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戦国武将録: 戦国美作国人名辞典

2012年7月25日水曜日

戦国美作国人名辞典

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【あ】

安積小四郎【あずみこしろう(15??~15??)】

新免宗貫家臣。安積屋敷主。

尼子照平【あまこてるひら(15??~1574)】

尼子晴久家臣。高陣城主。1574年、「鬼山城の戦い」で玉置玄蕃守を討取るも自らも討死した。

粟井正晴【あわいまさはる(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。吉野郡粟井城主。通称三郎兵衛。鑓の名手。鉄炮頭として800石を領した。1582年、「八浜の戦い」では、宇喜多直家が病没後、毛利輝元の家臣穂井田元清勢の攻撃を受けた。宇喜多忠家に従って戸川秀安、岡利勝らとともに迎撃した。穂井田元清勢の村上八郎右衛門が海賊衆を率いて宇喜多忠家勢の側面を攻撃したため宇喜多基家が討死した。宇喜多忠家勢は敗走したが、殿の戸川秀安、能勢頼吉、馬場職家、岸本惣次郎、小森三郎右衛門、粟井三郎兵衛、国富貞次、宍甘太郎兵衛らの活躍により穂井田元清勢の追撃を振り切った。1597年、「漢南の戦い」では、宇喜多秀家に従って渡海して戦功を挙げた。参考文献:『戦国人名事典』by新人物往来社。

安藤為泰【あんどうためやす(15??~15??)】

後藤勝国家臣。勝北郡真加部館主。官途は信濃守。別名安東為泰。

安藤相馬【あんどうそうま(15??~15??)】

後藤勝基家臣。1579年、「三星城の戦い」では、難波利介、柳澤太郎兵衛、後藤久元、小坂田吉詮、下山正武、浦上景行らとともに倉掛城の宇喜多直家の家臣延原景光勢を攻撃した。宇喜多直家の諜略により内応して城に火をかけ宇喜多直家勢を城内に引き入れた。

井口長兵衛【いぐちちょうべい(15??~15??)】

新免宗貫家臣。1580年、「塀高城の戦い」では、新免総兵衛らとともに草刈重継に内応して新免宗貫勢と戦ったが、宇喜多直家に支援を受けた新免宗貫の反撃を受け敗走した。

池田新兵衛【いけだしんべい(15??~15??)】

牧尚春家臣。

井原越前守【いはらえちぜんのかみ(15??~15??)】

三浦貞盛家臣。若代城主。

江見久盛【えみひさもり(15??~15??)】

英田郡倉敷城主。官途は下総介。1532年、尼子経久の意向を受けた尼子晴久勢が美作国に侵攻するとそれに従った。大河原貞尚と縁戚関係を結び、美作国で勢力を拡大した。1548年、高田城主三浦貞勝を従属させた。尼子晴久は、美作国に河副久盛、宇山誠明、宇山飛騨守らを派遣して東美作国の支配体制を強化した。浦上宗景勢の侵攻も度々撃退し、後藤勝基の反乱も鎮圧した。1561年、尼子晴久の病没後、毛利元就が出雲国に侵攻すると、河副久盛、宇山誠明、宇山飛騨守らが帰還すると美作国衆が謀反を起したがこれを鎮圧した。1569年、立原久綱、山中幸盛らが尼子勝久擁を擁立すると参陣した。宇喜多直家勢の攻撃を受け衰退した。

江見久次【えみひさつぐ(15??~15??)】

江見久盛の男。1562年、浦上宗景に内応した後藤勝基勢を撃退する戦功を挙げた。1555年、「林野城の戦い」では、浦上宗景と結んだ後藤勝基勢が林野城を攻撃すると、江見久盛に従って水島左京助、長瀬三郎兵衛らとともに後藤勝基勢を撃退した。

江見源内【えみげんない(15??~15??)】

新免宗貫家臣。源内屋敷主。

江原佐次【えばらさだつぐ(15??~15??)】

久米郡中山手城主。

江原親次【えばらちかつぐ(15??~1598)】

江原佐次の男。官途は兵庫助。通称又四郎。室は宇喜多直家の娘。1579年、「高畑城の戦い」では、宇喜多直家が織田信長勢に内応したため、毛利輝元の家臣吉川元春勢の攻撃を受け敗退した。1582年、篠向城代に任じられ10,000石を領した。1584年、「岩屋城の戦い」では、毛利輝元の家臣中村頼吉が守る岩屋城を攻撃した。1592年、「文禄の役」では、宇喜多秀家に従って参陣したが、釜山城で病没した。

江原三之丞【えばらさんのすけ(15??~1607)】

江原佐次の次男。宇喜多秀家に仕えて400石を領した。1592年、「文禄の役」では、宇喜多秀家に従って参陣した。1600年、「関ヶ原の役」後、宇喜多秀家が改易処分に処されると美作国に隠棲した。

江原高次【えばらたかつぐ(15??~1615)】

江原親次家臣。宇喜多直家に従って10,000石を領した。1600年、「関ヶ原の役」後、宇喜多秀家が改易されると備前国で隠棲していた。1614年、「大坂冬の陣」では、羽柴秀頼勢に属して参陣した。1615年、「天王寺、岡山の戦い」では、天王寺口を守備したが、松平元康の家臣松平忠直勢の攻撃受け壊滅した。

