戦艦大和建造に尽力 佐世保ゆかりの故芳井一夫さん 海軍工廠で現場責任者

 旧日本海軍の戦艦大和の建造に、現場責任者として関わった人物が佐世保市にいた。故芳井一夫さん。戦後は造船会社「前畑造船」を設立した。親交があった人たちによると、芳井さんは2002年に107歳で亡くなるまで、大和について語ることはなかったという。社史などから足跡をひもといた。

 芳井さんは大阪府出身。東京帝国大工学部を卒業して、神奈川県横須賀市や佐世保市などの海軍工廠(こうしょう)に勤務。1936年、大和を造った広島県呉市の呉海軍工廠に移った。

 大和の起工はその翌年。呉市の大和ミュージアムに展示されている建造技師一覧に、芳井さんは「作業主任」と記されている。関係者によると、呉海軍工廠造船部長の庭田尚三少将の下で、建造現場の責任者を務めたとみられる。

 芳井さんの名前は大和に関する文献に多く記され、40年8月8日撮影の進水式の写真では、中央に座る庭田少将の左隣に芳井さんの姿が確認できる。

 40年11月、佐世保海軍工廠の造船部長として再び佐世保市へ。翌年12月に太平洋戦争が勃発し、大和はミッドウェーやレイテ沖の戦闘に参戦。45年4月7日、米軍機の攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没した。

 芳井さんは呉海軍工廠造船部長の時に終戦を迎え、48年に前畑造船の前身の前畑鉄工所を設立、40年近くも現場に身を置いた。

 佐世保市上京町で90年近く営業する原口呉服店の元社長、都甲泰臣さん(77)は戦時中から芳井さんと付き合いがあった。

 「海軍工廠のころからのお客さまで、当時社長だった義父と家族ぐるみの付き合いをしていました。芳井さんの口から大和のことを聞いたことはありません。佐世保で造船会社を立ち上げたのは、かつての仲間に頼まれたそうです。格式高い風貌のスマートな紳士でした」

 佐世保市梅田町の保育園長、梯剣司さん(50)は芳井さんの経歴を前畑造船のホームページで知り、海上自衛隊OBらと「佐世保大和会」を昨年4月に結成。芳井さんの功績を伝える展示会を市内で開いた。「市民の間でも芳井さんは知られていない。最先端の技術で日本に貢献したことを佐世保から多くの人に伝えたい」と話す。

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■「もの作りのDNA受け継ぐ」 「前畑造船」の田頭社長

 芳井一夫さんが佐世保市で設立した前畑造船は、7月で創立70周年を迎えた。5代目社長の田頭慎一さん(68)は芳井さんと面識はないが、先駆的な技術で戦艦大和を世に出した芳井さんの「もの作りのDNA」を受け継ぎたい、と語った。

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 1985年12月、別の造船会社から前畑造船に転職しました。芳井さんは1カ月ほど前に会社を退社され、入れ違いでした。芳井さんのことは2代目の社長や先輩社員から聞いていました。「海軍で戦艦大和の建造に携わっていた」。それぐらいのことで、本人も戦争のことはあまり語らなかったそうです。

 7年前に訪ねた広島県呉市の大和ミュージアムで、建築技師の名前を書いた銘版に作業主任として芳井さんの名前を見つけ、これはただごとじゃない、と感じました。タイミングよく、知人から芳井さんが登場する本や写真をいただき、功績を知ることができました。

 大和はブロック工法という先駆的な工法を取り入れています。船体をいくつかに分けて建造し、後でつなぎ合わせる工法です。すぐに戦艦を造らないといけなかった戦時中の事情が見て取れます。船首を丸くして波の抵抗を少なくする球状船首も大和の特徴です。溶接技術も進んでいました。

 前畑造船はクルーズ船やケミカル船、電気推進船など新しい船を建造してきました。新規事業への挑戦は芳井さんのDNAが生きていると思います。社員には芳井さんの経歴を知って、プライドを持ってほしいです。 (談)

【ワードBOX】戦艦大和

 「不沈艦」と呼ばれた旧日本海軍の戦艦。最高技術を結集し、広島県呉市で秘密裏に建造された。世界最大とされる46センチ主砲を搭載。太平洋戦争が始まった8日後、1941年12月16日に就役。連合艦隊旗艦として山本五十六長官らが乗船した。45年4月6日、「海上特攻」の命令を受け山口県・徳山沖から沖縄へ向かい、7日に鹿児島県・坊ノ岬沖で米軍機に襲われ、沈没。有賀幸作艦長はじめ艦隊全体で約4000人が戦死したとされる。

=2018/08/15付 西日本新聞朝刊=

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