平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



晩年の芭蕉は旅から旅への日をおくり、歳月の大半は旅の空の下にありました。
『平家物語』をこよなく愛し、『奥の細道』の旅では、義経が自害した場所、
奥州平泉にある衣川の高館を訪れて、
♪夏草や兵どもが夢の跡 と吟じ、
多太神社(石川県小松市)では、斉藤実盛がつけていた兜を拝観し
♪むざんやな甲の下のきりぎりす と詠んでいます。
斉藤実盛は、幼い頃に父を討たれた義仲を木曽へ逃がしてくれた
恩人でしたが、皮肉なことに北陸の篠原合戦では、
義仲と敵味方にわかれて戦うことになります。
実盛は老武者と見くびられるのは悔しいと、
髪を黒く染めて戦いに臨みましたが、奮戦むなしく討取られます。

吉野、奈良と『笈の小文』の旅を続けた芭蕉と弟子の杜国(とこく)は、
享保五年(1688)4月、大坂に出て尼崎から船で兵庫の津(神戸市)へ行き、
須磨・明石へと向かいます。ころは旧暦の4月20日、
須磨寺の境内には木々がうっそうと生繁り、そのうす暗い木立ちの中に佇むと、
敦盛の吹く青葉の笛の音がどこからともなく聞こえてくるようだと
 敦盛を偲ぶ句を作っています。

須磨寺書院前の庭園にたつ芭蕉句碑
♪須磨寺やふかぬ笛きく木下闇(こしたやみ) はせを(芭蕉の俳号)
昭和43年佐野千遊が建て、文字は橋間石の筆跡。


寺では、敦盛がいつも持ち歩いていた愛用の青葉の笛が公開されていましたが、
芭蕉は十疋(ひき)の料金が高すぎて、拝観はしなかった。と
伊賀上野の門人猿雖(えんすい)宛の手紙に書いています。
当時、二八そばが十六文くらいですから、笛の拝観料十疋(百文)は、
現在の価格に直すと三千円と思われます。

一の谷の古戦場を歩いた芭蕉は、「道案内の少年を供として、鉄拐山へ続く
険しい山道を何度も滑り落ちそうになりながら、ようやく上りつくことができた。
須磨海岸を見下ろすと、一の谷内裏の屋敷跡がすぐ下に見え、当時の
戦いのありさまが思い起こされ、様々な面影が次から次へと浮かんでくる。
安徳天皇を二位殿(清盛の妻)が袖の中に横抱きにして船に移し、
宝剣・内侍所をあわただしく船に運び入れ、建礼門院がお召し物の裾に
足がからまりながら転ぶように屋形船に入られる様子。
あるいは女官がいろいろな道具類を持ち運びかねている状況などが、
鮮やかによみがえってくる。」と『笈の小文』で感動を語っています。
この文章から敗戦の際の女性たちの混乱ぶりが目に見えるようですが、
平家物語の一ノ谷合戦には、このような描写はないので、
古戦場を見下ろしながら、芭蕉が想像した情景を記したものと思われます。

須磨海岸近くにある敦盛の墓を見て、「中でも敦盛の石塔には
涙をとどめることができない。磯近く道ばたの、松風がさびしく吹く木立の陰に、
古びた姿で石塔が残っている。
年齢もわずか十六歳(平家物語では十七歳)で戦場に出て、熊谷と組討ちをして
はなばなしい武名を残した。」と涙を流し、しばし感慨にふけっています。


山陽電鉄須磨浦公園駅を出て左へ行くと一の谷古戦場、
右は鉢伏山へ向かうハイキングコースが続いています。
右へ行き敦盛橋から遊歩道を進むと、

所々木立ちがとぎれ、木陰から須磨の海が見え隠れします。

遊歩道沿いに、♪蝸牛角ふりわけよ 須磨明石
(須磨と明石は接しているので国境が分かりにくい。
どちらが須磨か明石か蝸牛に角で示せ)と刻んだ句碑があります。


これは中国の蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)の争い
(つまらない戦いで多くの命を失ったということ)を念頭において、
芭蕉が摂津と播磨の国境にあった境川のほとりで作った句です。


のちに須磨浦公園駅から国道2号線(西国街道)を西に約 500m行った
境川岸に句碑がたてられましたが、
いつしかなくなり、昭和十一年に須磨浦公園に再建されました。
境川は、鉢伏山から流れ出て南面の谷を南流し海に注ぐ
全長800mほどの小さな河川です。
摂津と播磨の国境となったことから名づけられ、
現在はこの川が神戸市須磨区と垂水区の境となっています。

