■陶芸家・奈良祐希さん

 江戸時代から続く名門の窯の長男として生まれたが、陶芸家にはなりたくなかった。建築を学ぶと、「デザインが独善的」と言われた。立ち止まり、土に触れてみた。変化が起き始めた。

 「小さな頃、おやじやじいちゃんを見て、才能が支配する厳しい世界だと思った」

 実家は、大樋長左衛門窯。5代加賀藩主の前田綱紀が京都から裏千家の4代仙叟宗室(せんそうそうしつ)を招いた際、初代長左衞門が同伴し、金沢郊外の土で茶わんなどを作ったのが始まりとされ、350年の歴史を持つ。おやじとは11代大樋年雄さん、じいちゃんは10代大樋年朗さん。

 小学校中学年の夏休み。奈良祐希さん(30)は、油絵でじいちゃんの似顔絵を描いた。絵を見た本人は、「なんだこれは」。自分の作ったものには人の評価がついてくる、と知った。学校の先生、友人からも「当然、うまいものを作る」という視線を感じた。

 東京芸術大学の建築科に進んだ。高校時代、通学路で金沢21世紀美術館(21美)の建設が進み、やがて開館。県外からの人が増え、新しい店ができ、21美を核として街が変わっていく様を目の当たりにした。父も、背中を押してくれた。

 成績は良かった。だが、根本の考えが問われる卒業制作で、再提出を求められた。「独善的で街に暴力的」と。表層の格好良さしか考えてなかった。同大大学院に進んでも、どんな建築をしたいか分からない。

 ルーツを探ろう。初めて陶芸をしようと思った。

 大学の時、父に連れられて21美に行き、若手陶芸作家によるオブジェなどを見た記憶も残っていた。「陶芸イコール茶わんと思っていたけど、固定観念だと気付いた。知らないのに嫌悪していたのが恥ずかしかった」

 大学院を休み、岐阜県の専門学校・多治見市陶磁器意匠研究所へ。土に触れると、「生き物と対峙(たいじ)」する感覚があった。「あ、いま土が乾いたとか、質感とか、感じるもの、考えることがたくさん。表層だけ考えても完成しない」

 同時に、疑問もわいた。「陶芸って、縄文や弥生の時代から、形や制作の技法に革命的な変化がない」

 変わり続ける建築を学んだ目に、そう映った。大樋焼を継いだ祖父と父は時代ごとの表現を求めていたが、「根本的には変われない」ジレンマも感じた。

 現代の価値観を反映させ、技術も用いて、新たな陶芸を考えよう。

 その思いを原点に、二つの特徴的な造形を持つ陶芸作品を生み出した。とげとげしく切り抜いた板状の白磁が、底から上へと広がり、鋭く伸びる。モチーフは縄文土器だ。花のつぼみのように膨らむ、柔和な造形美。こちらは弥生土器。

 先端はわずかに透き通る。光を当てるとつやを増し、反対側に柔らかな影が落ちる。角度や置く場所で曲線の見え方、陰影も変わる。本来の器と異なり、内外の境界はあいまいだ。

 着想は建築から。「海外は、石を積み上げて内外をはっきり仕切る。日本は、透けた障子があり、縁側があり、ふすまがあり、内と外の境目が分からない」。そこに、「今っぽさ」と、「画一的にゼロ、イチで分けられない、多様性が認められる時代」のメッセージも重ねた。複雑なデザインは、パソコンの3Dイメージで作り上げた。

 後世の人が「なんとか土器」と呼んでくれたら。そんな意気込みをぶつけた。

 繊細で、はかなく、オリジナリティーあふれる作品は、すぐに美術評論家らの間で評判になった。

 大学院に一度戻り、修了制作に取りかかった。現地に足を運んで話を聞き、その町の文化や歴史を表現するようなデザインを心がけた。プレゼンでは、実際に作った建物の土壁を見せた。「土にずっと触れていたから、素材や質感にこだわった。図形や模型ではなく、実際の『もの』を示すという方法は、建築のプロセスを陶芸的なアプローチから見直すという意味もあった」。修了制作は高く評価された。

 2018年、パリで陶芸作品の個展を開催。海外でも評価され、今年も1月は台北、3月は香港、5月はニューヨークのアートフェアに出品する予定だ。

 いま、陶芸にも建築的な方法をより多く加えている。作品の依頼者とはイメージを共有し、好みや意見を聞く。クライアントや工事関係者らとやりとりを重ねるように。「もともと陶芸って、作品と自分の世界で、他者が介入する余地はあまりなかった。でも、芸術ももう独裁的、抑圧的に自分の我を通して認めさせるだけの時代じゃない」

 奈良さんはいま、都内の建築事務所で働きながら陶芸に取り組んでいる。建築事務所の横に陶芸アトリエがあるのが夢だという。

 「子どもの頃からずっと自信がなかったけど、建築や陶芸に出会い、ようやく一つ、作品ができた」。まだ大樋焼の茶わんは作っていない。不安やプレッシャーは消えていない。でも、いまやっていることはきっと、「次の大樋焼」のためになると思っている。(堀越理菜)