景山民夫は1998年1月26日東京成城の自宅書斎で喫煙しながら趣味のプラモデルを製作中シンナーに引火、火事で焼死したとされていますが、酔ってもいない、眠っていたわけでもない五体満足な中年男が、自室が火事になったからといって逃げもせず焼死するだろうか、とは事件後に関係者の誰もが持った疑問のようでした。


景山の家は東京・成城にある3階建ての木造家屋で夫婦二人暮らし、事務所を兼ねていたのです。3階部分が民夫の書斎兼仕事場で、その書斎だけ天井が抜けるほどの火力で炎上し、2階では火事の気配も伝わらず無事だったということです。というより、妻の朋子さんは2階にいて3階の火事には全く気が付かず、居間の蛍光灯が何度か点滅して一瞬暗くなったのを不審に思い、三階に上がってみると書斎が一面の火の海で、慌てて駆け下りて電話通報したということでした。


夫は当然逃げたものと思っていましたが、という言葉に反して、一報でレスキュー隊員が駆けつけたとき、何故かパンツ一枚の姿で景山は書斎の外の廊下にうつ伏せに倒れていたということでした。火傷は少なく煙を吸って意識不明状態だったそうです。隣接した家の人の話ではボンという爆発音があって、景山家の三階を見ると火が見えたということで、部屋に充満したシンナーが爆発したという説になったのかも知れません。しかし、2階にいた朋子夫人はどんな音も聞いておらず、蛍光灯の点滅で不審に思って三階に上がって気が付いたと繰り返しています。


シンナー引火説は、景山民夫の友人知人達にも信じられないことのようです。気心の知れた出版社の編集者の来訪時にも、わざわざ背広に着替える、という身嗜みに煩い民夫がパンツ一枚で煙草を吸いながらプラモデルを作っている光景など誰にも思い浮かばなかったのです。そんなタイプの男ではなく、よく知られていたのは正反対で、過度なまでの几帳面、綺麗好き、ナルシスト、イギリス人作家がいうジャングルに一人暮らしでも正装してディナーを執るタイプの人間、だったそうです。また臆病で、必要以上に注意深く、火の用心には常日頃から煩かったということです。


この頃、景山民夫は直木賞作家というより、当時問題視されていたオーム真理教などと並んで急成長していた新興宗教の「幸福の科学」に夫婦揃って入信したことで話題になり、本など読まない層にも景山民夫の名は広く知られていたということです。その上、景山は以前からオカルト好きでも有名だったので、焼死事件は歪曲されて、自殺説、他殺説、怪奇現象説と紆余曲折を経ていたようです。


景山民夫は有名人だったので「幸福の科学」では先に入信していたテレビタレントの小川知子と共に幹部扱いで、教団と講談社で争われていた週刊誌「フライデー」事件(幸福の科学に関するスキャンダル問題)では二人が教団を代表して街頭での抗議活動を行って、それがテレビに映されて更に知名度を上げていましたが、その副作用で仕事関連の人間関係を大きく損ね、個人的な友人知人の多くとも疎遠になり始めていたといいます。


景山民夫は東京千代田区の生まれで私立暁星中学から武蔵高校、慶応大学と進んで、在学中からテレビの構成作家を志していたそうです。父親は警察官僚の上級職で地方管区公安部長などを歴任、転勤を繰り返していましたが、民夫は東京・半蔵門に住んでいる(おば宅)に寄宿して高校・大学と進み、なぜか慶応大学文学部を中途退学しています。


コネも才能もあったので、1968年にはテレビの番組構成作家になっていました。華々しいテレビの世界で数年に亘ってシャボン玉ホリデイなどのバラエティ高視聴率番組製作に携わって後、文筆業に転じて小説家になり、吉川英治文学賞、次いで1988年には直木賞を貰って順風満帆の人生航路にあったかに思われていたのです。


火事の当時の妻・朋子さんとは再婚でした。旧姓大津朋子といい、景山と知り合う前は、同じ作家の村上龍と数年間愛人関係にあった女性だったのです。村上が妻帯者でありながら優柔不断(朋子さんの言い分)でずるずる不倫関係のまま放置されたのに怒って、とうとう村上宅に抗議に行って破局を迎えたということです。疲れ果てた末、村上との決別を考えていたとき、偶々、村上の所で知り合った編集者の一人に景山を紹介されたという経緯だったのです。


