ねずさんのブログよりの転載です。

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何かおかしいよね、今の日本。


上の写真は、壁に書かれた日本語の文字です。
「大正9年5月24日午後12時 忘ルナ」と書かれています。

大正9(1920)年といえば、いまから93年前です。
文字が書かれている場所は、ロシア極東部、ハバロフスク地方にあるニコライエフスクの、とある建物の中です。

ニコライエフスクという街は、黒龍江(アムール川)の河口から20キロの地点にあります。
ロシアの太平洋側、樺太の北端に近い場所です。
昔はここを尼港市(にこうし)と呼ばれていました。

その尼港市で、大正9年に、いったい何があったのでしょうか。
世界が絶対に忘れてならない歴史がここにあります。



何かおかしいよね、今の日本。


当時、尼港市には日本人約700名を含む1万7千人あまりが住んでいました。
内訳は次の通りです。
 日本居留民 約   700名
 白系ロシア人約1万5000名
 中国人   約  1000名
 朝鮮人   約   500名

日本人700名というのは、日本陸軍の二個歩兵中隊の約260名と、その家族の婦女子440名です。

どうしてここに日本陸軍が駐屯していたのでしょうか。
侵略でしょうか。

違います。ちゃんと理由があって駐屯していました。
きっかけは、大正6(1917)年に起こった帝政ロシアにおけるレーニンに指揮された「ロシア革命」です。

ロシア革命といえば、いまでは、なにやらロシアがレーニン達共産主義者によって、ただちにソヴィエと連邦共和国となり、ロシア全体が夢と希望に満ちた共産主義国家になったかのように印象操作されていますが、事実はそんな簡単なものではありません。
レーニンは、ロシア皇帝を引きずり降ろして政権を奪ったのだけれど、まだその時点、つまりロシア革命成立当時は、世界中どこの国の政府も、レーニンのこのソ連という名の革命政権を「国家」として承認していなかったのです。
むしろ過激派によるテロ行為として警戒していました。
あたりまえです。それまで国際舞台で活躍していた旧ロシアの貴族や政府の要人たちを、片端から殺しまくったのです。警戒しない方がどうかしています。

さらにやっかいなことには、この革命によって旧ロシア国内の各地が無政府状態になってしまったのです。
とりわけ、ここが大事な点ですが、たくさんの囚人たちが幽閉されていたシベリアの刑務所から、「シベリア送り」となっていた凶悪犯罪者たちが牢から出され、自称「共産パルチザン」を名乗って、各地で無法な殺戮を繰り返していたのです。

すこし考えればわかることですが、牢から出されただけでは、食料も武器もありません。
凶悪犯たちは、単に牢から出されただけでなく、社会の破壊と混乱を目的とする共産党から豊富な武器や弾薬を無償で提供されていたのです。
キチガイに刃物とはよく言ったものです。
凶悪犯達は、民家を襲い、食べ物や財物を奪いました。
さらに集団で徒党を組み、組織化されたゲリラ集団となって、シベリア各地を荒し回ったのです。

そして彼らは自分たちの暴行を「外国勢力追放」というタテマエで正当化しました。
そして各地でロシア人たちだけでなく、外国人に対して襲撃をしてまわっていたのです。

ロシア革命成立当時は、それでもまだシベリア方面には保守派のロシア極東総督であるロザノフ中将や、コルチャック提督などが健在でした。
彼らは帝政ロシアの正規軍を用い、パルチザン化した凶悪犯たちと戦ってくれていたのです。
しかし、大正8(1919)年になると、シベリア・オムスクにあったロシア総督府が、武装共産パルチザンの攻撃によって、皆殺しにされてしまったのです。

英米日の三国は、無法地帯化したロシアでの市民の安全確保のため、その前年の大正7(1918)年8月から、シベリアに国際共同歩調として出兵していました。
日本の軍人が尼港に駐屯していた事情と背景がここにあります。

ところが軍を派遣した翌年には、上に述べたようにロシアのシベリア総督府が崩壊してしまったのです。
身の危険を感じた米英両国はシベリアから早々に撤兵してしまいました。
英米からしてみれば、自国とは、まさに「地球の反対側」にあるシベリアの田舎の出来事でしかないのです。
列強としての国際的責任、および共産主義革命への対抗上、やむなくシベリア出兵していただけで、ロシア総督府が壊滅してしまったのなら、自国の安全を図るため、兵を撤収し、自国の近辺に兵を配する。
英米両国にとっては、撤兵は、ある意味、当然の措置であったといえるかもしれません。

