東京オリンピック・パラリンピック大会の開催都市契約。注目されるのは、大会中止に絡む66条「契約の解除(Termination)」だ。
出典:東京都
東京オリンピックの開幕まで2カ月を切った中、開催都市の東京都では緊急事態宣言が6月20日まで延長される見通しとなった。新型コロナの感染収束が見通せない中、主催者のIOC(国際オリンピック委員会)側は開催する姿勢を崩していない。
一方で、国内では緊急事態宣言下での五輪開催は難しいのではないかという声は根強い。
感染拡大防止を図る中、都が3万5000人の来場を想定するパブリックビューイング会場を設置することにも批判が出ている。環境に配慮した大会を謳っておきながら、設営や工事のための車両が出入りするため樹木の剪定がされることも、火に油を注いでいる。
田村憲久厚労相は5月27日の国会答弁で「(五輪観戦で)感染リスクが高い行動をすれば、感染拡大が増える」「ご自宅で応援をしていただくようなオリンピックにしていかなければならない」と指摘。
5月28日の衆院厚生労働委員会では、政府分科会の尾身茂会長が代々木公園でのパブリックビューイングについて言及。尾身氏は「オリンピックは他のスポーツイベントとは規模が別格」「ただでさえ注目があって、みんな外に出て観たいという雰囲気がある中、人流が増えて、人々の接触の機会が増える」「感染増加のリスクが随分ある」と指摘した。立憲民主党の長妻昭氏への答弁。
コロナ対応をめぐる休業要請だけでなく、オリンピックをめぐっても都側と国側の足並みの乱れている。
こうした中で注目を集めているのが、IOCと東京都が結ぶ「開催都市契約」だ。菅義偉首相が「開催の決定権はIOCにある」と述べる背景には、この契約がある。
5月28日には日本経済新聞が「五輪開催契約、IOCに『全権』 中止なら日本が賠償も」の見出しで、「日本側が中止を要望した場合、IOCが多額の賠償金を請求してもおかしくないと専門家は指摘する」と報道。Twitterでも「五輪開催都市契約」がトレンド入りした。
「開催都市契約」には何が書かれているのか?
東京オリンピック・パラリンピック大会の開催都市契約の署名。ジャック・ロゲIOC会長、猪瀬直樹都知事(当時)、竹田恒和JOC会長(いずれも当時)らのサインがある。
出典:東京都
「開催都市契約」とは読んで字のごとく、オリンピック・パラリンピックの開催都市と開催都市がある国のオリンピック委員会、IOCの三者が結ぶ契約だ。東京大会のものは、2013年9月にアルゼンチンのブエノスアイレスで結ばれた。
「オリンピック憲章」と開催都市契約には、大会に関するあらゆる権利・義務について定められ、IOCが包括的に決定権をもつことが規定されている。もちろん、大会の中止に関してもだ。
ここにきて注目されるのが、大会中止に絡む「契約の解除」に関する条文(66条)だ。そこにはこう記されている(※日本語訳による)。
66.契約の解除
a)IOCは、以下のいずれかに該当する場合、本契約を解除して、開催都市における本大会を中止する権利を有する。
- i)開催国が開会式前または本大会期間中であるかにかかわらず、いつでも、戦争状態、内乱、ボイコット、国際社会によって定められた禁輸措置の対象、または交戦の一種として公式に認められる状況にある場合、またはIOCがその単独の裁量で、本大会参加者の安全が理由の如何を問わず深刻に脅かされると信じるに足る合理的な根拠がある場合。
- ii)(本契約の第5条に記載の)政府の誓約事項が尊重されない場合。iii)本大会が2020年中に開催されない場合。
- iv)本契約、オリンピック憲章、または適用法に定められた重大な義務に開催都市、NOCまたはOCOG(編注:オリンピック組織委員会)が違反した場合。
- v) 本契約第72条の重大な違反があり、是正されない場合。
b)IOCが本契約を解除し、本大会の中止を決めた場合、(IOCがその単独の裁量で、緊急の措置が必要ないと決めた場合)次のように進行する。
- i)IOCが上記第66条に定める事由が生じた、または生じている(または合理的に生じそうである)と判断した場合、IOCは、書留郵便、テレファックス(確認用コピーを書留郵便で送ることを条件とする)または配達証明付きの国際宅配便で、開催都市、NOCおよびOCOGに対し連名でおよび/または個別に通知し、当該当事者の一部またはすべてに対し、IOCが特定した事由について、その通知の日付から60日以内に是正または改善するように求める権利を有するものとする。ただし、IOCが通知を送付した日において、本大会の開会式までの残余期間が120日を切っていた場合、上記の60日の期限は通知送付日から開会式までの残余期間の半分に減らされるものとする。
