「会社を辞められるなんて思えなかった」
今村拓馬
命落としに会社に行かないで
「命落としに行くのなら、会社になんか行く必要ないよ」
北関東地方在住で金融機関に勤めていた丸山良平さん(46)=仮名=は、その時の妻の言葉を忘れない。
丸山さんは地元の金融機関にシステムエンジニアとして新卒で採用され、20年以上、働いてきた。40代になると本部の課長職としてシステムの統括責任者を任された。
出世には大して興味がなかったが「あのまま働いていたら、そこそこの役職にはなったかもしれません」。会社の期待はあったように思う。
ただ、ある上司の存在で、丸山さんは会社に行けなくなった。
役員に昇進したてだったその上司は、常に職場の部下のひとりにつらくあたることで知られていた。集中的に攻撃されていた同僚が異動すると、次にターゲットになったのが丸山さんだった。
ちょっとしたことに激昂し、同僚や部下の前で怒鳴りつける。1時間以上も職場に立たされる。叱責の理由も、正直、意味不明だった。複数の仕事に優先順位をつけて進めると「あの仕事はどうなった」と怒り出す。「はい、やります」と答えて取りかかれば、上司はトイレから戻った5分後に「それで終わったのか」と、責める。文書はすべて書き直し。何が悪いのかもはや、わからなくなっていた。
当然、仕事は終わらない。連日、日付が変わるまで働いた。土日も出勤した。管理職なので、残業代は出ない。
「不思議なことに、はじめは理不尽に思えていた上司の言動ですが、だんだん自分が悪いのかなと思うようになったのです」
冤罪の被疑者が自白を強要されてしまうときははこんな気持ちかと、納得した。
だんだん自分が悪いのかと思うようになった
今村拓馬
毎日ため息ばかりつくようになり、半年後には活字を読めなくなった。子煩悩だった丸山さんだが、ふたりの子どもを怒鳴りつけるように。とうとう、うつ病の診断が下り、半年間の休業を余儀なくされた。
「当時はぼーっとして、その頃のことをほとんど覚えていません」
昼間は部屋に引きこもり、真夜中に起き出してきて、リビングにただ座り込んでいた。
復職すると、休業中に発覚したという、丸山さんの過去の仕事の処理について、同じ上司に責め立てられた。1カ月で、再び会社に行けなくなった。
「もう、会社に行かせられない」と、何度も妻に言われても、住宅ローンや子どもの学費、日々の生活費が肩にのしかかる。当初はとてもじゃないが、辞められるとは思えなかった。
休業中に月額30万円
思わぬ救いになったのが、クラウドソーシングによるウェブライティングの仕事だ。クラウドソーシングは、インターネット上で仕事を依頼したい人と請け負いたい人をマッチングするプラットフォームだ。もともとクラウドワーカーだった妻に勧められ、丸山さんはリハビリのつもりで、2度目の休業中に大手のクラウドソーシングサービスに登録した。
得意の金融系に特化し、カードや住宅ローン、携帯電話のポイントサービスなどの記事を請け負った。はじめは1文字0.3円程度でスタートし、制作実績からレベルアップが認められると、1文字0.5円、1円、最終的には5000文字以上で5000円に達した。
もともと知識があるので、コツさえつかめば数をこなせるようになった。パソコン通信時代から好きでいじっていたこともあり、ホームページやアフィリエイトサイトの運営もじきに覚えた。うつの薬を服用しながらで体調に波はあるものの、休業中にはすでに月額30万円の収入を得られるようになっていた。
そして昨年秋、丸山さんはとうとう会社を辞めた。
ほころびを露呈したDeNA問題
パソコンさえあれば、自宅にいながら誰でも企業からの仕事を請け負えるクラウドソーシングは、丸山さんのように体調を壊したり育児や介護中だったりで、フルタイムで働けない人や地方在住者にも、時間や場所を問わずに収入を得られる道を切り開いた。
クラウドソーシングは自由な働き方の扉を開いたが
今村拓馬
