20日から23日にかけての4日間、

トカラ列島の諏訪之瀬島というところに

いってきたことはすでに報告済みである。

地図を見るとわかるが、東シナ海の絶海の孤島である。この島は、いまから50年前に、東京から「部族」と名乗る人たち(いわゆる、世の中の人たちがいうところのヒッピー)が移り住んだところで、そのころの島の生活を記録したドキュメンタリー映画『スワノセ・第四世界』の話を原稿にするために島を訪ねたのだ。

そこでわたしは、現実に島で起こっていて、恐らく、絶対に、いまわたしが書いている作品『全記録 スワノセ・第四世界』には登場しない、そういう話題がひとつあるので、そのことを書いておこう。

島にはまだ、50年前に東京から移住していった人たちがその前から島に住みついていた人たちといっしょに住んでいる。

そのなかのひとりが、詩人の長沢哲夫さん、みんなからナーガと呼ばれている、日本のカウンターカルチャーの世界では有名な人で、わたしはまず、この人から昔の部族の話を聞くために島を訪ねたのだった。

最初、わたしは諏訪之瀬島の取材を2月の20日からというふうに考えて準備していた。飛行機、船の予約も全部入れてあった。出発間近になって、島の民宿に連絡すると、どこの宿も予約がいっぱいで、泊めてあげられないという。

島には民宿が4軒あるのだが、どこもいっぱい。どうしたのかと聞いたら、島のそばでタンカーが座礁して、その海難事故の救助員たちが島に大挙して押しかけ、宿舎を独占しているのだという。

それでネットで調べてみたら、朝日新聞のニュースにこんな記事が載っていた。

 

タンカー座礁、乗組員18人救助 鹿児島・諏訪之瀬島

2017年2月11日20時49分

 11日午前、鹿児島県トカラ列島の諏訪之瀬島十島村)の南西岸で、タンカーが座礁しているのを第10管区海上保安本部の航空機が見つけた。乗組員18人は10管が全員救助したが、油が流出している。

 10管によると、タンカーはパナマ船籍のSAGAN(5404トン)。ミャンマー人17人と台湾人1人が乗り組み、台湾から韓国に行く途中で、積み荷はなかった。午前6時半ごろ、タンカーから遭難信号を受信したとの連絡が海上保安庁運用司令センターから10管にあり、午前11時ごろからヘリで乗組員をつり上げる救助作業を始め、午後4時ごろに終えた。

 鹿児島地方気象台によると、現場付近には強風波浪注意報が出ていた。

 

事件というのはこのことで、記事の印象ではさしたることもなく終わった、と書かれている。新聞記事には「油が流出」と書かれていた。これは大変だなと思った。

それで、2月のスワノセ渡海を中止せざるを得なかった。その時、一ヵ月後に電話ください、そのころには泊まれるようになっているかも、といわれた。それで3月になってから電話したら、20日過ぎならたぶん、泊めてあげられます、ということだった。

3月になってから島に電話すると『救助作業は終わってみんな引き上げました。泊まれますよ』といわれた。それで、出かけていったのである。島にたどり着くのに、昔は12時間とかかかったというのだが、いまは時間表では8時間半ということになっていた。じつは大間違いで、いまでも海がしけると10時間以上かかるのである。実際、鹿児島港から夜中12時に出たわたしの乗った船が、諏訪瀬に着いたのは10時半のことだった。途中、船酔いでさんざんの目に会った。

矢印(→)がタンカーの遭難した岩礁があるところで裏港である元浦のすぐそばだ。

話を端折るのだが、島には切石(太平洋側)と元浦(東シナ海側)という二つの港があり、フェリーが行き来しているのは切石港で元浦は裏港、周辺に人家もない。だいたい、人家といっても人口が80人くらいの島で、直径が9キロくらいの楕円形の島だから、町のようなものはないし、コンビニもスーパーもない。店も一軒もなく、自動販売機が1カ所にあるだけ。とにかく大変なところで、道に迷って、歩き回っているうちに前出、タンカーの遭難現場がいきなり姿を現した。岩礁で遭難というから、島の沖合の岩場にデモ船を乗り上げたのかと思っていたら、そうではなく、島の磯場にぶつかったのである。新聞には「油が流出して」と書かれていたが、現場に行ってみたら、全然そんなことはなかった。ただ、暴力的な波が船に打ちつけていた。

船は人間の手数ではどうしようもない状態で、海難救助員の人たちは、人間を救助し終わると、後はやれることもなく引き上げていったのだという。

島の反対側に歩いて行って、わたしが見たのはこういう光景だった。

これはどこかのヘリコプターが上空から撮った航空写真である。島の側から見ると、もっとすごかった。

怒濤というのはこのことをいうのだろう。強風が吹き荒れ、海が荒れ狂って手か付けられない。これぞまさしく、シュトルムウントドランク(疾風怒濤)だった。逆風逆巻き、激浪うちつけ、である。絶壁にごうごうという地鳴りのような疾風が吹き荒れて、身体を持って行かれそうだった。

わたしはただ、海難事故にあった難破船を目撃しただけだが、とにかく、海は恐いなと思った。

この船の遭難の細かな話を聞くと、洋上航海中、突然、舵がきかなくなり、東シナ海での漂流が始まったのだという。それでどこに行くのかわからない状態で流されつづけ、運良くというか悪くか、諏訪之瀬島の岩礁に乗り上げたのである。それで人間の命が助かった。もし、ここで島にぶつからなかったら、太平洋に流れ込んで幽霊船みたいにあてどなく彷徨うところだったというのである。

その話を聞いて、ぞっとした。

難破船をこんなに近くで見るのは初めてで、迫力があった。加山雄三は脳天気に 海はいいなあ、大好きだよとか歌っているが、わたしはどうもそういう気になれない。海だけでなく、空もなのだが、足が地面から離れるのが本能的にイヤなのだ。そのかわり、登山とか山歩きは大好きなのだが。海上とか空中とか海中という、人間がそのままでは生きていられないところはは大嫌いである。サーフィンとかアクアラングとかパラセーリングとか、根性がないのか、好きになれない。地面に足がついているのが好きな自然主義者?なのだ。

島の地図を見ると、飛行場という書き込みがある。チャンとした滑走路があり、これはある因縁があって作られたものだが、現在は使われておらず、飛ぶ飛行機もない。その経緯は、映画『スワノセ・第四世界』に関わるものなので、ここでは説明しないが、写真のような状態である。飛行場の建物は取り壊され、荒れ果てた滑走路だけが残っている。これは大資本によるリゾート開発の失敗の夢のあとなのだ。

諏訪之瀬島は島のまんなかに活火山があり、それがいまも噴煙を上げつづけている。いまから200年前に、大噴火・大爆発があり、全島民避難で、島は一度無人島に戻った経緯がある。いまも人間は島のはじっこに集まって暮らしていた。

それにしても、諏訪之瀬島のあの難破船、この後どうなるのだろうか。島の人は解体して、というようなことをいっていたが、あの激しい波のなかでの作業は命がけではないかと思う。海難救助員が海難に会わないことを祈ろう。(この稿、終わり)