NHK嘱託職員変死

消されたNHK元アナウンサー夫妻

隠された東南海地震 人工地震の証拠 




2012-02-16 11:50:09

lucaのことのは
http://blog.goo.ne.jp/luca401/e/5f1a790b7c71d93d480a9ada8c727dff


2011年8月10日深夜NHK名古屋放送局の制作した『封印された大震災~愛知・半田』という終戦記念日特集NHKスペシャル番組が全国ネットで放映されました。

そのときも一度UPしましたが再度紹介します。人工地震というとまさかと思う方がまだおいでになるとしたら....人工地震の古い歴史をどうぞ ご検証ください。

番組内容
(ユーチュウブはすでに消されていますが 下記リンクにUPされています)

愛知県 半田市 中島飛行機の工場では
1400機もの世界最高水準を誇る戦闘機がつくられ 
戦争初期 日本は快進撃をつづけた。 

ところが 
アメリカの物量作戦に あい戦局が不利になると 
国は戦闘機の2.5倍の増産に踏み切った。 

熟練工が出陣するなか学徒が全国から集められ 
半田に送られ戦闘機の製造にあたった。

国のためにという思いで学徒動員の生徒たちは劣悪な労働環境
味噌汁とごはんという食事で 毎日12時間以上の長時間労働に従事した。

生産戦士と持 ち上げられ 
軍の無謀な生産計画を担ったのである。

ところが 昭和19年 12月7日 夜午後1:36 M7.9 
関東大震災に匹敵する地震が東海地方を襲った。

最大の被害は 半田市の中島飛行機の工場 だった。
非難しようとしたひとびとの上に壁が崩れ落ちてきた。 

くるしい たすけて おかあさん 
生き埋めになった生徒たちの声。
凄惨な光景だった。 

学徒96人を含む153人が亡くなった。
実にこの地震の被害者の10%を超えたのである。

地震学者の報告書によれば 紡績国情から軍需工場 
柱を切り落としていたために工場の構造が弱体化していた。

東海地方に壊滅的被害をもたらした
大震災しかしこの被災がが国民に知らされることはなかった。

学徒たちにもかん口令がしかれた。

被害が知らされなかったことで被災地は孤立無援となった。
なぜ国は  被害を知らさなかったのか。
戦力低下がアメリカに知られることを恐れたのだ。

しかしこれは無駄に終わった。

12/10 アメリカが写した航空写真に被害 がまざまざとしらされた。
なかでも恐ろしかったのは米軍が落としたビラ...

地震のつぎには何をお見舞いしましょうかと書かれていた。

12/13 アメリカは東海地方の大空襲に踏み切った。 
航空機工場は壊滅し 軍の増産計画の破綻は決定的になった。
地震の被害があきらかになったのは戦後十数年を経たあとだった。


証言:土屋嘉男さん
「数日たったら、B29が来て 見たらビラ拾ってみたらショックだった毛筆で、
地震の次は 何をお見舞いしましょうかって書いてあった。」







米国OSSによって作成された、
OSS機密文書にも日本本土への地震兵器による心理的軍事作戦にもはっきりと書かれている。このOSS機密文書にははっきりと、この地点までに人工的に巨大地震と津波を起こすための技術を確立していたことが示されている。そして、以下のよう結論づけている。


『日本人の目を覚まさせるには地獄に飲み込まれたと思わせる必要がある。そのためには、地震を恐れる日本人の特性を徹底的に突くべし。地震攻撃に勝るものはない。地震津波攻撃の目的は日本人をパニックに陥れること。」