- ii)上記b)項 ⅰ)に従って通知が送達された後、IOCが確認した事由が、b)項 ⅰ)に記された期限内にIOCが合理的に満足するように是正されない場合、IOCは次に、さらなる通知をすることなく、開催都市、NOCおよびOCOGによる本大会の組織を即座に中止し、すべての損害賠償およびその他の利用可能な権利や救済を請求するIOCの権利を害することなく、即時に本契約を解除する権利を有するものとする。
理由の如何を問わずIOCによる本大会の中止またはIOCによる本契約の解除が生じた場合、開催都市、NOCおよびOCOGは、ここにいかなる形態の補償、損害賠償またはその他の賠償またはいかなる種類の救済に対する請求および権利を放棄し、また、ここに、当該中止または解除に関するいかなる第三者からの請求、訴訟、または判断からIOC被賠償者を補償し、無害に保つものとする。OCOGが契約を締結している全ての相手方に本条の内容を通知するのはOCOGの責任である。
(*注:太字は編集部による)
つまり、開催都市契約の条文によれば、開会中止の権限は東京都や日本政府ではなくIOCのみが持つことになる。こうした内容から、開催都市契約を「不平等条約」と揶揄する声もある。
また、中止を判断する場合は戦争状態や内乱など、IOCが「参加者の安全が理由の如何を問わず深刻に脅かされると信じるに足る合理的な根拠」がある場合とされる。
加えて、中止となった場合に生じる金銭的な賠償責任も日本側に不利な内容だ。
IOCが中止判断を下した場合、東京都・JOC・東京大会の組織委員会は「いかなる形態の補償、損害賠償またはその他の賠償またはいかなる種類の救済に対する請求および権利を放棄」し、中止した場合に生じた「第三者からの請求、訴訟、または判断からIOC被賠償者を補償し、無害に保つものとする」と記されている。
第9条には「IOCに対する請求の補償と権利放棄」の項目がある。大会中止を含むトラブルが生じた場合、IOCやスポンサー、米NBCなどのメディアといった第三者への損害賠償を含む補償を日本側が支払う可能性がある。IOCの最大の収入源である放映権をめぐっては、2032年までの五輪・パラリンピックの夏・冬6大会の放映権料を米NBCが76億5000万ドルで購入している。
「損害賠償」は請求されるのか、されないのか。
東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の武藤敏郎事務総長
Nicolas Datiche - Pool/Getty Images
IOCから賠償金などを求められるかについて、大会組織委員会の武藤敏郎事務総長は5月13日に「最近、そういうご質問が増えているが、考えたことはない。あるのかどうかも、見当がつかない」と発言している。
だが、開催都市契約には「IOCに対する請求の補償と権利放棄」の項目がある。第9条には「保険」の項目もあり、そこには大会組織委員会(OCOG)が「中止についての保険をかけようと計画する場合、OCOGはOCOGをIOCの保険プログラムに 含める選択肢をIOCに提示するものとする」とあり、ある程度は保険金でまかなえるのではと考える向きもある。
そのため「旧大蔵省出身の武藤さんが“考えたことがない”なんて、あるのだろうか?」(野党関係者)と訝しがる声もある。
松本泰介・早大准教授は朝日新聞の取材に対し「IOC以外が中止を決めた場合、IOCが日本側に損害賠償を請求する可能性がある」と指摘する。
一方で、オンライン署名でオリンピックの開催中止を求める署名を立ち上げた元日弁連会長の宇都宮健児弁護士は5月6日に会見。開催都市契約そのものに「違約金条項」はないようだとした上で、「(コロナ禍を理由に)日本側が中止を求めるのであればIOCも応じざる得なくなるのでは」と主張した。
宇都宮氏は5月6日の会見後、Business Insider Japanの取材に対し「今回のコロナ禍は、1940年に日中戦争で東京がオリンピックを返上したときと同じような非常事態だと考えるべきだ。こうした非常事態に、東京都と政府、組織委員会が中止を申し出て、IOCがNOと言えるだろうか」と話した。
国連のグテーレス事務総長は5月24日、WHO(世界保健機関)の年次総会の開会式で「私たちはウイルスとの戦争状態にある(“we are at war with a virus”)」と発言。戦時下の体制と論理に基づき行動することを求め、ワクチンを公平に分配するように訴えた。
グテーレス事務総長は3月の記者会見でも「私たちの世界は共通の敵に対峙している。私たちはウイルスとの戦争状態にある(“Our world faces a common enemy. We are at war with a virus”)」と述べている。
それでも強気なIOC、なぜ?
