《福岡と博多》“ツートンカラー”の微妙な関係 便利な表現は「福博の街」

■混乱生む要因多数 
 今やNHKの“顔”として定着した感のある桑子真帆アナウンサー=神奈川県出身=に、「博多と福岡の違いは何だと思うか?」と質問が飛んだ。今年3月までレギュラー出演していた人気番組「ブラタモリ」の博多編(2015年9月放送)でのことだ。

 福岡県外の人にとって、博多と福岡の違いは分かりにくい。そのうえ、それらの地名を地元の人々は結構あいまいに使う。

 例えば、空路での福岡入りなら到着は福岡空港だが、JRやフェリーだと博多駅、博多港となる。漫才コンビ「博多華丸・大吉」の出身は博多でなく福岡。福岡市の街を紹介する全国放送の番組で、テロップに「福岡県博多市」と存在しない自治体名が流れることすらある(最近では2014年の民放であったようだ)。

 さて、桑子アナが自信なさげに出した答えは、「博多は博多というエリア。福岡は福岡県(のこと)」。残念、不正解でした。

 福岡市の行政区の一つに「博多区」はあるが、地元の人が「博多は美人の多かでしょ」と言っても、それは博多区でなく福岡市全体の美人率の高さを自慢している。加えて、江戸期は隣り合った地域としての「博多」「福岡」があった。混乱や勘違いを生む要因がありすぎるのだ。

■商人の町と武士の町

 福岡市一帯が歴史に初めて登場するのは、西暦57年。「後漢書」東夷伝に、光武帝が奴国(なこく)に金印を授与したと記されている。「漢委奴(かんのわのなの)国王」と刻まれたその金印は、江戸時代に福岡市北部の志賀島で見つかり、国宝になった。この「奴国」をはじめ、一帯が古代から栄えてきたのは間違いない。

 「博多」という地名が出てくるのは、奈良時代の759年。『続日本紀』によると、律令制下で、九州の行政機関として置かれた大宰府(福岡県太宰府市)が、朝廷に対して博多湾一帯を指す「博多大津」の国防警備の懸念を伝えたものだ。
 
 奈良時代から平安時代にかけては、大宰府に属した迎賓館「鴻臚館(こうろかん)」が置かれ、平清盛が日宋貿易の拠点として港を整備。豊臣秀吉は九州平定と朝鮮出兵の拠点として「太閤町割り」と呼ばれる町づくりを行い、博多商人たちが国際貿易都市へと発展させた。博多が「商人の町」といわれるゆえんだ。

 一方、「福岡」は、岡田准一主演の大河ドラマ「軍師官兵衛」で描かれた黒田官兵衛の長男・長政(初代藩主)が「福岡城」築城に着手した1601年から始まった。城を築いた那珂川から西のエリアを「福岡」と命名したからだ。

 これは、黒田家祖先ゆかりの備前国邑久郡福岡(岡山県瀬戸内市)にちなんだというのが定説。博多との境界に石垣を築き門番が見張った。この区切りによって「商人の町・博多、武士の町・福岡」の“ツートンカラー”が保たれてきた。
 
 福岡城の周囲には堀を巡らせ、敵が城下に侵入しても直進できないよう道をカギ型にしたり、袋小路を設けたりと町割りに仕掛けを施した。その名残は今も、若者でにぎわう大名地区にあり、「路地裏」として街の魅力になっている。

■官兵衛親子の銅像なし

 福岡市博物館の学芸員、髙山英朗さんが興味深いことを教えてくれた。
 「仙台市の伊達政宗像や新潟県上越市の上杉謙信像、熊本市の加藤清正像など、旧城下町の都市の駅前や城跡には藩の繁栄を築いたお殿様の銅像が建っているもの。ところが、福岡市内の主要スポットに官兵衛像、長政像は1体もないんです」

 以前、髙山さんは博多で生まれ育ったという高齢の女性から「博多の人たちは黒田家が嫌いやもんね」と言われた。商人の町「博多」の伝統への誇り、強いこだわりを感じたそうだ。

 一方、「福岡」の人たちは全国有数の祭りとなった「博多祇園山笠」について、一昔前までは「あれは博多の祭り」と距離を置いていた。今はほとんど使われていないが、方言も博多とは違っていた。

 「福岡」か「博多」か。明治時代には市の名前を巡る論争が巻き起こった。1888年、市制・町村制の導入が決まり、翌年の県令でいったんは「福岡市」となったが、90年の市会で改称の動議が出た。ところが採決は賛否同数。結局、“福岡側”の議長の裁決で「福岡市」が正式に誕生した。その代わり、89年開通の九州鉄道の駅名は「博多駅」となったのだ。

 「福博の街」という言い回しがある。博多びいき、福岡びいきどちらの機嫌も損ねずに市域全体を表現できる便利な言い方だ。覚えておいて損はない。

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