〝闇の封印〟の外にある『契丹古伝』の発見 | この世は謎だらけ

この世は謎だらけ

「謎」なものに興味があります

以下、http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/848.html 様から抜粋。

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【第3章 古代日本は中国に占領された―漢字文化に抹殺された真実】


神代文字を抹殺した恐るべき〝黒い勢力〟がある


奈良時代以前の日本に文字があったことは、文献にもはっきり書かれているし、遺物にもは
っきり刻まれている。したがって、文献と遺物の両方から、日本に古代文字があったことはす
でに立証済みである。


にもかかわらず、そのことがこれまで周知の事実とならなかったのはなぜだろうか。古代史
の権威が口をそろえて神代文字を否定したり、日本の古代文字を無視してきたのはいったいな
ぜなのか。


ここには私たち日本人のすべてが、いまだにその真相をつかんでいない歴史上の大きなトリ
ックがあるように思われる。そこには、これまでの権威すらも呑みこんでしまう歴史上のブラ
ック・ホールのようなもの、つまり私が先に〝漢字の呪縛〟と名づけた、私たちの目には見え
ない巨大な意志が存在し、この恐るべきカが日本の古代文字資料を抹殺して奈良時代以前の歴
史を封印してきた背景があるように思われるのだ。


その恐るべき力の正体とは何か。


私たち日本人の奈良時代以前の歴史に、誰が考えても異常としか思えない巨大な空白をもた
らした力の実体とは何か。日本古来の文字で書かれた文献を奪い取った、途方もない勢力とは
いったいなんだったのだろうか。


私には、その力の実体がどんなものであったのか、今のところすべてを正確に述べることは
できない。が、一つだけはっきりしていることは、その勢力が今から千三百五十年ほど前の大
化改新(六四五年)と白村江の戦い(六六三年)の時代に、日本海周辺のほぼ全域に台頭し、
それまでの日本にあった固有の文字と文化、王家と有力氏族の記憶をほとんど消し去ってしま
った、という点である。


私たちはこれまでの教育のなかで、日本は滅亡に瀕した百済の請いを受けて唐・新羅の連合
軍と白村江で戦い、手痛い敗北を喫したあとは〝連合軍〟の侵攻を恐れて都を近江に遷したと
しか教わっていない。いわんやその戦いに敗れたときに、そのまま日本が唐の軍隊に占領され
たこと、そして、この時代以後につくられた日本の都城や古墳の設計単位が、それまでの高麗
尺(唐によって滅ぼされた高句麗の尺度)から、唐尺に全面的に改めさせられたことなどは
一度も教わっていない。


したがって、この時期に中国東北部と朝鮮半島、日本を占領した中国の軍隊が、この地域に
伝わる固有の文字資料をことごとく抹殺し、漢字で書かれたもの以外は絶対に後世に伝えない
ようにした、などということは考えたことすらなかったはずである。


中国の日本占領〝GHQ〟は大宰府に置かれていた


けれども、古代の日本が六六三年の白村江の戦いに敗れたあと、中国の占領支配を受けたこ
とは、『日本書紀』の天智天皇の条のなかにそれとなく記されている。

すなわち、天智四(六六五)年の記事では、この年、日本へやってきた唐の使節団の人数が
二百五十四人であったのが、同八年と九年には二千人にふくれあがっている。天智八年十二月
の条にはこうある。


もろこしかくむそうよつかはきた


……大唐、郭務悰等二千餘人を遣して來らしむ。……


敗戦後の日本へ二干人という大量の使者が続々とやってきたのは異常といわなければならな
い。このことは、唐の使者がただの使者ではなく、占領軍司令部の要員であったことを暗示し
ているのだ。


また、天智六(六六七)年の記事によれば、この年には、すでに九州の太宰府が「筑紫都督
府」という呼び名に変わっているが、この〝都督府〟という表現は、唐の軍隊が高麗と百済の
都をそれぞれ占領したときに「平壌都督府」「熊津都督府」と称した例をみてもわかるように、
唐の占領軍司令部が置かれた外国の都をさしている。したがって、九州の太宰府が六六七年以
降、中国による日本占領支紀の拠点となっていたことは明らかである。