景山はその時妻との折り合いも悪く別居中だったのでまるで見計らったようなタイミングだったのです。巷間の観察では偶然ではなく意図的なものだったとされています。朋子さんは村上龍の後釜の(作家)を物色していたので、あたかも不動産屋経由で空き部屋を見つけたような按配で景山を射止めたことになるそうです。


景山は別居中とはいえまだ妻と三人の子供を抱えていたのです。妻とは長らく不仲で口論が絶えず、長女が生来の身障者だったこともあって苦悩の日々を送っていたそうです。そんな折に朋子さんとの出会いがあって心が動いたとのことです。


朋子さんは聡明な人で出版関係者などとの知己も多く、交渉事務にも経験があり、後に放送関係者との執筆や出演交渉などもこなし、景山事務所の事務全般を取り仕切ることになります。 景山は妻と子供達の頸木(クビキ)から脱するために、金銭的に大幅に譲歩して離婚に漕ぎつけ、念願の朋子さんとの再婚を果たしました。世間一般の受けが良い訳がありません。二人とも表面的にはともかく、悪評さくさくだったとしても不思議ではありません。その上、二人は程なくして、当時なにかと問題が多く不評だった新興宗教の一つに揃って入信してしまったのです。


しかし、景山と朋子さんは余程相性がよかったのか、二人の仲は人目にも密接で、いつも一緒にいたそうです。朋子さんは景山の対外事務(出版社や放送局との連絡交渉)をすべてこなし、また景山が行くところには何処にでも付いて行ったといいます。時には非常識なほどで、作家の野坂昭如は景山民夫との対談を回顧して「あれは異常な対談だった。妻が会場となった料理屋の座敷にまで同伴したんで驚いた」と述べていました。


景山民夫は臆病なほど用心深く幸福の科学が創価学会と対立、緊張関係にあった頃、4WD車を購入、スタンガンを常備していたと言います。また神戸震災以降、自宅に大量の食料を備え、外部との交信のためと称して無線通信設備まで購入していたそうです。迂闊に火事を引き起こして、むざむざ焼死するとは考えにくい人物だったのです。


幸福の科学に詳しい人の話しによると、火事の少し前から、景山は教団の総裁大川隆法とは折り合いが悪くなっていて脱会を模索中だったとも言われています。景山の独特の知性からしても宗教に深入りしているのが不思議な程で退会は時間の問題とは仲間内の誰もが思っていたことでした。景山は総裁夫人の大川きょう子とも最初から折り合い悪く、その頃は険悪な関係になっていて、誹謗する事も多く、そのため教団内で孤立していたとも言われています。教団はあたかも拡大中で会員は300万人を越えて、年会費2万円なので全国から月々数十億という現金がダンボール箱で送付されて来ていたといいます。金銭をめぐるスキャンダルは多く、幹部の一人の景山の脱会は安易に許されるものではなかったかも知れません。


しかし、景山の不測の死は教団に直接関わりがあったとも思えませんが、教団は素早い手回しで遺族(前妻と三人の遺児)を説得して病院から遺体を引き取り、火葬まで一切を取り仕切り教団葬にしています。死者は脱会するつもりの人間だったにも拘わらず。 景山の父親が警察の幹部職員だったこともあってか、彼の死は疑わしくはあったが解剖に付されることもなく事故死で決着しています。


教団の受け止めかたは知るよしもありませんが、その後、20数年を経て「幸福の科学」総裁の大川隆法は妻のきょう子を離縁して教団から追放しています。理由は他の新興宗教、オームの教祖の麻原などと同様で教団の若い女性信者にお手付きを作っていたからだということです。


景山の死後、病院の死体安置室に真っ先に駆けつけたのは幸福の科学の同僚、女優の小川知子で、彼女は景山の遺体を眺めて特に悲しむ風もなく呟いたそうです。「そう、彼が息を引き取る時、この辺りから天使が舞い降りてきたの、わたしは見ていたの」すると離れた場所から景山の長女が「違います父は病室で死んで後からこの部屋に移されたのです。この部屋ではありません」と憎々し気にいったが、小川は取り合わず教団の仲間達と臨終の奇跡についてさらに語り合っていたそうです。


景山民夫の死に隠れた事情があったかどうか、今となっては知る人もいないようです。