米里の幽霊屋敷 | yonesatoshinreiのブログ

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今から20年ほど前に、北海道札幌市白石区の東米里に幽霊屋敷のようなもの(空き家)がありました。

しかし、ネット上ではその家に関する情報が少なく、書き込みの内容を見ても噂の域を出ていないものが多いです。

偶然、この屋敷について語られていた掲示板で、この屋敷のほぼ隣に住んでいたという方がいました。

その方にお願いをして、メールで個人的にやり取りをしました。

今回は、その内容を書きたいと思います。これから語ることは、すべてノンフィクションです。とても長い文章ですがご了承ください。

(この屋敷の話を提供してくださった方の名前をAさんとします)





Aさんは、今から40年ほど前にAさんの父親と二人で東米里に引っ越して来ました。

場所は、道道626号線(昔は6号幹線と呼ばれていた)沿いでした。近くには、東米里小中学校がありました。

Aさんの自宅から約100m離れた場所に、この家はありました。

この家にはもともと人が住んでいました。古くから養鶏場を営んでいたようで、Aさんも幼いころに鶏舎を見に行ったこともあるようです。

Aさんが5歳だった時のある日の夕方に、Aさんの父がいつものように犬の散歩に出かけたのですが、たまたまその家に向かったのです。


しかし、その家の手前に位置していた養鶏場までたどり着いた時 異様な気配に気付いたといいます

シーーンと静まりかえり、いつものような騒々しい鶏(にわとり)の気配が無く 鶏舎を覗いてみたところ、ほとんど息絶えていたそうです。

不審に思ったAさんの父が、その家に行き声を掛けてみたところ反応が無く初めは夜逃げでもしてしまったのだろうか?と思ったと言っていました。

しかし、玄関には鍵がかけられていたものの正面の

いわゆるリビングの縁側(えんがわ)のある大きな窓?引き戸は開いていたため、中へ。

図に書いて説明できないのがもどかしいですが、茶の間と奥の8畳間は繋がっており、その奥の薄暗い仏間に向かうにしたがって、無数のネズミの糞と異臭でただならぬ事態を予感したようです。

その部屋の床の間の鴨居の部分にロープをかけ....亡くなっておられたようですが、死後何日も経過しており、またネズミに荒らされたこともあり それは酷い状態だったということです

第一発見者ということで当時の新聞にもニュースにも載ったはずですが、あの頃のあの辺の集落の人たちはあまり語りたがらない雰囲気でした。

自殺の理由は 養鶏場の経営が借金がかさみ、たち行かなくなったためらしいです

ご家族もいらっしゃったのですが、後に聞いた話では当時 奥さんと子供は奥さんの実家にいたということでした。

しかし、あの家が無くなるまで あれほど有名になったのは このご主人の自殺の一件があったからではないのです。

事件の後、しばらくは(記憶では2、3年)ご家族の方がひっそりと住まわれていました。

Aさんが小学2年の時、あんな田舎に珍しく夜中に救急車のサイレンが聞こえ

二階からぼんやり見ているとあの家でピタリと止まりました。

事件のあった家で 夜中に救急車....野次馬が集まるのには十分な理由だったと思います

大人に混じって 恐ろしさで震えながら見た光景は、家の前の幹線道路の真ん中で血だらけの女性が息をする度に口からドバッと吐血しているものでした。

今はどうかわかりませんが、この頃のこの道路の夜の交通量など 微々たるもので、一時間に数台車が通るといった程度でした(信号がなかったので飛ばしていましたが)

その女性は 亡くなったご主人の先妻との間の娘さんでお父さんが亡くなったから内地から戻ってきていたようでした。それまで、近所の者も誰もその人の存在を知らなかったのですが。

Aさんの知っている詳細は お酒を飲み、お父さんが亡くなった仏間でカミソリで両手首と鎖骨の辺りを自分で切ったものの死にきれず、這って車道まで出てきた所をタクシーに轢かれたということでした。

翌日にお亡くなりになられたそうです。





結局一家は離散してしまい、残された家は荒れ果てるのですが、周りを鬱蒼とした背の高い木々に覆われ道路から見えるのは 二階の一部だけという状態でした。


その後、あの家の前にはとある江別の不動産屋が管理している旨の看板が立ちました。長いこと売り物件とだけ書かれていました。

家の前の幹線道路の脇には小さな用水路のような素堀りの側溝があったのですが、ある時 道路の拡幅工事に伴って それが埋め立てられました。夏の間中 工事していました。

Aさんの家も そしてあの家もその道路に面していましたので、当然のように工事の作業員や重機やダンプなどが出入りしていました。その中で 土木作業員のオジサンが三人、幽霊屋敷の噂を知っていて 根掘り葉掘り聞いて回っていたのですが、その三人が「そんなもん、怖くもなんともねーよ」と麻雀卓と一升瓶などを持ち込み 一晩明かしたという事が起きました


しかし、翌朝になって知ったその結果は

Aさんをはじめ皆の予想の斜め上を行っていました。



あの家で一夜を明かすコトにしたその作業員のオジサン達は 結論から言うと その日の深夜のうちに救急車で搬送されてしまいました。

この時の救急車が来たのですが、何より驚いたのが、その三人がすぐに精神病院へと転院したということでした。

少々説明が必要かと思われます。

現在はたしかロイヤル病院?と名前を変えていますが、東米里に出来た初の大きな病院が精神病院だったということに少なからず住民がショックを受けていた雰囲気だったと記憶しています。