いってみれば太宰府が、第二次大戦後に皇居前の第一生命ビルに置かれたマッカーサーの占
領軍司令部(GHQ)と同じようになっていたのである。そして、戦後の日本が英語使用を強
要されたのと同じく、いやそれ以上に、白村江の敗戦後の日本は、全面的な漢字使用を強制さ
れたのだ。


天智天皇はこの年の春、近江京に遷都し「漢字使用令」を出した。こうした近江京の文化が
漢字文化そのものであったこと、そして、天智天皇と天武天皇に代表される勢力が六七二年の
壬申の乱で激しい死闘を演じたことなどは、これまで、この時期の中国による日本占領支配と
のかかわりのなかで論じられたことはなかった。


この問題については、ごく少数の学者か天智天皇は百済系で天武天皇は新羅系または高句麗
系であったということを述べる程度にとどまり、白村江の敗戦以後、日本と朝鮮、中国東北部
にまたがるかつての高句麗王国が解体したことや、その後、壬申の乱を機に高句麗の旧領に渤
海・新羅・日本の三国が、唐の承認を必要とするかたちで成立したことなどは論じられていな
い。


しかし、この時期の唐帝国の周辺を見渡せばわかることだが、この頃からインドと日本を結
ぶ南海ルートの影が薄くなっていく。つまり、私流にいえば、インド以東のアジアには漢字以
外の文字文化が、それ以前にはなかったような印象が強くなる。


七世紀の初めに隋の陽帝が率いる百万の大軍と戦ってこれを退け、ついに隋を滅ぼす糸口を
つくった高句麗は、六六八年に唐によって滅ぼされるまで、七百年以上もの歴史を誇っていた
古い国であるが、このような国にさえ固有の文字で書かれた記録はなかったことになっている。


秦・漢帝国以来の中国諸王朝が、周辺諸国にみずからの漢字文化を押しつけ、中国の宗主権
を認めない国を侵略して、その国の文字文化を破壊したことは、中国の史書に王家の記録を没
収した記事がたびたび登場することをみても確かだ。


このような中国の支配者による歴史抹殺の手口、すなわち漢字以外の文字で書かれた他民族
の記録を抹殺し、そのことによって他民族を中華帝国に従属させていくやり方の最も顕著な例
が、秦の始皇帝による焚書坑儒だ。


中国における漢字の成り立ちを調べてみても、漢字のなかには、それ以前に大陸の各地で使
われていた日本の古代文字を並べ替え、それによって元の意味を消し去る手法で新たにつくら
れた例がいくつかあることが確認できる。


〝日本解体〟を目にした天武天皇の憤慨


これまで日本人は、中国の漢字文化を受け入れることによって、原始の日本が開明化したか
のように教えこまれてきた。が、それははたして本当だろうか。実際は逆ではなかったか。


中国の日本占領支配の実態は、目にあまるものがあったように思われる。壬申の乱に勝利し
て、中国の日本占領支配にいちおうの終止符を打った天武天皇も、国内の中国人に対し、憤慨
してこう述べている(『日本書紀』天武六<六七七>年の条)。


なんじ
「汝らのやからは、もとより七つのあしきことを犯せり、
はか
……常に汝らは謀りごとをもって事わざとなす」


つまり、中国人がいつも陰謀を企て、国家の解体をはかってきたことを天武天皇は糾弾して
いるのである。こうしたことはおよそ、戦争に敗れた国が占領軍に対して種々感ずることであ
ろう。通常の日本人が、史上初の被占領体験と孝えている第二次大戦後の約十年間にも、同様
のことをアメリカに対して抱いたと聞く。


いや、それ以上のものだったろう。被占領時にその国の歴史に根ざす貴重な遺産ともいえる
言葉や文字を剥奪された例はたくさんあるし、戦勝国の文字を押しつけられた国は古今東西を
問わず多くの実例で確かめることができる。


しかし、である。まさか私たちの国にもこのような屈辱的な歴史があったとは、讀者は夢に
も思わなかったであろう。そう、日本は白村江の戦いに敗れて中国に占領され、漢字使用を押
しつけられるなかで神代文字を喪失したのだ。