明石では、芭蕉は人丸塚に詣でています。人丸塚は万葉歌人の
柿本人麻呂の墓と伝えられ、今も塚は明石公園城跡に残っています。

柿本神社山門

天文科学館の北には、かつて人丸塚の近くにあった柿本神社があります。
社は江戸時代初期に明石城を築く際、人丸山の現在地に移されました。
柿本神社の長い石段を上ると目の前に山門が現れます。
その門前の展望広場の一角に、
♪蛸壺や はかなき夢を  夏の月
 (夏の月が照る海の中、朝になれば引きあげられる身とも知らず、
蛸は壺の中ではかない夢を見ているのであろうか。)と
芭蕉が詠んだ蛸壺塚がたっています。
「たこ」は明石の名産で、素焼きの壺に穴を開け
綱を通して海底に沈めておいて、翌朝引き上げます。


 蛸壺塚
 松尾芭蕉(1644~94)旅を栖とした芭蕉にとって明石は西の果てであった。
この句碑は芭蕉の七十五回忌にあたる明和五年(1768)青蘿が創建、
崩壊のため玉屑が復興さらに魯十が再建した。明石俳句会(説明碑より) 


現在、展望広場には、天文科学館のドームが迫り、明石海峡には、
明石大橋が架けられ、人麻呂・芭蕉時代の風情とは異なりますが、
目の前に明石海峡の大パノラマが広がっています。


芭蕉が訪れた最北の地は『奥の細道』の象潟、
『笈の小文』の明石は最西端の町です。
遠く西国・九州への旅を芭蕉は夢見ていましたが、
旅の途中、大坂で病に倒れ51歳の生涯を閉じました。
『平家物語』のなかでも特に木曽義仲に思いをよせた芭蕉の遺骸は、
遺言にしたがって義仲寺(ぎちゅうじ)の義仲の墓の傍に葬られ、
のちに芭蕉の意志を継いだ弟子たちが西への旅に出発しています。
須磨寺(源平ゆかりの地)  

義仲寺1(木曽義仲と芭蕉)  
『アクセス』
「須磨寺」山陽電鉄 「須磨寺駅前」 徒歩約5分 JR 「須磨駅」 徒歩約12分
「須磨浦公園内芭蕉の句碑」山陽電鉄「須磨浦公園」駅下車西へ徒歩約5分
須磨浦公園駅から鉢伏山への遊歩道を上ると、歩道の左側に与謝蕪村の句碑、
右側に芭蕉の句碑があります。
「柿本神社」 兵庫県明石市人丸町1-26  山陽電鉄「人丸前駅」下車、北西へ徒歩約5分
『参考資料』

「兵庫県の地名」(Ⅰ)(Ⅱ)平凡社 「兵庫の街道いまむかし」神戸新聞総合出版センター
「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター 新編日本古典文学全集「松尾芭蕉集」(2)小学館 
魚住孝至「芭蕉 最後の一句」筑摩書房 田中善信「芭蕉」中公新書 「松尾芭蕉」桜楓社

 

  

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
江戸時代ともなると道中記なども出版されたから少しは… (yukariko)
2014-04-12 22:28:38
旅の道中の情報も多くなってはいたでしょうが、ネット時代の今とは全く異なり、友人や素封家、後援者の家を泊り泊りしてあれこれ尋ねながら、平家物語の戦いの跡や主要な人々の足跡を訪ねてゆかれたのですね。

今とは全く苦労の度合いの大きさの違う分、実際に歩いて得られた感動は激しく大きかった事でしょう。

そうして刊行された、『奥の細道』や『笈の小文』を後の世の人間が読んで、江戸時代にはもう『○○だった!』と平家物語の時代を数百年前の暮らしとで比較して味わい、想像するのでしょうか。

それにしても芭蕉の句は読む人の心情を揺り動かすようです。

 
 
 
実際に歩いた感動は大きかったようです。 (sakura)
2014-04-13 11:00:53
「須磨明石」の旅では、源氏物語や在原行平などの王朝物語風の部分と
源平合戦の古戦場、偉大な先人柿本人麻呂の足跡を辿って須磨に戻り、
光源氏が須磨で住んだ所とも伝えられる現光寺の庵に宿泊しています。
『笈の小文』の旅の七ヶ月後には、『奥の細道』の旅に出発、
名所・歌枕を訪ねながら西行の足跡を辿り、門人や金持ちの風流人の家、寺などに泊まっています。
西行や能因法師を思い浮かべながら、実際に現地に足を運ぶと
彼らの風雅の歴史が思い起こされ、それが心に入り込み、
その地の風土とともに、さまざまな感慨を芭蕉に与えたようです。

 
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