須磨を尋ね歩く その1

私にはいわばあこがれの須磨。子どもの頃から慣れ親しんだ百人一首の歌の舞台であり、源平合戦の舞台、唱歌に歌われた舞台、芭蕉や蕪村、子規や節、耕平らが探訪した風光明媚な白砂青松の須磨。そんな須磨の一部分をいつもの駆け足散歩。
 
JR須磨駅。国道二号線を挟んで、JR神戸線と山陽電車がほぼ並行して走る。「須磨駅」「山陽須磨駅」「須磨寺駅」が点在して困惑。   「村上帝社」琵琶の名人藤原師長がここに泊まった時、村上天皇の霊が琵琶の奥義を伝えたので、琵琶を埋めて都に帰ったと伝える。
 
 関守稲荷神社。大宝律令に定めらた須磨の関の守護神として祀られた。海岸から400mの小高い住宅地。波音も千鳥も聞こえぬ。    源兼昌歌碑(碑面は仮名)    関守稲荷
 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に 
  幾夜寝ざめぬ 須磨の関守 (百人一首)
 
藤原俊成歌碑          関守稲荷
 聞き渡る関の中にも須磨の関
  名をとゞめける波の音かな  俊成 
  藤原定家歌碑           関守稲荷
 桜花たが世の若木ふり果てて 
  須磨の関屋の跡うづむらん    定家
 
現行寺、もと源氏寺。源氏物語の光源氏の住まいの跡と伝えられる。   浄土真宗本願寺派藩架山現光寺本堂。
 
源氏の「おはすべき所は、行平の中納言の、「藻潮たれつゝわび」ける家居、近きわたりなりけり。海面はやゝ入りて、あはれに、すごげなる山なかなり。垣のさまよりはじめて、めづらかに見給ふ。葺屋ども、葦ふける廊めく屋など、をかしうしつらひたり。(紫式部 源氏物語 須磨)  
 
 正岡子規句碑         現光寺
読みさして月が出るなり須磨の春   子規
  風月庵跡。芭蕉が 1688(貞亨5)年4月に須磨を訪れた際、ここに泊まったという。
 
 松尾芭蕉句碑         現光寺
見渡せは ながむれは見れは 須磨の秋
  「須磨の関跡」 この付近は古代の須磨の関があった場所と伝えられる由。
 
 暮れゆく淡路島遠望。直線で11km程。右端に大橋が見える。宿の窓から。   照明の点いた 明石海峡大橋。長さ3911mで世界最長の吊り橋。主塔の高さは293m。
 
 夜明けの須磨海岸。対岸の和歌山を望む。   朝早くから海岸の遊歩道を走る人、歩く人。
 
「綱敷天満宮」菅原道真が大宰府に左遷された際、須磨へ一時上陸。漁師達が漁網で円座を作って休息させた。後に天満天神として祀る。     「波乗り祈願」幼少期の菅原道真がサーフボートを支える。波乗りとは、うまく時流の波の乗ることを祈願するんだって。天神様にサーフィンをさせるこの発想や恐れ入りました。
 
五歳の菅公。 御年五歳の時詠み給える。
美しや紅の色なる梅の花
   あこが顔にもつけたくぞある 
  菅公母子像。菅公の母君の歌。
ひさかたの月の桂も折るばかり
  家の風をも吹かせてしがな 
 
 「なすのこしかけ」茄子に腰掛けて本殿に向かい祈ると、どんな願いも叶う。いいなあ!    「和田岬灯台」明治初期の鉄鋼造り灯台として日本最古のもの。移転して保存。
 
「 安徳帝内裡趾傳説地」    安徳宮。安徳天皇の冥福を祈るために祀る
   …尾上(をのへ)つゞき、丹波路(たんばぢ)へかよふ道あり。鉢伏(はちぶせ)のぞき・逆落(さかおとし)など、おそろしき名のみ(のこり)て、鐘懸松(かねかけまつ)より見下(みおろす)に、一ノ谷内裏(だいり)やしき、めの下に見ゆ。其代(そのよ)のみだれ(その)時のさはぎ、さながら心にうかひ、(おもかげ)につどひて、二位(にい)のあま君、皇子を(いだき)奉り…千歳(ちとせ)のかなしび此浦にとゞまり、素波(しらなみ)の音にさへ(うれひ)多く侍るぞや。 
             松尾芭蕉 『笈の小文』
 「皇女和宮像」昭和初期、市内の女学校に送られた像がこの地に迎えられたという。    芭蕉は貞享5(1688)年4月須磨にきて、須磨寺などを参拝し、この地にも足を運ぶ。
 
  「源平史蹟 戦の濱」『一ノ谷は鉄枴山と高倉山との間から流れ出た渓流に沿う地域。一ノ谷から西一帯の海岸は、源平の戦いにおける「一ノ谷の合戦」の舞台となったことから「戦いの浜」といわれている。』(観光ガイドブック)