稗田阿礼は神代文字の〝通訳〟だった


天武天皇は、二度目の被占領時の首相・吉田茂にたとえられるかもしれない。完全な再独立
こそできなかったにしても、主権の回復はなしえたことと思われる。その一端が『古事記』の
成立である。また、天武の即位後しばらくして「筑紫都督府」の呼称も消えている。

ちなみに、さきにもふれた壬申の乱だが、通常、天智と天武は兄弟であり、この内乱は皇位
継承をめぐって天智の子・大友皇子との間で戦われたとされている。


しかし、そうした考えからは天智と天武の政策の遠いがまったく説明できない。そこに〝歴
史の闇の封印〟が介在していることは明らかだろう。


前述した系統の違いはその意味でも注目される。そして、これを詳述するには紙面に限りが
あるため、ここでは皇室の菩提寺(京都の泉涌寺)に天武天皇の墓がないことだけをいって
おこう。


さて、稗田阿礼が〝誦み〟、それを太安万侶が漢字で書きとめてつくられたといわれる『古
事記』だが、私はなんらかの圧力(たとえばそれ以前にあった日本の古代文字の記録を漢字に
改めるようかかった圧力)と、日本の解体を憂慮した天武天皇の意思とが相乗されて撰録され
たと考えている。


その証拠に、『古事記』には、稗田阿礼が神代文字で書かれた記録を〝読んだ〟ものを、安
万侶が漢字に改めていったという意味合いのことがはっきり書かれている。たとえば、安万侶
自身が『古事記』序文でこう述べている。


そこで天皇(天武天皇のこと)は阿礼に命じて、帝皇の日継及び先代旧辞を誦み習わせ
たり……。


ここに天皇(持統天皇のこと)は、帝紀及び旧辞の違いを正そうとして、臣、安万侶に
命じて、阿礼が誦むところの先帝(天武天皇)の御命令になられた旧辞の類を撰録して差
し出すようにと仰せられた……。


つまり、安万侶は「阿礼が誦む(=読む)ところの帝紀・旧辞」を手がかりとして、『古事
記』を編纂したのである。もし帝紀や旧辞が漢字で書かれたものであるなら、漢文の達人だっ
た安万侶がそれを自分で読めばすむことで、わざわざ阿礼の口を借りる必要はないはずだ。


これはどういうことを意味するのか。そうだ、『古事記』の元になった『帝紀』や『旧辞』
(注12)は、阿礼には読めても安万侶には読めない文字、つまり日本の古代文字で書かれてい
たのだ。そして、阿礼は神代文字で書かれた記録と漢文の橋渡し役、いわば通訳として安万侶
のために働いた、ということではないか。


記憶力バツグンといわれた阿礼は、「読み習ったもの」を記憶した。しかしそれは、神代文
字で書かれていたものを読んで、それを記億にとどめたということなのだ。


正史編纂という国家の重大事業にあたって、おそらく阿礼は、神代文字で書かれた『帝紀』
や『旧辞』を暗誦するくらい念入りに讀み、それをていねいに安万侶に読んで聞かせたものと
思われる。


ヒエタノアレモコロサレキ―知りすぎた男の悲劇


こうして日本人は、八世紀の初めに『古事記』と「日本書紀』というかたちで、漢字に置き
替えられた日本の歴史書をもったが、その元になった『帝紀』や『旧辞』などの書物、あるい
は日本に古くから伝わる固有の文字で書かれた由緒正しい歴史の記録を失うことによって、本
来の日本人がもっていた自由な精神や創造的な見方さえも失ってしまったのではないか。


私がこのことを痛感するのは、ほかでもない。宮崎県の高千穂で見つかったという碑文(郷
土誌『すみのえ』一〇四号所収)を私なりに解読した結果、そこに以下のような恐るべき一文
が刻まれていたことを確認したからである。


「ヒエタノアレモコロサレキ」(稗田阿礼も殺されき)


この短いが驚くべき一文について、説明は要すまい。稗田阿礼は『古事記』の完成した七一
二年以後のある日、突然、何者かの手によって暗殺されたことを、この高千穂碑文は物語って
いるのである。