当時の病院名は「長沼病院」となっていたはずです。

窓には鉄格子がはめられ、正門の横にはドーベルマンが何頭か檻に飼われており 殺風景な東米里の景色の中で一際目立つ存在でした。

この三人の件が単なる噂話ではない確かな証言が幾つかあり、その1つが当時長沼病院へ働きに行っていた同級生のB子の母親の話です。このB子の母親は比較的症状の軽かった一人から後に正気を取り戻した時に事件の顛末(てんまつ、事の一部始終)を聞いたそうです。



コトの次第はこうでした。

あの晩、電気のない家で蝋燭(ろうそく)をそこらじゅうに立て、三人はビールを飲みながら大声を張り上げ麻雀に興じていたそうです。初めは 特に何事もなく過ごしていたらしいのですが、一人が、部屋の中をウロウロし始めそのあと二階へと階段を上がって行ったきり戻って来なかったため 他の二人が探しに向かいました。

二階には たしか和室が3部屋あったと記憶しています。その1つで二人が見たものは部屋中を覆い尽くすような真っ白い霧でした。



一人がその霧の中へ吸い込まれるように部屋へと入って行き、その様子に腰を抜かした残る一人が階段を転げ落ちながら玄関まで逃げたそうです。

しかし、信じられない速さでその霧は階下へと降りてきてその人もそこで飲まれたらしいのです。

三人とも気絶していたのに何故 救急車が来たかというと、実はこの屋敷の道路を挟んだ向かい側に小野寺さんという老夫婦が住んでいました。この小野寺さんのおばあちゃんが悲鳴を聞きつけ通報したのだと翌日わかりました。

この件のその後についてAさんがハッキリと知っているのは 正気を取り戻した一番若かった一人が一ケ月ほどで無事 退院していったという事と 後の二人は気が触れてしまって重症であったという事です。

とにもかくにも この小さな事件は ただでさえ不気味な噂の絶えなかったあの屋敷をより一層有名にしてしまったのでした。

なので、暗くなると遠くからも暴走族やよその土地の人などが頻繁に肝試しに訪れるようになりました。



昭和50年代に、(おそらく1981年の8月頃)

台風が立て続けに二つほど上陸し、その後の温帯低気圧も長くとどまったせいで、北海道は特に石狩地方は記録的な大水害が発生しました。

泥炭地である東米里や雁来辺りはその中でも 特に被害がひどく床上浸水となり、近くの厚別川の堤防が決壊して溢れたせいで、大人の腰くらいまで水がありました。AさんとAさんの父も家財を二階へと上げ、自衛隊のボートが救助に来るまでの1週間ほどを停電した二階で過ごしました。


話はその時の事になります。

雨が尋常ではないくらい降っていたのですが、ちょうど降り始めた頃に見慣れない訪問客がありました。

その時家にはAさんしかおらず、子供相手に相手も困った事と思われますが その人達はテレビ局の人達でした。

TBSです。当時札幌でいう1chで『3時に会いましょう』という有名な番組があったのですが、その番組内のコーナーで心霊特集のようなものが人気を博していて、あの屋敷の噂を聞きつけたスタッフが取材に訪れたのでした。

Aさんの父が例の第一発見者ということもあり、また近くに住んでいたから真っ先にAさんの家へと来たものと思います。

その中にかなり体格のいい女性がいました。後に分かったのですがその方は 霊能者でした。



翌日も取材に来て、 雨の中Aさんとスタッフ達は例の屋敷へと向かっていきました。

一方、どんどんこの災害の被害が拡大してゆき、とうとうあの辺りの住民は自衛隊の救助で上白石小学校の体育館へと避難することになったのでした。

水が引くまでの1ヵ月ほど避難所生活をしたと思います。

そんなある日、避難所であった体育館でテレビを見ているとちょうど『3時に会いましょう』が始まりました。

何気なく皆で見ていたのですが、心霊特集が始まり

まさかと思っていたところ、例の屋敷が大々的に映りました。内容は主に霊能者による浄霊だったと思います。

かなりの時間をさいて放送されていましたが、具体的な内容は割と衝撃的でした。

番組始まって以来の浄霊失敗というものでした。Aさんが覚えているのは、霊能者の女性が敷地に足を踏み入れただけで首から下げた数珠のような物が弾け飛んで切れてしまい、かなりの怨念のようなものに支配されているとのことでした。

その後、二度三度と浄霊中に新しい数珠が弾けるように切れ、その方の体調的な理由により断念した模様でした。

その後わかったことは、Aさんの家にあった写真(あの屋敷を写したもの)の何点かに霊がハッキリ写り込んでいたということでした。




月日が経ち、高校生となったAさんはその後、あの土地を離れました。



平成元年に、あの家は焼けてしまいました。発火の原因は、若者の花火やたばこの不始末が原因であったと、当時の新聞に書かれてしました。実はその以前にもボヤ騒ぎなどありましたが、壁がすすけた程度や一階の壁の一部が焦げた程度でした。





Aさんによる体験談は以上です。



あの屋敷があった場所は、今現在は何も立っておらず、道路からは木がかなり生えており見えなくなっています。



現在では白陵高校が近くにあります。また、道道626号線は数年前に工事で道路がかなり広くなりました。(以前は片側一車線の狭い道路で、追い越し禁止のオレンジのラインがあった)また、小さな会社や車屋などがポツポツ建ちはじめて、昔とはだいぶ風景が変わったようです。

グーグルマップで場所を調べてみてください。

場所は、

①道道626号線に、江別市の大麻側から入る

②ずっとまっすぐ行く。

③右手に、パルコと書かれた看板、左手にタイヤガーデンという店が見えたら、もう少しまっすぐ行く

④右手に、「北日本機械」という建物と小さな家があり、そこからちょうど左側の、草や木が生い茂っている場所が、あの家のあった場所です。