IOCのバッハ会長(画面)と東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の橋本聖子会長。
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ただ、IOCはなおも東京大会は実施するという姿勢を崩していない。5月27日、バッハ会長は各国の選手らとの会見で「全幅の信頼を持って東京に来てほしい」と述べ、大会開催に自信を見せた。
IOCとしては、現時点では「参加者の安全が理由の如何を問わず深刻に脅かされると信じるに足る合理的な根拠」がないという姿勢を堅持していることになる。
一方で、IOCのディック・パウンド委員は週刊文春のインタビューに対し、「菅首相が中止を求めても、大会は開催される」「昨年3月、延期は一度と日本が述べたのだから、延期の選択肢はテーブル上に存在しない」などと発言している。
ただ、日本国内で東京五輪への逆風は強い。NHKの世論調査(5月10日)では「東京オリンピック・パラリンピックの観客をどうすべきか」という質問に対して、「中止すべき」と答えた人が最多の49%だった。読売新聞が5月7〜9日に実施した世論調査でも59%が「中止」を求めた。
世論調査で軒並み「オリンピック反対」が上回る中、パウンド氏のようなIOC関係者から折に触れて漏れる発言は、日本側の市民感情に寄り添うどころか、むしろ逆撫でしかねないものだ。
日本共産党の志位和夫委員長は5月27日の会見で「日本国民の命よりも五輪開催を優先するもので断じて許すわけにいかない」「日本をIOC帝国の植民地扱いする発言で主権侵害だ」と厳しく批判。「保守」の自民党の政権ではなく、「革新」の日本共産党が主権侵害を批判するという事態になっている。
なお、アメリカの公衆衛生の専門家らは25日、東京大会の組織委員会やIOCなどが定めた行動規範(プレーブック)は「科学的なリスク評価に基づいていない」と批判する論文を発表。運営の改善を求めている。
日本経済新聞は、IOCが開催姿勢を崩さない背景には懐事情があると指摘する。
収入のうち、IOCは9割を各スポーツの国際競技連盟(IF)や世界各国・地域のオリンピック委員会(NOC)に分配する。この資金に頼るマイナー競技のIFは少なくなく、昨年の延期時も金策に追われたIFがあった。中止の場合は賠償請求などの手を尽くさないと、トーマス・バッハ会長ら執行部がIOC委員やIFから突き上げを食らうだろう。
(五輪開催契約、IOCに「全権」 中止なら日本が賠償も: 日本経済新聞)
すでにIOCは昨年の東京大会の延期に伴い、大会剰余金の取り分を放棄している。
いずれにしろ、大会中止に伴いIOCが日本側に賠償責任を求めるのであれば、最終的にはスイス・ローザンヌのスポーツ仲裁裁判所(CAS)での裁判に託されることになるだろう。
先出の宇都宮氏は、コロナ禍という不可抗力にも関わらずIOCが日本に賠償金を請求すれば「世界中から袋叩きになってIOCは崩壊するのでは」と指摘する。
もはやオリンピック精神や「なぜ東京で開催するのか」といった意義は脇に追いやられてしまった。今回のIOCと日本側のやり取りは、これまであまり考えられてこなかった開催国のリスクをあぶり出した。今後、オリンピック招致に手を挙げる都市は少なくなる可能性もあるだろう。
東京オリンピックの開会式が予定される7月23日、聖火はどこに灯っているのだろうか。
(文・吉川慧)
【UPDATE】28日午後の衆院厚生労働委員会について追記しました(2021/05/28 17:15)