もしこのことが事実であるとしたら、彼の死は、日本の古代文字資料に記されていた真実の
歴史が、闇の力によって葬られたことを意味するのである。


そして、このことはまた、そのような力がつい最近まで、すべての日本人の無意識に働きか
け、私たちの歴史解明の努力を歪めてきたことをも意味している。


『古事記』と『日本書紀』が日本の古代文字で書かれず、漢字を使って書かれた背景には何が
あったのか。日本人の言葉と歴史が漢字に置き替えられたとき、そこにはどんなトリックが用
意されていたのか。稗田阿礼は、その秘密をあまりにも知りすぎたために消されてしまったの
ではないだろうか。


おそらく阿礼と同じ運命にあった者は一人や二人ではなかったろう。「稗田阿礼も……」と
いう記述からそれを察することができる。


ベールに覆われた日本人の祖先の歴史


私は漢字以前の日本の古代文字の存在について検証してきた。


日本には漢字以前に文字がなかった、という定説がなぜつくられてきたのだろうか。それは、
この高千穂碑文の解読の結果、「稗田阿礼も殺されき」という言葉によっても推測されるよう
に、意図的に日本の過去の歴史が消されていった事実を示しているのだ。

時の権力者、この場合は中国(唐)の日本占領軍の指令によって、日本古来の文字を使うこ
とが禁止され、占領国の文字(漢字)を使用することが強制されたのである。


とはいうものの日本は古い国である。古代の「残存遺物」は多く残されているし、「古史古
伝」と呼ばれる「記紀(『古事記』と『日本書紀』)以前の書」にも伝えられている。


これらの文書は、もちろん日本の古代文字で書かれていたにちがいないが、古代文字の使用
が禁止されたあとは、漢字を当てはめて書き写され、伝えられてきた。


古史古伝が偽作、偽書とされる理由は、その内容が記紀と異なる部分が多いことにある。し
かし記紀の記述が一〇〇パーセント正しいという証明はなされていない。『魏志倭人伝』に記
述されている邪馬台国や、その女王の卑弥呼について、記紀は一言もふれていないではないか。


逆にいえば、『魏志倭人伝』を中心にみるなら、記紀こそ偽作、あるいは偽書だという疑いす
ら出てくる。


まして、古史古伝には、ほぼ共通したテーマ、あるいは目的のようなものがある。それは、
そのほとんどが古代の権力闘争に敗れた側の豪族の家系に伝わった文書というかたちをとって
いることである。戦争に勝利した新しい権力にとっては、これらの敗北者の過去の歴史は抹殺
の対象になるべきものであったにちがいない。だからこそ、文書を保存しようとする敗者の側
は、さまざまなカムフラージュを施すことになる。


したがって、後世の私たちが読むと、難解で奇想天外な話として映り、それが歴史的事実だ
ということがわからなくなってしまいそうである。


しかし、それは史実を史実でないようなものに変えて伝えたために、そうなってしまった、
と受け止めるのが正しい見方であろう。


だとすれば、古史古伝を読む場合は、意図的になされたカムフラージュのべールを一枚一枚
たんねんにはがしていけばよいわけである。するとそこには、消されたはずの私たちの祖先の
歴史が、白日のもとに浮かび上がってくるにちがいない。


〝闇の封印〟の外にある『契丹古伝』の発見


このような視点に立って、読者とともに古史古伝を読みながら本書を進めていこうと思うの
だが、まず最初にあげられるものは『契丹古伝(きったんこでん)』であろう。


『契丹古伝』は九四二年に編纂された遼(契丹)王家の史書である。遼は、文献史上では五世
紀に内モンゴルのシラムレン河流域に現われた遊牧狩猟民族・契丹(キタイ)が十世紀に打ち
立てた王朝で、モンゴルから中国東北地方と華北の一部にまたがる地域を支配していた。宋か
から燕雲十六州を奪うなど、いわば中国(漢人〈漢民族〉)と対抗していたといっていい。しか
も『契丹古伝』は一九〇五年に現在の中国・吉林省で発見されるまで長い間王家の人々によっ
て守られてきたため、漢民族の〝闇の封印〟にあっていない。

そしてこの、『契丹古伝』の編纂目的は、建国まもない遼(九一六~一一二五)の王家がみ
ずからの歴史的背景と正統性を明らかにしながら、漢民族の中原(ちゅうげん)支配に抵抗する周辺民族の団結をリードし、鼓舞するところにあった。