けれど日本にとっては、友好で穏健な総督府があればこそ極東の平和と日本居留民の安全が図られ、ひいては日本の安全を守れていたのです。
ロシアのシベリア総督府が倒れたとなると、これは日本居留民の安全確保と日本本土防衛上の必要の両面から、撤兵するわけにいかない。
英米と異なり、日本にとっては、シベリアは「すぐ隣」の出来事だからです。

地理上シベリアは、北海道・樺太に直結しています。
ところが、ロシア総督府が倒れ、英米も撤兵してしまう。
そうなると日本の防衛線は、極度の戦力不足となってしまいます。
そこでやむなく日本は、第十二師団(約1万5千名)をシベリアに派遣しました。
ただ、シベリアは広大な土地です。
師団の兵士達は、各所に分散され、結果としてニコライエフス(尼港)には、わずか二個中隊260名が駐屯した、という情況だったのです。

そして事件は起こりました。

雪深い尼港は、共産パルチザンもなりをひそめ、比較的静かな状態だったのです。
そこへ大正9(1920)年1月29日、突然現れたのが、ロシアのトリビーチンを首領とする約4千人の共産パルチザンでした。
彼らは、いきなり尼港市街を包囲したのです。

守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊(260名)と、無線電信隊の40名、それと保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ばれていたロシア兵)、合計約350名たらずでした。
つまり、守備部隊の10倍以上もの武装した暴徒が、街を取り囲んだのです。

街を包囲した共産パルチザンは、「自分たちには敵意はない、食料の補給に協力をしてほしいだけだ」と称して、市内に入りこみました。
ところが市内に入るやいなや、ロシア白衛軍の将兵を捕らえて、これを全員虐殺してしまったのです。
さらに一般市民の中から「有産智識階級」と思しき市民を虐殺し、家内の家財、財宝を強奪しました。
そしてユダヤ人を選び出し、婦女子にいたるまで、その全員を強姦し虐殺したのです。
共産パルチザンたちは、銃剣で突き刺して殺害したロシア人やユダヤ人たちを、黒龍江の結氷を破ってつくった穴から、凍る流れに次々と放り込みました。
こうして、たった一晩で、尼港ではロシア人とユダヤ人約2500人が虐殺されたのです。

この事態を前に、次の日、尼港の穏健な石田副領事は、パルチザンたちに対して「まことに遺憾」と厳重抗議を行ないました。
けれど共産パルチザンたちは、もとよりそんな口先だけの「抗議」など受け入れません。
あたりまえです。受け入れるくらいなら、最初からパルチザンなどやっていない。虐殺などしません。

それどころかパルチザン達は、日本の副領事の抗議に対して、逆に日本側に「武装解除」を要求してきたのです。
日本兵が武装解除したら、そのあと何をされるかは火を見るよりも明らかです。
なにせその前日に彼らは2500人もの人を問答無用で虐殺しているからです。

現地の日本軍部隊は、日本に急を知らせる電文を打ちました。
けれど日本からの救援隊は、小樽からの発進です。
真冬の寒い時期です。
海面が凍結しています。
すぐには動きようがありません。
満州にいる他の部隊も、いちばん近い部隊で、陸路で到着するのに40日かかります。

尼港から撤退するにも、周囲は凍っているし、尼港の街自体が、共産パルチザンによって、蟻の這い出る隙もないほど包囲されています。
援軍もなし、撤退も不可能。
尼港の駐留隊は、極寒のシベリアで、完全に孤立していたのです。

座して死を待つくらいなら、勇敢に戦って死のう。
白人たちの惨殺を目の当たりにしていた日本人部隊は、義勇隊を募りました。
そして110名で武装パルチザンの本拠を急襲しました。
けれど衆寡敵せず、駐留部隊指揮官石川少佐以下多数がまたたくまに戦死してしまう。

義勇隊に参加しなかった軍人、軍属と女子供達600名は、義勇隊の奮戦の最中に、日本領事館に退避しました。
けれど、領事館に集まることができたのは、わずか250名でした。
逃げ遅れた人達は、武装した共産パルチザンの手にかかったのです。

何が起こったのか、事後の調査記録があります。
それによると、共産パルチザンたちは、子供を見つけると二人がかり手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し、おもしろ半分に両足を二頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺していたのです。
こうしてまたたく間に、義勇隊110名と、逃げ遅れた日本人約100名が犠牲となりました。

