イワノフカ事件
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イワノフカ事件(いわのふかじけん、ロシア語: Инцидент в Ивановке)は、1919年3月22日、シベリア出兵中の日本軍が、ロシア白軍からの要請で、白軍と敵対する抗日パルチザン(革命派武装勢力)に対する掃討作戦を各地で展開する過程で、革命派武装勢力派のイワノフカ村(アムール州ブラゴベシチェンスク郊外)を白軍と共に焼討ちし、数百名の村民を焼殺および銃殺した事件[1][2][3]。イヴァノフカ事件とも呼ばれる。
- ^ a b 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』p. 470-471 原暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865
- ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p61、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
- ^ 共同通信 (2018年10月3日). “【世界の街から】住民虐殺、ざんげの旅 シベリア出兵のイワノフカ村 - 共同通信 | This Kiji”. 共同通信. 2019年1月27日閲覧。
- ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p59、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
- ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p60、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
- ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p62、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
- ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 200
- ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p61、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
- ^ a b 原 暉之 著、田中 利幸 編『戦争犯罪の構造』(株)大月書店、2007年2月20日、88-92,95頁。
- ^ a b 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 474
- ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 474-475
- ^ a b c 原暉之 著、田中利幸 編『戦争犯罪の構造』(株)大月書店、2007年2月20日、98-99頁。
- ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 475
- ^ 『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 477
- ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p70、木村英亮、 山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
- ^ 『ソ連の歴史 増補版 ロシア革命からポスト・ソ連まで』p66、木村英亮、山川出版社、1996年1月、ISBN 463464200X
- 1 イワノフカ事件とは
- 2 イワノフカ事件の概要
- 3 関連項目
イワノフカ事件
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詳細は「イワノフカ事件」を参照 その後3月22日にはイワノフカ村「過激派大討伐」を敢行(イワノフカ事件)。同村はもともとボリシェヴィキ派の勢力が強く、反革命派の武装解除要求にも従わなかった。 そこでロシアの反革命派は日本軍の応援を頼み、この村を強制的に捜索し、武器の押収、革命分子の逮捕・銃殺を行った。 しかしこうした抑圧政策は村民を憤激させ、逆にボリシェヴィキ派勢力をより深く浸透させる結果となり、アムール州中部地方第12師団歩兵第12旅団(師団長大井成元中将)は不名誉な敗北の汚名をそそぐべく「過激派大討伐」作戦を敢行。 しかしパルチザンに対する数度の作戦は全て失敗し損害を拡大させて終わった。そこで同旅団は「村落焼棄」へと作戦を変更。 ウラジオストク派遣軍政務部が事件後村民に対して行なった聞き取り調査にもとづく報告書の一節には 「 本村が日本軍に包囲されたのは三月二十二日午前十時である。其日村民は平和に家業を仕て居た。初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾が村へ落ち始めた。凡そ二時間程の間に約二百発の砲弾が飛来して五、六軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するものあり地下室に隠るるもあった。 間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草を軒下に積み石油を注ぎ放火し始めた。女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。彼等の或る者は一時気絶し発狂した。男子は多く殺され或は捕へられ或者等は一列に並べられて一斉射撃の下に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣で刺し殺された。 最も惨酷なるは十五名の村民が一棟の物置小屋に押し込められ外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである。 殺された者が当村に籍ある者のみで二百十六名、籍の無い者も多数殺された。焼けた家が百三十戸、穀物農具家財の焼失無数である。此の損害総計七百五十万留(ルーブル)に達して居る。孤児が約五百名老人のみ生き残って扶養者の無い者が八戸其他現在生活に窮して居る家族は多数である。 」 とある。 翌年2月、同州にソビエト権力が復活すると同村において州都ブラゴヴェシチェンスクの某新聞社が再度調査を行なった。 この結果、死者総数は291名(内中国人6名を含む)で、その中には1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含まれていたとされる(『赤いゴルゴタ』)。 こうした作戦が招いた惨禍の中、1919年秋連合国が後押しをしていた反革命派のアレクサンドル・コルチャーク政権は赤軍との戦闘において敗北が決定的となり、1920年に崩壊。日本政府内にも白軍凋落を期に撤退機運が強まった。
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