が、同書は結果的に、私たち日本人が今となっては入手できなくなった『秘府録』(後述)
をはじめとする八世紀以前の古代史料を駆使することによって、記紀や他の古史古伝から洩れ
てしまった渤海滅亡以前の高句麗・日本の太古史を明らかにする数少ない貴重な資料となった
のである。


これは、同書の編纂に携わった契丹の史官・耶律羽之(やりつうし)の歴史家としての資質が優れ
ていたこと、すなわち憶説にたよらず「史料に語らせる」という客観的で実証的な叙述方法の
賜物である。


『契丹古伝』は『秘府録』その他の資料を忠実に引用することによって、私たちがもはや知る
機会のなくなった太古日本の歴史の真相を間接的に物語ることになった。


さらにこの書物は、契丹王家の源流を明らかにする試みを通して、アジア全土にかつて栄え
た高句麗・日本の王家の失われた歴史をよみがえらせ、今は亡き契丹人の祖先とともに私たち
日本人の祖先が西方からの侵略者と勇敢に戦ったことや、漢帝国の成立以前に彼らが世界各地
で活躍した事を伝えてくれるのである。


紀元前の日本史と世界史の虚構が暴かれる!


さて、『契丹古伝』が私たちに垣間見せてくれる太古日本の歴史は、その内容があまりにも
通説とかけ離れているため、これまで欧米や中国の学者たちが流布してきた世界史の常識に従
えば、まったくの空想としか思えない。

が、『契丹古伝』によれぱ、私たち日本人と契丹人の共通の祖先である「東大神族(シウカラ)」(『契丹
古伝』では「東大古族(とうたいこぞく)」とも記される)の歴史は、過去三千年にわたってエジプト、シュメー
ル、インダス、黄河の地を次々に侵略してきたアッシリヤ人、つまり中国で漢人(あやひと)として知られ
る欧米の支配階級アーリヤ人の手で抹殺され、改竄(かいざん)されてきたという。


つまり、私たちがこれまで教わってきた紀元前の日本と世界の歴史、とくに秦・漢帝国、ロ
ーマ帝国以前にカラ族=東大神族が地球の各地で都市文明を興した史実を抹殺した世界史はこ
とごとく虚構である、というのが『契丹古伝』全体を貫く基本テーマとなっている。


私たちの祖先の真実の歴史、カラ族(クル族)と呼ばれてきた東大神族がかつて地球のすみ
ずみに築き上げてきた輝かしいムー文明(太古日本の宇宙文明)の歴史は、アトランティス人
(漢人/アーリヤ人/アッシリヤ人)の手で巧妙に流布されてきた歴史の通説にひそむ大ウソ
を暴かないかぎり明らかにすることはできない、と同書は訴えているのである。


「漢字の発明者・蒼頡(そうきつ)」の碑文がいまだに解けない漢字国・中国の謎

たとえば『契丹古伝』は、紀元前の中国大陸の主人公はあとからやって來た漢民族ではなく、
もともとそこに住んでいた日本人の祖先だった、と記す。


そこで、これから述べることは拙著『超古代世界王朝の謎』(日本文芸社刊)のなかですで
に紹介したことだが、きわめて重大なことなので再び取り上げながら、目を中国自体に向けて
みよう。


中国の歴史の記録は、前漢の武帝が司馬遷に命じて編纂した『史記』に始まる。この『史
記』の記録に基づいて、これまで紀元前の中国には、夏(か)とか殷(いん)、周(しゅう)(西周)という王朝があったとされ、やがて秦という強大な王朝が台頭して中国全土を統一した、ということになってい
る。秦による中国の統一以前の歴史は、一般には次のようにいわれている。


すなわち、紀元前七七〇年頃から東周の時代が始まり、諸侯の一つであった大国の晋(しん)が紀元
前四〇三年頃に分裂したあと、戦国時代になった。そして紀元前五世紀に始まる戦国時代から、
斉(せい)・晋・楚(そ)などの覇王の戦いが激しくなっていった。そして、戦国諸国を統一したのが秦の始
皇帝である、と。