このように番組で1944年の東南海地震が、人工地震であることを示す証拠と証言があきらかにされた。なかでも出色なのは 地震波である。


あたかも 学徒動員は表向きで 人工地震であることを知らせるための放映であるようにさえ見える。頭の部分が3.11の波形に酷似している。


ところで 彼らは 6とか 36がとても好きである。

 こちら


さて 放映の日 10日午後0時半ごろ、東京都大田区上池台3、NHK嘱託職員、五十嵐忠夫さん(75)方2階建て住宅で、男女が死亡しているのを警視庁 田園調布署員が見つけた。(殺されたのは10日から2週間前 まるで10日の放映に合わせたような発見である)同署は五十嵐さんと妻栄子さん(76)とみ て身元確認を急ぐとともに、詳しい死因を調べる。

捜査関係者によると、五十嵐さんは栄子さんと2人暮らし。NHK職員から「五十嵐さんと連絡が取れない」と通報があり、署員が訪れたところ、家は 施錠されており、男性は1階、女性は2階で床に倒れていたという。目立った外傷や、外部から侵入されたような形跡はなかった。遺体はともに死後10日~2 週間ほどたっているとみられ、11日に司法解剖する。(毎日新聞)

さて 前述の『封印された大震災~愛知・半田』の製作者がこの五十嵐さんだという記事があった。わたしは確認してはいないが もし そうなら 恐ろしいことだ。五十嵐夫妻は報復見せしめのため殺されたということになる。

→ こちら

もっと奇妙なのは あたりまえのことだが テレビや新聞が人工地震やケムトレイルということばをつかわないことだ。命がけで真実をつたえるのはたいへんなことだ。だが おおぜいでやれば ひとりふたりでなく......NHKや報道関係者の奮起をのぞむ。

なぜなら このままではこの国は彼らに滅ぼされてしまうからだ。彼らの最大の強みが情報のかく乱であり最大の弱みもまた世界中の日本中のひとびとに 真実を知られることなのである。
 

わたしたちはちっぽけだが まだ勝ち目はある。それは数である。どうか ひとりでも多くのひとに人工地震が存在すること太平洋戦争末期からつかわれて きたこと戦後ずっと日本の政治家をおどしつづけてきたこと。いまもまだつづいていることを 知らせてください。

証明してください。


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NHK嘱託職員変死(1)

http://blogs.yahoo.co.jp/patentcom/12247188.html


3年前の変死事件を発見しました。

男女死亡:NHK元アナ夫婦か…東京・大田の住宅 

毎日新聞 2011810日 2138

(最終更新 810日 2305分)

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110811k0000m040076000c.html

 

10日午後0時半ごろ、東京都大田区上池台3、NHK嘱託職員、五十嵐忠夫さん(75)方2階建て住宅で、男女が死亡しているのを警視庁田園調布署員が見つけた。同署は五十嵐さんと妻栄子さん(76)とみて身元確認を急ぐとともに、詳しい死因を調べる。

 

捜査関係者によると、五十嵐さんは栄子さんと 2人暮らし。NHK職員から「五十嵐さんと連絡が取れない」と通報があり、署員が訪れたところ、家は施錠されており、男性は1階、女性は2階で床に倒れて いたという。目立った外傷や、外部から侵入されたような形跡はなかった。 遺体はともに死後10日~2週間ほどたっているとみられ、11日に司法解剖する。

 
NHK広報局によると、五十嵐さんは1960年に入局。名古屋や横浜などの放送局でアナウンサーを務め93年に定年退職。現在はNHK放送博物館(東京都港区)で案内役を務めていた。【内橋寿明】


NHK嘱託職員変死(2)

http://blogs.yahoo.co.jp/patentcom/12248539.html


2011年8月10日、NHK嘱託職員が都内の自宅
変死体として発見されていますが、
同日に[証言記録 市民たちの戦争]というシリーズの一環として
NHKは『封印された大震災』という番組を放映している。
 
太平洋戦争中に起きた東南海地震に
関するドキュメンタリーになります。
 
その詳細は下記の通りになります。
 
 
[証言記録 市民たちの戦争]
封印された大震災 ~愛知・半田~
 
愛知県半田市には、日本最大の軍用機メーカーだった中島飛行機の工場・半田製作所があった。総面積270万平方メートル。従業員2万9千人。部品工場から滑走路まで完備した施設では、攻撃機「天山」や偵察機「彩雲」が一貫生産によって、1400機が製造されていた。
 
