東日本大震災の「被災樹木」に写真家は何を見たのか? 故郷を撮り続ける畠山直哉さんに聞く
国際的に活躍する写真家の畠山直哉さん(61)は2011年の東日本大震災以来、地震と津波で破壊された故郷の岩手県陸前高田市に足しげく通い、変わりゆく風景をカメラに収めてきた。その畠山さんが18年から取り組むのが津波の爪痕が残る樹木を撮影した新シリーズだ。23点を東京の国立新美術館で開催中のグループ展「DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに」で初めて発表し、静かな感動を呼んでいる。作品の背景と9年を迎える震災への思いを聞いた。【聞き手・永田晶子】
「まっぷたつの木」との出合い
――新シリーズ「untitled(tsunami trees)」は陸前高田市をはじめ、宮城県の仙台市・気仙沼市、福島県の浪江町・相馬市など被災地の木々を捉えています。樹木に注目したきっかけは。
◆最初に気づいたのは17年ごろですね。陸前高田市の島部という場所に驚くような姿の木が立っていて、それを撮りました。こちら(上掲作品)は最近、撮り直したもの。背後に見えるのは気仙川と三陸自動車道です。
――最初に注目したのがこの木だった。
◆びっくりして、その後もずっとフォローしていました。陸前高田の「奇跡の一本松」は有名ですが、僕にはあの木の方が「奇跡」に思えた。非常にシンパシー(親近感)を感じました。それで他の街にも同じような木があるんじゃないかと探し始め、18年にシノゴ(大判カメラ)で撮ると決めて、撮影地を回るようになりました。
――これは何の木ですか。
◆オニグルミです。東北地方によくあるクルミの木ですね。実が非常に硬くて、西洋のクルミ割りでは割れない。
――半分が枯れ、残りは元気に育っている。すさまじい姿です。
◆木の幹は外側のみが「生きている」。内側は死んだも同然で、全体の形を保つぐらいの意味しかありません。栄養や水分は樹皮の内側部分を上下に循環しているので、外側をぐるりとはぐと大抵の木は死んでしまう。この木は震災の時、津波で流されて来たさまざまな物が幹に当たりました。だから海側は傷んで、半分だけ死んでしまった。
――まるで真ん中から断ち切られたようです。
◆ちょうどその頃に個展「まっぷたつの風景」をせんだいメディアテーク(仙台市)で開催して、その言葉がついて回っていたから「まっぷたつの木だ」と思いました。でも、ポイントによって違う形にも見える。これは一番状態が分かりやすいように撮ったんです。
「死にながら生きる」姿に自分を重ねた
<陸前高田で生まれ、19歳まで過ごした畠山さんは筑波大で写真家の大辻清司に師事。東京を拠点に石炭岩採掘場や渋谷の暗渠(あんきょ)などに自然と人、都市の関わりを見いだし、カメラに収めてきた。東日本大震災発生時はバイクで5日間かけて故郷にたどり着き、母が津波の犠牲になり、実家も失われたと知った>
――この木に衝撃を受けたのはなぜでしょうか。
◆形ですね。死んでいるし、生きている状態もあるということですね。死にながら生きる、もしくは生きながら死ぬ状態は人間にはあり得ません。でも植物はモジュール(機能単位)構造で全体ができていて、臓器がない。つまり部分が決定的ダメージを受けても、生き続けることがある。
なぜこの木にひかれたかと言えば、震災で心理的にダメージを受けていても自分は生きている。世界も地球も相変わらず回っている。二つの両立しない状態が同時にある感覚をずっと味わってきて、それと同じものをこの木に見たということです。
――これまで被災地の撮影は陸前高田に限定してきました。他の地域を撮り始めたのは木がきっかけですか。
◆そうです。例えば岩手県大船渡市の越喜来にあるポプラの大木は幹の半分まで海水が来たけど、死ななかった。それが語り草になって「ど根性ポプラ」のあだ名が付き、周囲に公園が整備されました。ポプラは本来、弱い木なんです。風にも弱いし、根っこも浅い。なぜ倒れなかったか、不思議です。ケヤキ、桐、エゾヒガン……。随分あちこちに行きましたよ。今回はあまり見せていないけれど、枯死した樹木もかなり撮りました。
――こちらは撮影地が仙台ですが、立ち枯れたのでしょうか。
◆これは津波で倒されて、ずっとそのまま。誰も片付けないですよ、どろどろの場所だから。
――「DOMANI」展の図録でケヤキの生態について書いています。
◆秋になって紅葉すると普通、樹木は葉っぱを落とします。でもケヤキは小枝ごと散る例が結構ある。生育条件が悪化してくると、ドングリの実がついた枝ごと枯れた葉っぱを羽みたいに使って、なるべく遠くへ飛び、そこに根付く。ものの本によると、その土地が理想的だったらそうしたことは起こらない。
――自然の摂理に驚きます。
◆人間の時間感覚とは異なる時間軸があり、それによって暮らしている生命があるということです。津波の後、僕はそれまでの歴史感覚や時間感覚が役に立たない気持ちになったので、人間と違う尺度で生きている生物を見ると安堵(あんど)感がある。植物や樹木はそういうものだと思いますよ。「奇跡の一本松」のような、分かりやすい人間的な「お話」とは違う。
今の一本松はコンクリートの地盤に人工の芯を立てて幹は防腐加工が施され、葉はプラスチック製。上に避雷針まで付いていて、一種の建築物の扱いです。切り取られた根は別の場所に保管されている。木の剥製ですね。僕は見たくないし、写真を撮ったこともない。だからと言って、一本松に希望を託す心情や人間の「物語」への憧れを否定するつもりはありませんが。
――一連の作品はまず樹木に目が行きますが、巨大防潮堤や盛り土、造成中の道といった周囲の環境にも気づきます。被災地の現状を伝えることを意識しましたか。
◆「津波に浸(つ)かった木」を念頭に撮影しているわけですから、周囲も大事です。例えば、取り壊し中の小学校の校門の一部が写っている写真があります。震災後は人口減少で学校がなくなる局面をかなり目にしました。陸前高田では学校の統廃合があっという間に進みました。
「考えたくない人」に僕の写真は…
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