第103回全国高校野球選手権大会は、新型コロナ禍で例年と異なる形で開かれている。79年前にも異例の夏の甲子園はあった。戦争で大会が中断された期間、戦意高揚を目的に当時の文部省が1度だけ大会を主催した。選手権大会に数えられず「幻の甲子園」と呼ばれる大会は、どのようなものだったのか。

 「戦争のまっただ中で、よく開催できたなと思いました」。徳島商の一塁手として出場した梅本安則さん(94)=東京都葛飾区=は目を閉じ、懐かしそうに語った。

 宿泊先の旅館は米が十分に調達できず、徳島から部員が船と汽車で米や牛肉を運んでくれた。

 太平洋ガダルカナル島で激戦が始まった1942年8月。ユニホームはローマ字を使えず、試合開始前の整列では敬礼。スタンドには「戦ひ抜かう大東亜戦」の横断幕が掲げられ、場内放送で召集令状が届いた観客の名前が読み上げられると拍手が起きた。

 異様な大会だったが、不自由な社会で楽しみに飢えていた人たちでスタンドは通路まで超満員だった。

 梅本さんはプレーの一つひとつまで、詳細に覚えている。甲子園の土は軟らかかった。「スライディングするとね、すーっと滑るんです」

 徳島商は決勝に進み、平安中(現・龍谷大平安)との決勝は延長十一回に四球で押し出しのサヨナラ勝ち。梅本さんは二塁走者だった。「幸せな時間でした。苦しい時代でも、いろいろな人に支えられて甲子園で野球ができた。大事な記憶です」

 日本統治下の台湾から出場した台北工の菊池文男さん(95)=大分県中津市=の喜びはひとしおだった。台湾で生まれ育ち、内地に行くのは初めてだった。

 米国の潜水艦の攻撃を受けるおそれがあり、菊池さんの父親は学校に承諾書を提出したという。それでも「甲子園ちゅうのは夢の夢。行きたくて行きたくて。とにかく喜びました」。

 「選士」と呼ばれた球児たちの、つかの間の平和だった。

■北海道から台湾まで 生涯の友情を育む

 台北工の菊池さんは、2歳上の兄の武男さんと共に出場した。

 投手で主将だった武男さんは翌年卒業し、陸軍に入隊。配属された沖縄に行く途中、船を沈められて亡くなった。

 広島商の投手だった沢村静雄さん(97)=広島市佐伯区=も卒業後に入隊。野球に夢中だった生活は一変した。「なんも悪いことせんのに、お前らたるんどる言うて、びんた食ろうて。ひどいときは飯がない。こんな軍隊なんか、絶対直したる思うてた」

 中国の北京で敗戦を知った。約1年後に引き揚げると、広島の両親は原爆で亡くなっていた。

 「考えてみなさいや。人間ですぜ。国が違うだけでよ。それをいがみ合って、日本は人口が増えてよそを侵略しとるんや。(高校球児は)みんなのためを考えながら努力して、野球を上手になってもらいたい」

 宮坂真一さん(96)=長野県松本市=は松本商(現・松商学園)のマネジャーだった。明治大でも野球部に入ったが、学徒出陣で陸軍へ。

 戦後は帰郷して家業の会社を継ぐ傍ら、日本学生野球協会の評議員や長野県高野連の参与を務めた。「助け合う精神を教えてくれたのが高校野球だった。それを多くの子どもたちに伝えたかったんです」

 「幻の甲子園」で、かけがえのない時間を共にした仲間たちは、生涯の友となった。

 戦後、出場16校の仲間は連絡を取り合うようになった。やがて「幻の甲子園 球友の会」として、回り持ちで集いを開くようになった。

 福岡工の遊撃手だった田坂守成さん(95)=福岡市南区=は、北海道から台湾までほぼすべての集いに参加した。妻の安子さん(82)によると、田坂さんは野球の話をほとんどしないが、あの大会だけには特別な思い入れがあるようだ。

 「甲子園に行くのが目標だった私たちは仲間なんです」。球友の会で生存している人は少なくなった。(小林太一)

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 幻の甲子園 全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)は1941年に文部省(当時)の通達で中止され、戦後の46年に再開するまで中断した。その間の42年8月、文部省は「国民精神の高揚」のため、全国中等学校錬成野球大会を主催した。大会史に記録されていないため「幻の甲子園」と呼ばれる。打者が球をよけることは「突撃精神に反する」と許されず、負傷以外の選手交代は禁止など軍事色の強い決まりがあった。