日本領事館に逃げ込んだ人達も、けっして安穏としていれたわけではありませんでした。
領事館を襲おうとする共産パルチザンたちと、領事館に立てこもった日本軍との間で、戦闘はまる一昼夜続きました。

これは、とんでもなくたいへんなことです。
実際に、傭兵となって世界の戦場を点々とした人から直接聞いた話なのですが、一般に、銃を撃ち合う戦闘というものは、ほんの数分で決着がつくものなのだそうです。
銃撃戦が10分も続いたら、「今日の戦闘はむちゃくちゃ激しかったねえ」などと、後々まで話題になる。
それだけ銃撃戦というのは、戦闘員たちにものすごい集中力と緊張を強いるものなのです。

それが、尼港の日本領事館では、まる一昼夜です。
立てこもる日本人兵士たちの緊張感、後方で震えていた日本人婦女子たちの恐怖は、想像するにあまりあります。

一昼夜が経ち、朝日が射す頃には、領事館内の生存者は、わずか28名になっていました。
弾薬も底をついてしまう。
残った一同は、まず子供を殺しました。
そして石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決しました。
こうして一夜が明けたとき、尼港に残る日本人は、河本中尉率いる別働隊と、領事館に避難しなかった民間人121名だけとなりました。

抵抗を続ける日本人達に対し、これを「強い」とみた共産パルチザンは、策を弄しました。
山田旅団長の停戦命令を偽造したのです。

河本中尉は、これは「怪しい」思ったそうです。
けれど、もし停戦命令に従わなかったことが、後日、国際上の問題となったら。
それは軍記を守る皇軍として、取り返しがつかないことです。
なぜなら、軍は、あくまで上官の命令によって動くものだからです。

河本中尉は、命令を受け入れました。
生き残っていた121名は、全員、武装解除に応じたのです。
そして全員が投獄されました。

牢獄では、ろくに食事も与えられないまま、日本の救援軍に対する防御陣地構築のための土方仕事に駆り出されました。
零下三〇度の極寒の中で、凍てついた大地に土嚢を積み上げ、陣地の構築をしたのです。
そして、陣地構築が終わると、手のひらに太い針金を突き通して、後ろ手に縛られ、凍ったアドミラル河の氷の穴から、生きたまま共産軍によって次々と川に放り込まれ殺されてしまいました。

春になってようやく旭川第7師団の多門支隊が現地の救援にやってきました。
そこで彼ら救援隊が見たもの。
それは、まさに地獄絵図でした。
焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、そこには「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」と記した共産パルチザンの声明書が残されていました。

日本の救援部隊来着近しの報を受けた共産パルチザンは、5月14日に、支那人の妻妾となっていた14名の日本人女性以外、生き残った日本人全員を殺害していたのです。

支那人の妻妾となっていた女性たちの証言から、1月29日から5月14日までの106日間の尼港の模様が明らかになりました。
そこで何が起こっていたのか。

日本人は、生きたまま両目を抉り取られ、五本の指をバラバラに切り落とされ、死ぬまで何度も刺されていました。
そして金歯があるものは、生きたままあごから顔面を切り裂かれて、金歯を抜き取られました。
女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されました。

獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚などがこびりついていたそうです。
そして、その獄舎の中で発見されたのが、壁に書かれた冒頭の写真でした。
そこには、被害者の手によると思われる鉛筆書きで、
「大正九年五月二四日午後十二時を忘れるな」と書かれていたのです。

この事件は「尼港事件」と呼ばれ、当時一部の報道はされたものの、あまりに残酷性が高いことから、報道規制が行われています。
注意していただきたいのは、この事件が起こった当時、日本は、ロシアとも、レーニン率いるソ連共産党とも戦争状態ではなかったことです。
むしろレーニン自身が述べているように、ソ連共産党と日本は、良好な関係でさえあったのです。
そしてもっと言えば、レーニン指揮下のソ連は、この時点ではまだ国際的に「国家」として承認されていません。
つまりこの事件当時、ロシアはすでに崩壊しており、ソ連はまだ国際的には存在しない。
つまり、シベリアは、まさに無政府状態にあったのです。

最近の日本の歴史教科書は、日本のシベリア出兵について、「日本がシベリアでの勢力拡大を狙い、連合国間の協定に違反する大兵を派遣し、撤退したのも最後になった。(中学社会 歴史 教育出版)」と書いています。
これだけ読んだら、まるで日本が悪者です。

