Shiori Ito’s ”#MeToo” Struggles Continue

伊藤詩織さんにインタビュー──たたかいはつづく【前編】

「#MeToo」運動が世界的なひろがりを見せるなか、この国でも徐々にではあるが確実に、さまざまな種類の性暴力にたいする告発の動きが活発になっている。ここに登場する伊藤詩織さんは、堂々と顔と実名を出して、去る大物男性ジャーナリストの、かの女にたいする性暴力を告発した。この「事件」をめぐっては、いったんは逮捕状が発令されたもののそれは執行されず、刑事事件としては不起訴が確定している。しかし、詩織さんは、「意識を失っているあいだに望まない性行為をされた」ことによってこうむった肉体的・精神的な苦痛にたいして慰謝料を支払うように要求、民事裁判をたたかいつつ、「#MeToo運動」も展開している。ロンドンを拠点にジャーナリスト活動をするかの女が4月に来日した機にインタビュー取材した本誌編集長が、「事件」のあらましをあらためて跡付けるとともに、詩織さんの現況を訊いた。 文・鈴木正文(GQ) Photos: Eric Micotto Styling: Kaz Ijima @ Balance Hair & Meke-up: Motoko Suga
伊藤詩織さんにインタビュー──たたかいはつづく
2つの「銀賞」を受賞する

まずは朗報から。

4月10日、ラスヴェガスで行われた国際的なメディア・コンクールである「ニューヨーク・フェスティヴァル」の2018年度の優秀作品発表・授賞式で、伊藤詩織さんが2つの部門で、めでたくも「銀賞」を受賞した。

「ニューヨーク・フェスティヴァル」は、テレビ時代が本格的に花開いた1957年にアメリカではじまったもので、テレビ番組、映画、広告、インターネットなど、あらゆる映像作品を対象にした世界的なコンクールとして名高い。各国から選出された放送関係者などからなる審査員による2度の厳しい審査を経て、金賞・銀賞・銅賞が授与される。

銀賞その1は、日本社会の孤独死を扱ったシンガポールのテレビ局「チャンネル・ニューズ・アジア」制作の『Lonely Deaths』(孤独な死)にたいするもの。「社会問題部門」でのエントリー作品であったこの1時間のドキュメンタリー・フィルムを企画し、監督したのが伊藤詩織さんだ。その2は、「スポーツ・娯楽部門」にカタールのテレビ局「アル・ジャジーラ」がエントリーした30分弱のドキュメンタリー・フィルム、『Racing in Cocaine Valley』(コカイン谷のレース)で、ここではかの女はカメラマンを担当した。ちなみに、コカイン谷とは、ペルー最大のコカ(コカインはコカの葉から抽出できる)の産地。そこでの毎年恒例の一大イベントであるオートバイ・タクシーを使ってのレースに出場する若者に密着したドキュメンタリー作品で、スポーツ・娯楽部門であったとはいえ、ペルーの人々にとってのコカの、欧米社会におけるコカインとは異なる文化的意味を浮かび上がらせた佳作である。

というように、かの女はフリーランスのジャーナリストおよびドキュメンタリー作家としてすでに独自の地歩を固めるにいたっている。襲いかかったいわれなき困難に打ちのめされ、翻弄されたにもかかわらず、打ちのめされきらず、翻弄されきらずに、みずからが立てたジャーナリストとして生きるという志の旗を降ろすことなく、いっそう高く掲げている。そんなかの女とかの女の才能が、ラスヴェガスで祝福されたことを、まずよろこびたい。

"突然なんだか調子がおかしいと感じ二度目のトイレに席を立った"

国際的メディアコンクール「New York Festivals 2018」では、監督を務めた”Lonely Deaths”(CNA)がSocial Issue部門、そしてカメラマンを担当した”Racing in Cocaine Valley”(Al Jazeera English)がSports Documentary部門で、と銀賞をダブル受賞した。
「事件」と、その後先

伊藤詩織さんが編集部を訪れたのは、この「ニューヨーク・フェスティヴァル2018」の授賞式への出席のために、アメリカに旅立つ前日の4月8日のことであった。このときはまだ、2つの作品がファイナリストに残ったことを知らされていただけで、受賞するとまでは聞いていなかった。ガラ・パーティーがあるとのことで、「なにも用意してなくて、なにを着ていけばいいのかしら」と、ちょっと困った表情を見せていた。

監督した『Lonely Deaths』が、シンガポールのチャンネル・ニューズ・アジアで放映されたのは2017年3月。2016年のほぼまるまる1年をかけて製作したという。しかし、その2016年は、詩織さんにとって、苦難が連続した年でもあった。

例の「事件」が起きたのは、2015年4月3日の夜から翌4日の未明にかけてだった。そして、詩織さんにたいする「準強姦罪」の被疑者となった元TBSワシントン支局長、山口敬之氏が成田空港で捜査員によって逮捕されるというまさにその瞬間の直前に、警視庁上層部からの命令によって逮捕とりやめになった、つまり逮捕状の執行が見送られたのは2015年6月8日のことだ。ちなみに、山口氏はそのおよそ1年後の2016年5月30日付けでTBSを退社し、東京地検は同年7月22日に嫌疑不十分としてこの件を不起訴処分とすることを決定している。ついでにいえば、山口氏が安倍晋三首相の政権運営の内幕を取材した『総理』(幻冬舎)を出版したのは2016年6月9日であり、同月22日には第24回参議院議員選挙が公示され、結果が与党の圧勝であったことは記憶にあたらしい。このあたりから、山口氏はコメンテイターとして頻繁にテレビに出演するようになる。