「自由な働き方」を可能にするサービスはユーザーに支持され、日本上陸から10年弱で大手のクラウドワークスで登録者が130万人を突破、大手ランサーズの依頼総額は1170億円超など、急成長を遂げている。
しかし、その「自由な働き方」のほころびを露呈したのが、昨秋のディー・エヌ・エー(DeNA)の問題だ。
同社のキュレーションメディア「ウエルク」は健康医療情報サイトをうたっているにもかかわらず、その内容はでたらめだった。他人の記事を盗用するなどの著作権法違反を疑われる記事も乱発されていた。同様の手法でつくられた旅行、食、保険・投資など9つのサイトを閉鎖する事態となった。
DeNAのサービスは、グーグルの検索キーワードから上位に表示されることを最優先に、低コストで記事が量産される仕組みだ。この仕組みに使われていたのが、クラウドソーシングで集められた大量の外部ライターだったのだ。
「問題は教育システムがないこと」
実は、丸山さんも、DeNAのライティングを請け負っていたひとりだ。たしかにDeNAの記事制作には問題があったと思う。
きちんと調べて執筆するライターもいる一方で、明らかに法律や社会常識を逸脱したような記事が掲載されている。問題点をDeNAの担当者に指摘すると、記事の修正はするが、その記事の取り下げや原因追求には至らない。
ただ、「ライターを低価格で買い叩く仕組み」と批判を浴びたクラウドソーシングについては、丸山さんのとらえ方は、少し違う。
「著作権法の意識が皆無というレベルのライターに高い報酬は払えない。低価格が問題というよりむしろ、1文字0.5円の世界から抜け出す仕組みがないことが問題」と、感じたからだ。
経済産業省が昨年11月に立ち上げた「雇用によらない働き方研究会」資料によると、フリーランスで働く人の7割が「取引先から提供された教育訓練はとくにない」と回答。中小企業庁「小規模事業者の事業活動の実態把握調査」では、フリーランスとして必要な知識やスキルは「独学で身につけた」人が最も多かった。
会社員なら組織が用意してくれる「成長のステップ」はフリーランスでは自己責任だ。クラウドソーシングが解放した「自由な働き方」は、対企業の前に労働力を搾取されかねないリスクと共に、受け身で日銭を稼ぐだけでは、成長の機会も喪失しかねない厳しさをはらんでいる。
重要なのはそこに選択肢があると知ること
会社員にもフリーランスにもそれぞれのリスクがある
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丸山さんはこの3月に、インターネット上である募集をかけた。
募ったのは、自身が運営するホームページや請け負っている企業のサイトに記事を執筆するライターだ。年齢、経験、作業量は問わない。九州から東北まで、20〜30代を中心に10人が集まった。介護や育児の最中で、自宅で仕事をしたいという女性が多い。
協力ライターには、オンライン会議で必ず講習を行う。SEOの基本的な知識に加え、必ず伝えるのは「インターネット上の情報を鵜呑みにせずに、一次情報に当たること」だ。肝心な情報は企業に電話で確認すること、専門知識は図書館や書籍で調べること。はじめは思うように稼げなくても3カ月から半年は辛抱すること。職場で先輩に教わるようなことだ。
丸山さんはすでに、ライティングやアフィリエイトサイトの運営で、会社員時代の月収を超えている。新人ライターたちに報酬を得る最初の手段だけでなく、「そこから抜け出すスキルを身につけてもらうこと」こそが、組織の経験を踏まえてフリーランスになった自分の「役割」のように感じている。
丸山さんは今、中学生と小学生になった娘と息子に伝えたいことがある。
「会社にでも何でも一度、勤めてみたらいい。けれど、ダメになったらこっちに来たらいいよ」
会社勤めにも、フリーランスにも、それぞれリスクと魅力がある。肝心なのは、今の道以外にも、選択肢があると知ること。そう思っている。