相を以て自性と為し、一切法は皆無願(欲望の世界を超えていること)を以て自性と為す。」(同、大正蔵経、第6巻、880頁上)「二辺に(じゃく)するが故に生死を解脱せず、道無く涅槃無し(対立の(いず)れかに執着するのは迷いの生存の特質である)。」(同、大正蔵経、第6巻、915頁上)「一切法に於いて如実に見る時、一切法に於いて(すべ)て所得無し。一切法に於いて所得無き時、則ち如実に一切法の空なることを見る(空界は無限定の世界で、限定的には把握出来ないので無所得である)。」(同、大正蔵経、第6巻、1,045頁下)「無為界とは即ち諸法空なり。」(同、大正蔵経、第6巻、1,057頁下-1,058頁上)「空は即ち無尽なり、空は即ち無量なり、空は即ち無辺なり。」(同、大正蔵経、第7巻、904頁上)「諸法は生ずと雖も真如は不動なり。真如は諸法を生ずと雖も而も真如は不生なり。是れを法身と名づく。清浄不変なること虚空の()(とう)(どう)(等しいものが無い)なるが如し。」(同、大正蔵経、第7巻、937頁下)「世間の諸法は皆因縁に生ずればなり。(中略)因縁和合するを諸法生ずと説き、因縁離散するを諸法滅すと説く。」(同、大正蔵経、第7巻、948頁下)

(しょう)(まん)(ぎょう)』や『大般(だいはつ)涅槃経(ねはんぎょう)』は如来蔵(にょらいぞう)仏性(ぶっしょう)、不空思想を展開し、無限・永遠の世界へと志向させる。

「涅槃界とは即ち是れ如来の法身なり。」(『勝鬘経』、大正蔵経、第12巻、220頁下)「如来蔵に生有り、死有るには非ず、如来蔵は有為の相を離る、如来蔵は常住(永遠の存在)にして不変なり。是の故に如来蔵は、是れ()たり、是れ()たり、是れ建立(こんりゅう)たり(如来蔵は有為を依らしめ、保持し、成立させる)。」(同、大正蔵経、第12巻、222頁中)「如来蔵とは、是れ法界蔵なり、法身蔵なり、出世間上上蔵なり、自性清浄蔵なり。此の性清浄の如来蔵、而も(きゃく)(じん)煩悩(ぼんのう)(無明)と上煩悩(じょうぼんのう)(無明に淵源する種々の煩悩)とに(ぜん)せらる、不思議の如来の境界なり。」(同、大正蔵経、第12巻、222頁中)

「世間の人は、楽の中に苦を見、常に無常を見、我に無我を見、浄に不浄を見る。是を顚倒(てんどう)(逆さまな見解)と名づく。」(『大般涅槃経(四十巻)』、大正蔵経、第12巻、377頁下)「如来も亦(しか)なり。不生不滅・不老不死・不破不壊なり、有為法に非ず。」(同、大正蔵経、第12巻、392頁上)「我見(がけん)とは名づけて仏性と為す(仏性は実体である)。」(同、大正蔵経、第12巻、395頁中)「如来は即ち是れ常住、有為は即ち是れ無常なり。」(同、大正蔵経、第12巻、401頁下)「仏性を見るに因りて、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得(仏性を見ることが悟りである)。」(同、大正蔵経、第12巻、405頁上)「一切衆生悉く仏性有り、即ち是れ()(実体)の義なり。是の如きの我の義や、本より已来、常に無量の煩悩に覆わる。是の故に衆生は、見ることを得ること能わず。」(同、大正蔵経、第12巻、407頁中)「常有り、楽有り、我有り、浄有り。是れ則ち名づけて実諦(じつたい)の義と為す(真実界は常楽我浄の世界である)。」(同、大正蔵経、第12巻、443頁中)「一切の有為は皆是れ無常なり。虚空は無為なり、是の故に常と為す。仏性は無為なり、この故に常と為す。虚空とは即ち是れ仏性、仏性とは即ち是れ如来、如来とは即ち是れ無為、無為とは即ち是れ常、」(同、大正蔵経、第12巻、445頁下)「仏性を見るが故に、大涅槃を得。」(同、大正蔵経、第12巻、467頁中)「諸仏世尊に二種の法有り。一つには世法、二つには第一義法なり。世法は則ち壊滅(えめつ)有り、第一義法は則ち壊滅せず。(また)二種有り。一つには無常無我無楽無浄、二つには常楽我浄なり、無常無我無楽無浄には則ち壊滅有り、常楽我浄には則ち壊滅無し。」(同、大正蔵経、第12巻、472頁上)「智とは空と及び不空と、常と無常と、苦と楽と、我と無我とを見る。空とは一切の生死なり。不空とは大涅槃を謂う。乃至無我とは即ち是れ生死なり、我とは大涅槃を謂う。一切空を見て不空を見ざれば、中道と名づけず、乃至、一切無我を見て我を見ざれば、中道と名づけず。」(同、大正蔵経、第12巻、523頁中)