日本の戦況が悪化し、熟練工が戦地に次々と送られると、航空機増産の使命は「学徒勤労令」によって10代の少年・少女たちに課されることになった。まったく経験したことのない航空機の製作。しかも労働は長時間にわたり一月の勤務が300時間を超えることもあった。
 
さらに「過酷な運命」が工場で働く学徒たちを襲った。
 
昭和19年12月7日。午後1時36分、マグニチュード7.9の東南海地震が発生。死者・行方不明者、1223人にのぼったこの震災で最大の犠牲者を出したのは中島飛行機半田製作所だった。工場の倒壊による死者は、学徒96人を含む153人にのぼった。
 
軍用機の工場に犠牲者が集中した原因の一 つは、建物の「構造」にあった。工場は最新鋭機の部品を作る重要施設で、機密を守るため出入り口が特別な設計になっていたことが、避難を妨げたこと。さら に、もともと紡績工場だった建物を軍需工場に改造する際、飛行機を作る空間を確保するため、邪魔な柱を切り落としたことが工場自体の強度を著しく弱体化し倒壊を招いたことがあげられる。
 
国は軍需工場の被害がアメリカに知られることを恐れ情報操作を行った。新聞は地震発生の事実を伝えるのみで具体的な被害には一切触れず、被災地では学徒たちに対して厳しい箝口令がしかれた。
 
東南海地震がもたらした悲劇が明らかになったのは、
戦後十数年を経た後のことだった。
 

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人工地震(地震兵器)は太平洋戦争中にもすでに存在した。
米軍B29から撒かれた毛筆で書かれたビラ
「地震の次は何をお見舞いしましょうか」は、
明らかに彼らが意図的に起こした人工地震であることを、
如実に物語っている。

また、地震波形にも注目!
(もっともこれは観測地点の震源からの距離にもよるだろうが・・・)

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「ナチス・ドイツは1942年の時点で、
既にウランの核分裂に成功していた」という
証言を含むドキュメンタリー(伊語)を見た。



ナチスドイツの原子爆弾 - ルイジ・ロメルサの証言



この中で実際に1944年の11月にナチス・ドイツが行った
「新型爆弾の爆破実験(まるで核実験としか思えない)」および、
ゲッペルス自ら、「我々ナチス・ドイツは1942年には既に
ウランの核分裂に成功していた」と言ったという証言がある。


また公式にはマンハッタン計画の最後、
「トリニティ実験=原爆実験 (1945/7/15)」でもって
人類初の核実験に成功したことになってはいるが、
この実験で使われたのは「プルトニウム型(長崎型)爆弾」。

実はウラン型(広島型)に較べて、このプルトニウム型は
起爆構造が大変に複雑で、その為、開発が遅れており、
45年7月にようやく完成して実験にこぎつけ、
翌8月に長崎投下となる。


しかしここでハタと気が付くのは、
「じゃあ広島型は、もっとずっと前に完成していたんじゃないの?」ってこと!

となると、プロジェクト・シールも
通常爆弾ではなく核爆弾(試作品?)が使われた可能性も出てくる。


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大戦当時、ナチス・ドイツの、そして大日本帝国のスパイであった
「ベラスコ」 という人物の証言に、

「広島に落とされた原爆は、マンハッタン計画によるもの(米国製)ではなく、
ナチス・ドイツが完成したもので、当初はイギリスへの投下の計画であり、
その為、より英国に近いベルギーのリエハに2個の原爆が移送された。

ところが保管を任されていたロンメル将軍がアメリカへ横流してしまい、
それが巡って広島へ落とされる結果となった・・・」 というものがあります。

(個人的には)最近、 この説の信憑性が、非常に増してきています。