しかし、このように教えられてきた中国の歴史がはたして真実だったのかどうか、日本の場
合と同様、考え直してみる必要がありそうだ。


その好例として、中国の西安郊外に碑林(碑文の林)というところがある。その碑林に、漢
字の発明者といわれる蒼頡(そうきつ)という人物が残した碑文がある。


漢字を発明したのがほんとうに中国人であるとしたら、この蒼頡碑文はとっくに中国の学者
が読み解いていていいはずだが、いまだに中国では謎の碑文として、未解読のままなのである。


しかし、そこに書かれている文字は、101ページをご覧になればわかるとおり、日本に伝わっ
ている北海道異体文字(アイヌ文字)とそっくりである。また一部、トヨクニ文字に似ている
ものもある。そこで、この蒼頡碑文を、日本の北海道異体文字とトヨクニ文字の混用文として
読んでみるとどうだろう。


死後に富むを得
幸い子々孫々まで
満たしめよ
いわん
とくれぐれ言はれけむこと
つつしう
たみたみ慎み思ふ


ここには、古代の日本語として意味をなす、すばらしい文が刻まれているのである。そこで
疑問となるのは、なぜ古代の中国に日本の神代文字で書かれた碑文があるのか、ということだ。
これは大問題である。もしかしたら漢字の発明者と伝えられる蒼頡という人物は、中国人では
なく、古代の日本人ではなかったか。こんな途方もない想像さえ生まれてくる。


中国・戦国時代の斉(せい)は出雲の国の事だった!?


古代中国に日本人がいた!?しかもこの日本人は漢字の発明者らしい。


私は不思議に思って、改めて日本神話と斉の国の神話を読み直してみることにした。


するとどうだろう、これまで誰も考えつかなかったような、もっとすごいことがわかってき
たのである。


それはプロローグにも記したが、日本神話と斉の国の記録のなかにみられる「国譲り」の話
が驚くほどよく似ていることだ。かいつまんで話すと、こうなる。

斉の最後の王である王建は、秦の始皇帝に国譲りをしている。一方、出雲神話のなかにもオ
オクニヌシがニニギノミコトに国譲りをしたという話がある。


そこに登場するオオクニヌシの祖父はサシクニヲホといい、母はサシクニワカヒメという。


この二人の名前を北海道異体文字で表わしてみると、105ページ図10のようにそれぞれ、「敫(きょう)」
「君王后(くんこうおう)」という字になる。


もうお気づきだろう。斉の最後の王、王建の祖父と母は、オオクニヌシの租父および母と、
ピッタリ一致してしまうのだ。


ということは、出雲神話のサシクニヲホとサシクニワカヒメが、それぞれ斉の国の?と君王
后という人物にすり替えられた、ということではないだろうか。


そう思って、ほかにもいろいろ調べているうちに、それを裏づける証拠が次々と出てきた。
まず、それぞれの国譲りをした場所と、そのあと移った場所について、さきほどのようにし
て調べてみると、これまたピッタリ一致することが判明した。すなわち、日本神話のイナサノ
ヲバマが斉の「荊」に、タギシノヲバマが「松柏」という字になるのである。


このことは何を意味しているのだろうか。これは、中国大陸を舞台とした出雲のかつての真
実の歴史が、のちに漢字に書き改められ、中国の歴史にすり替えられてしまった、ということ
を意味していないか。


さらに、この頃(戦国時代)の貨幣を調べてみると、戦国諸国が現在の中国大陸にあったな
ら、当然、それぞれ独自の貨幣をもっていたはずなのに、どれも斉の貨幣と同じものを使用し
ていたことが判明している。しかも奇妙なことに、その貨幣にはすべて、たとえば「アマフユ
キヌ」のように、当時の出雲の王の名が神代文字で刻まれているのだ。


この事実からも、戦国時代の斉の正体は、日本神話でいままでその実在性が疑問視されてき
た出雲の国だったことがよくわかるのである。が、決定的なのは次の事実だ。


出雲を神代文字で表わし、それを組み合わせてみると、なんと〝斉〟という字になる。これ
をみれば、中国の歴史がすり替えられたことは一目瞭然である。どうやら中国においても、
『史記』以前の記録のすり替えが行なわれたことは間違いないようだ。


いってしまえば、漢の武帝が紀元前一〇八年頃、司馬遷に書かせた『史記』とは、とんでも
ないクワセモノということになる。


司馬遷は『史記』の執筆中、獄につながれていた。完成後には解放される約束であったにも
かかわらず、まもなく殺されてしまった。


これはちょうど、『古事記』の編纂に携わった稗田阿礼が、やはり『古事記』完成後に殺さ
れたという事情とよく似ている。両者は偶然の一致とは思えない。日本の太古史と中国の古い
歴史を抹殺しようとした勢力が、それぞれの背後にあったことは間違いない。


紀元前の中国史を書き換えた〝西から来た人〟とは何か?