空には積極面と消極面がある。前者を不空、後者を(たん)(くう)(又は(へん)(くう))と称する。仏教の難しさは、物の見方が単純でない処にある。既述したように、有為の根底に無為が有り、現象存在は無為と有為の両面をもち、無為が実体、有為は絶えず変化しており、実体性を有しない。この実体面が不空であり、不変の性質をもたない面が但空である。真実の空は不空と但空との統一体である。諸法が自性をもたない、と説かれるのは、自性(じしょう)(梵語 svabhāva)は固定的な不変の性質を意味し、これは実体にしか当て嵌まらないから、有為としての現象存在には自性が無いと言われるのである。併し、現象に実体としての自性は無いとしても、現象の各個には特性、個性は有り、自性はまた、これらの性質も意味する。只、現象の性質は無常で変化するものであるということである。存在の対立する二辺の何れにも偏しない見方を中道とか(ちゅう)(がん)と謂う。また、空は限定的に把捉できないので、虚空に喩えられる。平等・無相の空を捉えるのは分別智ではなくて、無分別智である。無為は法身と同義であり、それは無相、無性、無所得とか不可得とか言われる。更に、無為は平等なる一の世界であり、有為は多数ある差別の世界である。無為に媒介されて、万象の有為は一体性を成す。這般の事情は平等即差別、一即多と表される。無為は限定されていないので無限であり、有為は限定された存在であるので、有限である。時間的には無為は永遠の存在で、有為は転変する時間的存在である。無為の世界に無知なることを無明と謂う。無常観を通して現象存在への執着を断たしめ、無為の世界の覚醒に導くのが、阿含経典などが説く悟りへの一つの道である。

有為が因縁生であるとの事態は、有為は無為に因(依)って現出し、また、他のあらゆる有為と依存関係にあることを示している。無為は自らに依って有るので実体であり、有為は他の存在に依って有るので実体ではない。有為の相互依存性は根源的には、無為によって成立する有為間の一体性に基づいている。

 

唯識説

唯識説は『華厳経』に説く、三界唯心の教えに大きく依拠している。

「有らゆる諸法は皆(こころ)()って造る。」(『華厳経(六十巻)』、大正蔵経、第9巻、460頁上)「心は(たくみ)なる画師(えし)の如く、種種の()(おん)(えが)き、一切世界の中に、法として造らざる無し。(中略)諸仏は悉く、一切は(こころ)より転ずと了知したまう。若し能く是の如く(さと)らば、()の人は真の仏を見たてまつらん。」(同、大正蔵経、第9巻、465頁下-466頁上)「三界(さんがい)(欲界・色界・無色界のことで、迷いの世界を意味する)は虚妄(こもう)にして、但(しん)()なり(心が作った世界である)。」(同、大正蔵経、第9巻、558頁下)「諸の世間は悉く()施設(せせつ)にして、一切は皆、是れ(しき)(しん)の所起なることを知る(現象界は我々の心によって捉えられた仮の世界である。真如が真実界である)。」(『華厳経(八十巻)』、大正蔵経、第10巻、402頁下)