安徳天皇を擁して西海に走った平氏一門は、東生田森、西一ノ谷に軍陣を構えた。"九郎御曹司搦手まはッて七日の明ぼのに、一谷のうしろ鵯越にうちあがり……「馬共はぬしぬしが心得ておとそうにはそんずまじゐぞ。義経を手本にせよ。とて、まづ卅騎ばかり、まさきかけておとされにけり……" (平家物語)義経の鵯越の奇襲により、平氏は屋島に敗走する。
 
  須磨の浦にて
 春の海 終日のたりのたりかな  与謝蕪村
   蝸牛角ふりわけよ須磨明石   芭蕉
 ここの傍らの境川が播磨と摂津の国境。
 
 須磨浦公園からの遠望。   下り佇てば遅日の淡路籬の上に  播水 
 
虚子の東帰に
ことづてよ須磨の浦わに晝寐すと 子規
子規50年忌
月を思ひ人を思ひて須磨にあり  虚子 
   須磨浦公園。鉢伏山・鉄拐山山麓の斜面や海岸の松林など付近の一帯に広がる地域が公園として整備されている。面積約100ha
桜の名所でもあるそうだ。
 
 「史蹟敦盛塚」「一ノ谷敦盛卿之墓」左右に。
熊谷次郎直真に討ち取られた16歳の平敦盛の供養塔と伝える。高さ397cmの五輪塔。
  敦盛そばへ去りし夜客や後の月  松瀬青々
 
「……たゞとくとく頸をとれ」とぞの給ひける。熊谷あまりにいとおしくて、いづくに刀をたつべしともおぼえず、めもくれ心もきえはてゝ、前後不覚におぼえけれど、さてしもあるべき事ならねば、泣々頸をぞかいてげる。……(平家物語)

鵯越の風あれて 須磨の浦曲の波高し 寄せし源氏の軍勢に 城も危うし一の谷
波間の武士を直真が 扇を上げて呼び返し 組み敷き見れば二月の 花はずかしき上﨟よ…
寿永の春の夜を寒み 青葉の笛の音絶えて 哀れは深し 墨染の 衣にちるやうす桜
      (「熊谷直真」 三浦圭三作詞 平岡均之作曲)     
    須磨の浦を一の谷へ歩いて行く。乾き切つた街道を埃がぬかる程深い。…敦盛の墓の木蔭にはおしろいが草村をなしてびつしりと咲いて居る。…敦盛とおしろいの花といふ偶然の配合に興味を感じて名物の敦盛蕎麥へはいる。…女房が蕎麥を呉れた。不味いこと甚だしい。淺い丼一杯だけやつと喰った。…然し段々俗化して行く須磨の浦にこんな野暮臭い名物が昔の儘に存して居るのは却てゆかしい心持がする。渚へ出ると海は極て穩かである。たまたま大きな波がゆるやかに來たと思ったらどさんと碎けて白い泡がさらさらと自分の足もとまで廣がつた。
              長塚節『須磨明石』
敦盛塚前の「敦盛蕎麦」時間が合わなかったので蕎麦は食べなかったが、昔と違って今はきっとおいしいのだろう。     長塚節が須磨明石を訪ねたのは、明治38年9月25日。須磨寺に参拝してその足で敦盛塚に詣で、その夜は明石に泊まった。
藻汐垂れつゝ佗わぶといひし須磨は海水浴の名所と変じて、蜑が焼く煙と見れば汽車の過ぎ行く世の中、敦盛の塚は猶蕎麦屋を残し、古き家の檐端に疎らき簾を垂れけるこそせめては昔を忍ぶたよりなれ。……                             正岡子規『月見草』
 松風村雨堂は、謡曲などに取り上げられた二人の姉妹にまつわるお堂。平安前期在原行平は須磨に流されていた時、二人の姉妹に出会い、松風、村雨の名を与えて仕えさせていた。やがて京に帰った行平の住まいの傍らに庵を結び観世音を信仰して行平の無事を祈ったと伝えられる。

さてはこの松はいにしへ松風村雨とて、二人の海人の旧跡にてありけるぞや、痛はしやその身は土中に埋もれぬれども、名は残る世のしるしとて、変はらぬ松ひと木、緑の秋を残すことのあはれさよ。……」 観阿弥『松風』
 
 「名勝 松風村雨堂」    観音堂。
 
行平が京に帰る際、右の歌と共に形見の烏帽子、狩衣を掛け残した三代目「衣掛の松」
行平が植えた磯馴松は株のみが小屋の中に
  中納言行平御詠
立ちわかれいなばの山の嶺におふる
  まつとしきかば今かへりこむ
 陸奥の忍ふもぢ摺誰故に 乱れ初にし我ならなくに 河原左大臣
同じく百人一首に納められたこの歌は、陸奥国按察史河原左大臣源融と虎女の物語だが、都から地方へ出向いた公達と土地の娘の物語など、こうした話は昔も今もいくつもあるのだろう 

    須磨寺から須磨離宮へ   INDEX

inserted by FC2 system