イワノフカ事件とは? わかりやすく解説

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イワノフカ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/02 19:58 UTC 版)

イワノフカ事件(いわのふかじけん、ロシア語: Инцидент в Ивановке)は、1919年3月22日、シベリア出兵中の日本軍が、ロシア白軍からの要請で、白軍と敵対する抗日パルチザン(革命派武装勢力)に対する掃討作戦を各地で展開する過程で、革命派武装勢力派のイワノフカ村ロシア語版英語版アムール州ブラゴベシチェンスク郊外)を白軍と共に焼討ちし、数百名の村民を焼殺および銃殺した事件[1][2][3]。イヴァノフカ事件とも呼ばれる。


  1. ^ a b 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』p. 470-471 原暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865
  2. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p61、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  3. ^ 共同通信 (2018年10月3日). “【世界の街から】住民虐殺、ざんげの旅 シベリア出兵のイワノフカ村 - 共同通信 | This Kiji”. 共同通信. 2019年1月27日閲覧。
  4. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p59、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  5. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p60、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  6. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p62、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  7. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 200
  8. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p61、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  9. ^ a b 原 暉之 著、田中 利幸 編『戦争犯罪の構造』(株)大月書店、2007年2月20日、88-92,95頁。 
  10. ^ a b 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 474
  11. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 474-475
  12. ^ a b c 原暉之 著、田中利幸 編『戦争犯罪の構造』(株)大月書店、2007年2月20日、98-99頁。 
  13. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 475
  14. ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 477
  15. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p70、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
  16. ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p66、木村英亮、山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X


「イワノフカ事件」の続きの解説一覧

イワノフカ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)

シベリア出兵」の記事における「イワノフカ事件」の解説

詳細は「イワノフカ事件」を参照 その後3月22日にはイワノフカ過激派討伐」を敢行(イワノフカ事件)。同村はもともとボリシェヴィキ派の勢力強く反革命派の武装解除要求にも従わなかった。 そこでロシア反革命派は日本軍応援頼み、この強制的に捜索し武器押収革命分子逮捕銃殺行った。 しかしこうした抑圧政策村民憤激させ、逆にボリシェヴィキ勢力をより深く浸透させる結果となり、アムール州中部地方第12師団歩兵第12旅団師団長大井成元中将)は不名誉な敗北汚名をそそぐべく「過激派討伐作戦敢行。 しかしパルチザン対す数度作戦全て失敗し損害拡大させて終わった。そこで同旅団は「村落焼棄」へと作戦変更ウラジオストク派遣軍政務部が事件村民に対して行なった聞き取り調査にもとづく報告書一節には 「 本村日本軍包囲されたのは三月二十二日午十時である。其日村民平和に家業を仕て居た初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾落ち始めた凡そ二時間程の間に約二百発の砲弾飛来し五、六軒の農家焼けた村民驚き恐れて四方逃亡するものあり地下室隠るるもあった。 間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草軒下積み石油を注ぎ放火し始めた女子供恐れ戦き泣き叫んだ彼等或る者は一時気絶し発狂した男子多く殺され或は捕へられ或者等は一列並べられ一斉射撃の下に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣刺し殺された。 最も惨酷なるは十五名の村民一棟物置小屋押し込められ外から火を放たれ生きながら焼け死んだことである。 殺された者が当に籍ある者のみで二百十六名、籍の無い者も多数殺された。焼けた家が百三十戸、穀物農具家財焼失無数である。此の損害総計七百五十留(ルーブル)に達して居る。孤児が約五百老人のみ生き残って扶養者の無い者が八戸其他現在生活に窮して居る家族多数である。 」 とある。 翌年2月同州ソビエト権力復活する同村において州都ブラゴヴェシチェンスクの某新聞社再度調査行なった。 この結果死者総数291名(内中国人6名を含む)で、その中には1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含まれていたとされる(『赤いゴルゴタ』)。 こうした作戦招いた惨禍の中、1919年連合国後押しをしていた反革命派のアレクサンドル・コルチャーク政権赤軍との戦闘において敗北決定的となり、1920年崩壊日本政府内にも白軍凋落期に撤退機運強まった

※この「イワノフカ事件」の解説は、「シベリア出兵」の解説の一部です。
「イワノフカ事件」を含む「シベリア出兵」の記事については、「シベリア出兵」の概要を参照ください。

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