このような教理に立脚した、唯識思想を代表する経典である『解深密経』と『(にゅう)楞伽経(りょうがきょう)』の教説は次のとおりである。

(われ)が説く勝義(真如)は是れ諸の聖者(しょうじゃ)の内自の所証なり。(中略)勝義は一切の尋思(じんし)(思慮分別)の境相に超過す。」(『解深密経』、大正蔵経、第16巻、689頁下)「若し因より生ぜば、(まさ)に是れ有為なるべし。若し是れ有為ならば、応に勝義に非ざるべし。」(同、大正蔵経、第16巻、692頁上)「此れに由って真如勝義法無我の性は、因有りと名づけず、因の所生に非ず、亦有為に非ず、是れ勝義諦なり。」(同、大正蔵経、第16巻、692頁上)「此の識を亦阿陀那(あだな)(しき)とも名づく、何を以ての故に、此の識は(しん)に於いて随逐(ずいちく)し(身の根底に常に存在し)、(自らが現出した心的現象の全てを)執持(しゅうじ)する(保持する)に由るが故なり。亦、阿頼耶(あらや)(しき)とも名づく。(中略)亦名づけて(しん)とも為す。」(同、大正蔵経、第16巻、692頁中)「阿陀那識を依止(えじ)(依り所)と為し、(中略)六識身転ず(六種の識が生じる)。謂わく眼識(げんしき)耳鼻(にび)(ぜつ)(しん)()の識となり。」(同、大正蔵経、第16巻、692頁中)「謂わく諸法の相に略して三種有り、何等をか三と為す。一には遍計所執相(へんげしょしゅうそう)(遍計所執性)、二には依他起相(えたきそう)(依他起性)、三には(えん)(じょう)実相(じっそう)(円成実性)なり。()(かん)が諸法の遍計所執相なる。謂わく一切法の名仮安立(みょうけあんりゅう)の自性と差別となり(無為を知らず、諸有為が互いに異なる諸個として存在するとし、相互依存的関係於いては捉えられておらず)、乃至(また)言説を随起せしむるが為なり(言語によって認識されている仮の世界である)。云何が諸法の依他起相なる、謂わく一切法の縁生の自性(性質)なり(万有(ばんゆう)が他に依って成り立っている在り方である)、則ち此れ有るが故に彼有り、此れ生ずるが故に彼生ず。謂わく無明は行に縁たり、乃至(かくして)純大苦蘊(くうん)召集(しょうじゅう)す(苦を生ずる)。云何が諸法の円成実相なる、謂わく一切法の平等の真如なり。此の真如に於いて諸の菩薩衆、勇猛(ゆうみょう)精進(しょうじん)を因縁と()るが故に、如理に作意(さい)し(心を働かせ)、()(てん)(どう)思惟(しゆい)することを因縁と()るが故に、乃ち能く(つう)(だつ)す(真如を体得する)。此の通達に於いて漸漸に修集(しゅじゅう)し(功徳を(しん)に集め)、乃至無上正等菩提を(まさ)に証すること円満なり。」(同、大正蔵経、第16巻、693頁上)「若し諸の菩薩能く依他起相の上に於いて、如実に無相の法を了知せば、即ち能く(ぞう)染相(ぜんそう)の法を断滅し、若し能く雑染相の法を断滅せば、即ち能く清浄相の法を証得す」(同、大正蔵経、第16巻、693頁下)「」一切諸法は皆自性無く、生も無ければ滅も無く、本来寂静にして自性涅槃なり。」(同、大正蔵経、第16巻、694頁上)