今なら反則? かつて「格闘技オリンピック」と呼ばれたアントニオ猪木VSウィリー・ウィリアムス

スポーツ報知
格闘技世界一決定戦で場外に転落するアントニオ猪木(左)とウィリー・ウィリアムス(1980年2月27日、蔵前国技館)

 東京五輪(第32回オリンピック競技大会、TOKYO2020)が23日夜に開会式を迎える。今となってはあり得ないが、かつてはIOC(国際オリンピック委員会)とは別に「オリンピック」というネーミングが使われていた時代があった。その代表例が映画「格闘技オリンピック」(製作総指揮・梶原一騎)だろう。

 1980年2月27日に東京・蔵前国技館で行われたアントニオ猪木氏と空手家、ウィリー・ウィリアムスさんによる格闘技世界一決定戦のドキュメンタリー映画だ。ウィリアムスさんは、2019年6月9日に67歳で亡くなっているが、196センチ、100キロ、ドレッドヘアに空手着がカッコよかった。極真会館の米・コネティカット支部から1975年の第1回「全世界空手道選手権」に出場し、注目を集めた(3回戦負け)。76年公開の映画「地上最強のカラテPART2」で巨大グリズリーとの戦いを演じ「熊殺し」の異名がつけられた。今となってはこのネーミングも動物愛護の観点から許されないか。

 猪木戦はWWF(現WWE)から世界マーシャルアーツ・ヘビー級選手権として認定された。3分15回戦で行われ、結果は4回1分24秒に両者ドクターストップで引き分け。当時の報知新聞(80年2月28日付)を引用すると…。

 「異様なムードの中で、ゴングが鳴った。プロボクシングの世界戦なみに生中継したテレビ局。リングサイド5万円、最低の一般席でも2000円という入場料にも、その異常さがあらわれていた」「2回からボクシングスタイルでパンチを繰り出すウィリーを、猪木が寝技でリングアウトに持ち込む乱闘へ。その後もリング上でのファイトはほとんど見られず、場外乱闘に終始」「プロレス界、空手界に遺恨を残した後味の悪い一戦」

 決着を期待したファンにとってはがっかりの結果だったが、セコンド同士の乱闘など「異様なムード」が、この試合の魅力だった。効果音を入れるなど、ドキュメンタリー映画としても秀逸だった。「格闘技オリンピック」というタイトルそのままでDVDになっているのは貴重だ。

 その後、猪木氏は1989年4月24日に東京ドームに初進出し、世界マーシャルアーツ・ヘビー級選手権を復活。柔道ミュンヘン五輪金メダリストのショータ・チョチョシビリ(ジョージア)と対戦して敗れている。実はこの大会は当初は「プロレス・オリンピック」として構想されながら、結局は「プロリンピック」と改称される一幕があり、IOCの商標管理が厳しくなっていることをうかがわせた。

 ウィリアムスさんも参戦したことのある正道会館では、K-1を主催する前の1992年に「格闘技オリンピック」という興行を3大会も開催している。同年10月4日に大阪府立体育会館で行われた第3弾を取材したが、この大会名は「格闘技オリンピック3 ’92カラテワールドカップ」という、五輪とW杯を同居させた究極のネーミングだった。この時は後のK-1王者、アンディ・フグ(スイス)が優勝している。そんなフルコンタクト派による裏面史に思いを馳(は)せながら、史上初めて五輪で行われる空手競技(伝統派)を見つめたいと思う。(酒井 隆之)

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