けれど、上の文をお読みになった方にはわかるはずです。ロシア革命によってロシア、とりわけシベリアは無政府状態になっていたこと、その結果シベリアに流刑されていた帝政ロシア時代の凶悪犯達が、ソビエト共産党の支援を受けて武装し、共産パルチザンとなっていたこと、そうした中でロシアのシベリア総督府は、治安維持を図るため、共産パルチザンたちと必死に戦っていたこと、民間人たちへの殺戮を防ぎ、治安を維持するため、英米日三国が一致協力して軍隊をシベリアに派遣していたこと、ロシア総督府が共産パルチザンに制圧されると、英米の軍隊は、さっさとシベリアを放棄して逃げだしてしまっていたこと、日本は、本土防衛上、やむなく軍の駐屯を続けざるを得なかったこと、等々です。

そして大事なことは、国外で起きた事件には、日本の国法は通用しない、ということです。
当然、日本の警察権も及びません。
無法地帯となった国外では、軍隊だけが、秩序維持ができる唯一の機関だ、ということです。

そして日本は、無政府状態と化したシベリアの秩序維持のために、第十二師団をシベリアに派遣しました。
けれど、広大なシベリアに、師団ひとつです。
兵力はわずか1万5000名です。
そしてその師団は、各地に分散され、尼港のような、当時としてみれば比較的大きな市街でさえ、守備隊は、わずか二個中隊しかいないという状況だったのです。
(中隊は、一中隊136名の小規模部隊です)

そして「日本軍が少数であることをよいことに、四千という大人数で、武装した共産パルチザンが尼港に襲いかかった」ということを、私たちは忘れてはなりません。
憲法九条があっても、相手は、こちらが弱いとみれば、九条なんておかまいなしに襲ってくるのです。
そして、日本軍が少数と思えばこそ、ありとあらゆる非道の限りをつくしていた連中は、日本軍の師団規模の救援隊が来るや否や、算を乱して逃走しているのです。

弱肉強食という言葉がありますが、相手が弱いと見れば、ありとあらゆる暴虐を加え、相手が自分たちよりもすこしでも強いとみるや、卑屈な笑顔を浮かべる。
そういう人種、そういう民族、そういう悪辣な無法者というものが、現実にこの世に存在する。
それが、事実なのです。
そして世の中は、能書きではなく、現実で物事が動いています。

にもかかわらず、戦後の学校は、「日本がシベリアでの勢力拡大を狙い、連合国間の協定に違反する大兵を派遣し、撤退したのも最後になった」と教えています。
これは、死力を尽くして戦った同じ日本人の先人達に対する、後世の子や孫(つまり私たち)による冒涜行為であり、いまの私たち、そして未来を担う私たちの子や孫を危険に晒そうとする、極めて不見識なものと言わざるを得ません。

事実を事実としてきちんと教育し、亡くなられた被害者の方々に心から哀悼の意を捧げ、二度と同じ日本人がこうした恥辱や殺戮に遭わないよう、しっかりと国を守る。
それこそが日本国政府の本来の役割です。
そういうことを教えるのが、教育です。

もうひとつ大事な点があります。
武装パルチザンのような「ならず者」達に、穏健な交渉など全く通用しないということです。
同種のことは、世界中各地にあります。
過去にも沢山ありました。
現代の軍隊でさえも、ならず者となるケースがあります。
お隣の韓国兵です。
彼らは、ベトナム戦争のとき、米軍にまじってベトナムに行き、そこで強姦致傷殺戮の限りをつくしています。まさに畜生の軍隊でした。

世界には、そういう無法者達が現実にいる、ということを、私たちは忘れてはならないのです。
そして、そうした無法者達から、自分たちの安全を保つためには、完璧な報復主義しか、現実にはない、ということも、歴史から学べることといえます。

世界で襲われないのは、ひとり殺されたただけでも相手を身内親族に至るまで根絶やしにするまで殺戮するという激しい報復をする者か、あるいは圧倒的な軍事力で強力な報復能力を持っている者しか、安全を保てれない。
それが世界の現実、人類の現実でしかない。
そしてそのことを、西洋人達は、経験的によく知っています。