というような2015年4月の「事件」以来の事態の推移のなかで、詩織さんは「事件」前に取材に着手していた「孤独死」をめぐるドキュメンタリー・フィルムの製作をねばり強くつづけていた。その事実に感銘を禁じ得ない。

「事件」直前の2015年2月、ニューヨークから帰った詩織さんは、東京・赤坂にあるロイター通信の東京支局とインターン契約を結んで働きはじめた。2カ月間は無給で、3カ月目から給与を支給されるという条件のもとに、ロイターの仕事に取り組んですぐのころ、詩織さんは孤独死にまつわる仕事を担当し、23歳の若い女性の「遺品整理人」に出会うことになる。このことが、のちの作品づくりのきっかけになる。

コロンビアのアマゾン地帯で政府の環境保護局を取材。

孤独死した人は孤独死した事実そのものを何カ月も知られないことが多く、たとえば2、3カ月後に発見されたとすれば、故人の体液はすべて漏出してしまっているという。また、遺体には、その大きさの2、3倍にも達するほどの大量の蠅がむらがっているようなこともあり、そういう蠅じたい人を食べて肥満しているので通常の蠅の2、3倍の大きさになっているといえば、少しは状況への想像力がわくだろうか。体液が漏出しきった遺体の場合は耳が落ち、皮膚や毛髪ははがれている。そうしたもろもろをふくむ「遺品」のすべてを、すさまじい異臭のなかで清掃するのが「遺品整理人」である。

詩織さんはその仕事を、遺体にたいする愛と敬意をもって丁寧におこなう23歳の女性と知り合い、かの女に密着したドキュメンタリーをつくりたいとかんがえたのである。その女性はちなみに、父親を孤独死にちかいかたちで失くしていた。

ロイター・ジャパンでは、配信のための映像ニュースはどんなものであれ3分以内にまとめることが要求されていた。しかし、この「遺品整理人」と孤独死のテーマを3分以内にまとめるのは無理だった。フリーになって作品づくりをしたい、と詩織さんがかんがえたのは自然なことであったといえる。

とはいえ、そのいっぽうで、ニューヨークにいたときに蒔いた種子を刈り取る作業も並行して進めていた。それは、アメリカでの就職である。当時、TBSのワシントン支局長だった山口敬之氏は、詩織さん宛てのメールで、インターン契約の可能性があるし、有給のプロデューサーとして雇用することも検討に値する、と伝えていた。いずれにしてもビザが問題なので、次に山口氏が帰国するときに会って相談しましょうという約束が成立していた。その約束の日が、4月3日だった。

村山富市元総理の囲み会見を取材中のもの。安保法制についての論議があった2015年の頃の写真。1995年の「村山談話」関連の質問に氏が答えている。
山口氏と知り合う

山口氏と知り合ったのは、2013年9月、詩織さんがまだニューヨークの大学でジャーナリズムと写真を学んでいた24歳のときだ。

留学生活は苦しかった。両親の反対を押し切っての渡米でもあったので援助もほとんどなく、学費も生活費も翻訳やベビーシッティング、そしてピアノ・バーでのアルバイトなどによってまかなっていた。「バーの方は帰りが深夜になるため、当時一緒に住んでいたパートナーは心配し、頻繁には出勤できなかった。しかし、ベビーシッターに比べれば、こちらのほうが時給はずっと高かった」と、著書の『Black Box/ブラックボックス』(文藝春秋)のなかで詩織さんは書いている。

山口氏とはじめて会ったのは、その「頻繁には出勤できなかった」ピアノ・バーで、だった。

山口氏はジャーナリストをめざしているといったかの女にたいして好意的だったという。名刺を差し出し、機会があったらニューヨーク支局を案内するからメールをください、とまでいった。ほどなくして、ふたたびニューヨークに来た山口氏から連絡があり、TBSのニューヨーク支局長とランチをしているので、よければ来ないかとの誘いを受け、ランチ場所の日本料理店に行って紹介してもらった。「事件」のあった2015年の4月3日まで、山口氏と会ったのは2013年のこの2回がすべてだ。

詩織さんがはじめて監督を務めた『Lonely Deaths』では、孤独死も現場の清掃シーンもみずから取材・撮影した(Phioto: Nicholas Ahlmark)。

2014年の夏の終わり、大学卒業を目前にした詩織さんは、インターンシップの受け入れ先を探すためにいくつかのメディアにメールを送り、送り先のひとつが山口氏だった。かれはそのとき、知己の日本テレビのニューヨーク支局長に連絡することを助言したという。そして、面接とテストを経て、詩織さんは同年9月から日本テレビのニューヨーク支局でインターンとして働く。しかし、仕事と勉学に追われてバイトができなくなり、いったん、ニューヨークぐらしを切り上げることにする。そして、日本に帰って2015年2月に、ロイターとインターン契約を結ぶのである。フリーランスのドキュメンタリー作家として企画・監督し、「ニューヨーク・フェスティヴァル」の受賞作品となった『Lonely Deaths』の製作につながる初期取材がはじまった前後の状況はこのようなものだった。

そして4月3日、山口氏と2年ぶりに再会し、例の「事件」が起こる。

後編へ続く