私はその正体を追ってみた。その結果私が得た結論は、さきの『契丹古伝』に記されたとお
りだった。『契丹古伝』が語るところを引用してみよう。


その昔、地球は大異変に見舞われ、恐るべき洪水が発生して、海と陸の形はすっかり変
わってしまった。


この異変で地軸が傾いた結果、大地は中国の北西部で縮んで盛り上がり(ヒマラヤの隆
起)、南東部で引き裂かれて沈没した(フィリピン海溝の形成)……。


尭・舜の時代に地球の全土は戦火に包まれ、禹(う)は洪水の後始末に追われた。


ところが、このような戦争と異変の混乱に乗じて、人身牛首の神を祀るもの、蛇身人首
の鬼を祀るものが、西から東へ次々とやって来て、我らの地に住みついた……。


前述したように、『契丹古伝』はここで、紀元前の中国大陸のもともとの主人公は今の中国
人ではなかった、と述べている。現在では漢民族が最初から中国五干年の歴史の主人公であっ
たかのように説かれているが、それは事実ではないらしい。紀元前の中国の歴史は、西から来
た人々によって書き換えられてしまった、というのである。その先をもうすこしみてみよう。


彼らはみずからを我ら東大古族の神の子孫と偽ったばかりでなく、伏犠(ふくぎ)や神農(しんの
う)、黄帝(こうてい)、少昊(しょうこう)なる人物を、我らの王の祖先に仕立てあげ、その系図に自分たちの祖先をつなげて、これら偽りの神と王に対する崇拝を我らに強制して、みずからを聖帝の子孫なりと誇らしげに語っている。


ここに書いてあることは非常に重大である。私たち日本人と契丹人は〝東大古族〟といわれ
ていたが、西から侵入してきた人たちが、自分たちこそ東大古族の神の子孫であると偽り、系
図や歴史まで自分たちのものとしてでっちあげたというのである。さらに先がある。


けれども彼らは、みずからの祖先と思っていた尭と舜が、彼らの思惑に反して、東大古
族の王であったことをはたして知っているのだろうか。


西から中国の地に移住して帰化した人々が、我らの王に仕えたのは、尭・舜のときでは
なく、その後久しく續いた夏王朝の創始者たる禹のとき以来のことである。彼らは禹を、
あたかも彼ら中国人の王であり、中国大陸だけを治めた王であったかのように記している
が、これはとんでもない間違いだ。


これらのことがもしも事実だとすると、これはゆゆしきことである。つまり、中国大陸のも
ともとの主人公は、いまの中国人の祖先ではなく、東大古族といわれていた日本人と契丹人の
共通の祖先だった、ということになるからだ。さらに『契丹古伝』はこう語る。


『史記』に記された禹は、大洪水を生きのびてティルムンの楽園に住んだシュルッパクの
王、ウトナピシュティムをさしている。彼の治めた地域は、息子のギルガメシュが活躍し
たメソポタミアのウルクだけでなく、全世界に及んでいたのである。


我ら東大古族の王である禹は、中国だけの王ではなく世界全体の王であったことが、西
族の伝承によっても確かめられるのである。


ここに「西族の伝承」と記されているのは、中国大陸に西から侵入したアッシリヤ人(漢
人)が今のイラクあたりに残した粘土板文書に登場するシュメール伝説をさしている。

しかし私たちは、そのシュメール伝説のティルムンの王がはたして我々日本人とどんな関係
があるか調べてみなければ、ここに書いてあることをにわかに信じるわけにはいかない。
私はさっそくアッシリヤの歴史を調べ、「西族」の宮殿跡から出土したといわれる粘土板文
書にあたってみた。すると……。