尼港事件では、はじめにロシア人やユダヤ人が殺されました。
なぜでしょうか。
彼らには彼らを守る政府がすでになかったからです。

次に日本人が襲撃されました。
なぜでしょうか。
理由は簡単です。
暴徒に、「極めて遺憾」などという平時の言葉は通用しない、ということです。
それによって、逆にパルチザン達に舐められてしまった。攻撃される隙を与えてしまった。
まごまごしているうちに、大切な戦力となった現地のロシア人やユダヤ人達までも失ってしまったのです。
そして日本は、身を守るすべを失った。

もし共産パルチザンがやってきた時点で、日本が積極的にロシア人やユダヤ人たちと連携して、パルチザンに対して徹底抗戦の構えで臨んでいたら、事態はどのように変化したことでしょうか。
事態は、もしかすると、もっとずっとましな方向に進んだかもしれない。

米国では、子供が中学生くらいになると、男女を問わず、親は拳銃の射撃を教えます。
そして撃つときには一瞬の躊躇もせずに相手の心臓か頭を狙い、射殺せよと教えます。中学生に、です。

武力を用いるときには、迷いは禁物です。
戦う時は、平時の理屈は通用しないのです。
戦うべき時は戦う。中途半端はしない。
国家も個人も、それが身を守る唯一の方法、というのが、人類の歴史だし、現代の国際社会でもなお続く現実です。

世界政府とか、民族や国境を越えて人類がひとつになって平和な世界を築くというのは理想です。
けれど、世界のGDPは、日本を含むわずか5カ国で、世界全体のGDPの50%を担っています。
日本人が世界市民となるということは、世界の人々の所得が平準化するということです。
つまり、日本人はいまの豊かな生活を全て捨て去って、世界の貧しい国々と同程度の貧しい生活環境になる、ということです。
要するに、世界市民を主張する人々というのは、日本人に貧乏になれと言っているに等しいし、日本の再軍備に反対する人たちは、日本人がただ虐殺され、強姦され、財産を奪われることを、むしろ歓迎すると言っているに等しいのです。

国家が国境を失なったとき、その国の人々がどのような目に遭わされるのか。
その現実は、戦前戦後を通じて、枚挙にいとまがありません。

私たちは日本人です。
秩序を守り、約束を守り、人を殺したり、奪ったりすることはいけないことと信じ、互いに助け合って勤勉に生きることを是とする国民です。
その日本を護るのは、「極めて遺憾」などといった平時の政治用語でもなければ、憲法九条でもない。
戦う意思と戦力を持った、具体的な力の行使しかない。
それが現実です。

そして正義は、力の裏付けがなければ、正義であるがゆえに、かえって酷い眼に遭わされてしまう。
それが世界の現実です。

私は、日本こそ、常に世界最高の強い国であり続けなければならない国である、と思っています。

それともうひとつ、大切なことを書き加えておかなければなりません。
パルチザンに尼港が囲まれ、ロシア人、ユダヤ人が虐殺された後、なぜ日本は「遺憾の意」を表する程度にとどめ、その時点で武力攻撃もしくは迎撃態勢に入らなかったのでしょうか。

ここに戦前の歴史を解く重大な鍵があります。
どういうことかというと、日本は、領事(外務省所轄)も、軍も、あくまでも治安維持のために現地に派遣されており、侵略する意思も武力にものを言わせて現地での収奪行為をする意思も、毛筋一本ほども持ち合わせていなかった、ということです。

世界のボーダレス化が進み、世界中のメディアのみならず、民間人までもが現地の様子をリアルタイムに近いカタチで世界中に動画配信できる今と異なり、20世紀のはじめ頃には、まだまだ情報通信網も未発達でした。
つまり武力を持つものは、ある意味、あらゆる暴行、略奪をほしいままにすることができた時代でもあったわけです。

けれど日本は、そういうことができた時代にあっても、極力武力を用いることを避け、現地の人たちとの対話を重ね、善政をひき、教育を施し、誰もが安心して生活できる状態を築こうと努力していたのです。
20世紀の半ば以前の世界の歴史において、まさに神様のようなそんな徳の高い軍をもち、行動していたのは、はっきりと申上げて、世界の歴史の中で日本だけといっても過言ではありません。

そして根っこのところにその誇りと意識があるからこそ、たとえ相手がパルチザンであろうと、「話せばわかる」という姿勢を貫こうとしたのです。
そのどこが、どう「侵略軍」だったのか。
わけのわからないデタラメを書いた教科書の執筆者には、是非、教えていただきたいものです。


尼港事件で犠牲者となられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。