トヨケ神 | この美しき瑞穂の国

トヨケ神

鹽竈神社の記事を書く前に一応トヨケ神(豊受大神)のことを書こうと思う。



ホツマツタヱによるとこの世に初めて生まれた人間は創造主アメミヲヤ神の顕現のミナカヌシであるとする。この最初の人間ミナカヌシはト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メの八御子を生み、八御子は八方の国をそれぞれ治めたという。


そしてト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メの八御子はトシノリタマメという神を生み、トシノリタマメはキ・ツ・ヲ・サ・ネの五座神(いくらのかみ)を生んだという。


そしてキ・ツ・ヲ・サ・ネのうちのキ・ツ・ヲの神がトツギしてア・ミ・ヤ・シ・ナ・ウの六腑神(むわたのかみ)が生まれたという。このキ・ツ・ヲ・サ・ネとア・ミ・ヤ・シ・ナ・ウの神を合わせてウマシアシガイヒコチ神、地(わ)の十一神(そひがみ)、室十一神(むろそひがみ)、ヱト守神(もりがみ)という。


このミナカヌシ~ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒタ・メ~キ・ツ・ヲ・サ・ネとア・ミ・ヤシ・ナ・ウの二十世に続いて八方の国々を治めるクニサツチ(※八人)が生まれ、クニサツチはそれぞれ五人の御子を生んだという。



このうち、神代の日本に来たクニサツチはトヨクンヌ、ハコクニ、ウケモチを生んだという(後の二人は不明)。


そしてトヨクンヌは世継ぎとなってナカ国(今の滋賀県辺り)を治め、ハコクニは東北の地(後のヒタカミ国)を開拓して治めたという。


ここまでのミカナヌシからトヨクンヌまでの世代はクニトコタチ神と称され、男女の別がない独り神であったという。


そしてトヨクンヌの世継ぎはウヒチニで、ウヒチニはスヒチを妻としたという。このウヒチニとスヒチがこの地球における初の男女で初めての夫婦神であったという。


ウヒチニ・スヒチの次はツノクイ・イククイの夫婦神が継ぎ、その次はオモダル・カシコネの夫婦神が継いだという。


しかしオモダル・カシコネは子に恵まれず、世を統べる天つ君(あまつきみ)の直系(本家)が途絶えてしまったという。


この窮状にヒタカミを開拓したハコクニの子孫である分家のトヨケ神(斎名:タマキネ)は、急遽ヒタカミの地に天のタカマノハラの四十九(よそこ)神を勧請し、祀ることでヒタカミを地のタカマとして暫定的に日本を治めたという。


しかしトヨケ神は天つ君の復活を願い、根の国(北陸地方辺り)を治めていた別の分家であるアワナギの子タカヒト(後のイサナギ尊)と自分の娘イサコ(後のイサナミ尊)を結婚させて本家とすることを画策したという。


そしてイサナギ尊・イサナミ尊の間に生まれたアマテル神によってトヨケ神の念願だった神代の日本の再統一が果たされたという。ちなみにアマテル神はトヨケ神が葛城山の世嗣社にて八千座も禊して日月の御子の誕生を祈ったことにより生まれたため、正に念願の御子だったのである。



トヨケ神は徳と叡智を備えた人物だったようで、アマテル神が誕生した際に父のイサナギ尊と母のイサナミ尊は御子の指導をトヨケ神に託したという。そのためアマテル神は16の頃より30年にわたってヒタカミのヤマテ宮でトヨケ神の元で陽陰なる道(あめなるみち)を学んだという。陽陰なる道とは宇宙の法則や調和の道、世の治め方、しきたり等様々な教えを体系化したもののようだ。



トヨケ神は晩年、サホコチタル国(中国地方、後の出雲国)のマスヒト(地方の国を治める代官のこと)であるコクミが政務を怠ったため、サホコチタル国の宮津(京都府宮津市)に赴いて代わりに政務を執ったという。


そして自分の死期を悟った時、孫であり弟子でもあるアマテル神に教え忘れたことを全て伝授すべく宮津へ呼んだという。


そして奥義を全て伝授すると自ら真名井原(まなゐはら)の辞洞(いなほら)に入り、神上がりされたという。その後、朝日神と贈り名されたという。


アマテル神も世を辞む時、この偉大なる祖父を慕って真名井の辞洞に入り、神上がりされたという。だから伊勢にアマテル神が祀られた際、お告げによりトヨケ神を真名井原からお呼びになられたのだろう。


故に伊勢神宮の内宮で祀られるアマテル神だけでなく外宮で祀られるトヨケ神も同じぐらい重要な神なのである。



ちょっと長くなってしまったが以上の話をお読み頂いた上で鹽竈神社の記事をお読み頂けたら幸いである。