大河原大膳大夫【おおがわらだいぜんだいふ(15??~15??)】

赤松晴政家臣。苫田郡葛下城主。1531年、浦上村宗が摂津国で討死すると、美作国西郡守護代職を巡って中村則治勢と争った。1538年、「葛下城の戦い」では、尼子晴久勢の攻撃を受け落城した。

大河原貞尚【おおがわらさだなお(15??~15??)】

三浦貞国の次男(大河原大膳大夫の婿養子)。別名三浦貞尚。尼子晴久勢の支援を受け中村則治勢を追い落した。1551年、尼子晴久勢の先陣を務め戦功を挙げた。1559年、「高田城の戦い」では、金田弘久、牧河内守らとともに三浦貞勝を擁立して高田城を攻撃した。1561年、「月田口の戦い」では、三村家親勢と戦った。1567年、浦上宗景の家臣三宅ニ郎右衛門に社領の分の普請課役の免除を申し出た。

大蔵秋清【おおくらあききよ(15??~15??)】

赤松義村家臣。官途は越中守。1530年、中村則治と連署して神戸郷内の田地を幻住庵に寄進した。

大原主計助【おおはらしゅけいのすけ(15??~15??)】

毛利輝元家臣。西浦城主。1581年、「岩屋城の戦い」では、中村頼宗らとともに宇喜多直家の城代浜口家職を備前国に追い落した。

岡本氏秀【おかもとうじひで(15??~15??)】

浦上宗景家臣。通称太郎左衛門尉。1560年、美作国衆の難波孫左衛門との取次役を務めた。1568年、大田原長時、服部久家、日笠頼房、明石行雄、延原景能らとともに領地争いの書状に連署した。1569年、「高田城の戦い」では、三浦貞広を明石行雄、長船綱直、岡貞綱らとともに支援して城代の香川広景勢と戦った。1570年、「高田城の戦い」で三浦貞広が高田城を奪還すると、その取次役を務めた。1574年、「第一次天神山城の戦い」では、浦上宗景に従って宇喜多直家勢と戦ったが沼本久家、沼本豊盛、菅納家晴らが宇喜多直家勢に属したため、美作国内で孤立した。1575年、「蓮花寺城の戦い」では、中島隆重、延原家次らとともに沼本久家、沼本豊盛、菅納家晴らが守る蓮花寺城を攻撃したが敗退した。「第二次天神山城の戦い」では、浦上宗景の家臣明石行雄らが内応したため、浦上宗景は滅亡した。

岡本秀広【おかもとひでひろ(15??~15??)】  

岡本氏秀の男。1571年、「佐井田城の戦い」では、宇喜多直家勢の伊賀久隆、植木秀資らとともに三村元親、荘元祐勢を撃退した。1575年、「第二次天神山の戦い」で浦上宗景が宇喜多直家に敗れると、宇喜多直家に従った。1578年、「播磨上月城の戦い」では、宇喜多直家に従って羽柴秀吉勢と戦い戦功を挙げた。1580年、「高田城の戦い」では、牧左馬助とともに毛利輝元勢の鷲見源之丞を討取る戦功を挙げた。1592年、「文禄の役」では、宇喜多秀家に従って渡海した。1593年、「第二次晋州城の戦い」では、晋州牧使の徐礼元を討取る戦功を挙げた。1600年、「関ヶ原の役」後、宇喜多秀家が改易処分に処されると所領を失った。

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【か】

片山久義【かたやまひさよし(15??~15??)】

草刈衡継家臣。苫田郡沖溝城主。官途は木工助。1580年、「沖溝城の戦い」では、宇喜多直家勢の攻撃を受けたが、沖溝城を守り抜いた。

片山久安【かたやまひさやす(1574~1650)】

竹内久盛の次男。官途は伯耆守。片山伯耆流を起こした。

片山常政【かたやまつねまさ(15??~15??)】

片山城主。官途は壱岐守

片山助兵衛【かたやますけべい(15??~15??)】

片山常政の男。1582年、「備中高松城の戦い」では、毛利輝元勢に従い高松城に籠城した。

岸氏勝【きしうじかつ(15??~15??)】

杉山為就家臣。1580年、「鶴田城の戦い」で宇喜多直家勢の攻撃を受けると、二の丸に宇喜多直家勢を導き、鶴田城を落城に追い込んだ。

木村勘兵衛【きむらかんべい(15??~15??)】

中村頼宗家臣。1581年、「岩屋城の戦い」では、中村頼宗の意向を受け桜井直豊らとともに浜口家職が守る岩屋城を攻落とした。

草刈衡継【くさかりひらつぐ(15??~15??)】

東北条郡矢筈山城主。草刈景継の男。1532年、因幡国から美作国矢筈城に転封して近隣諸豪や尼子晴久勢と対抗した。1539年、尼子晴久、浦上村宗、浦上宗景らと戦いこれを撃退した。1540年、「安芸吉田郡山城の戦い」で尼子晴久勢が毛利元就に敗れると、毛利元就と結び尼子晴久勢と対抗した。1542年、「第一次月山富田城の戦い」で大内義隆が尼子晴久に敗れると、尼子晴久勢の攻勢を受けた。1553年、「高山城の戦い」では、尼子晴久勢の攻撃を受けたがこれを撃退した。

草刈景継【くさかりかげつぐ(15??~1579)】

草刈衡継の男。1566年、父草刈衡継の隠居により草刈家の家督を相続した。1563年、因幡国の武田高信が毛利元就と結び勢力を拡大すると、武田高信と対立した。1572年、毛利元就は内海兵庫助らを使者に遣わして、武田高信との和議を諮ったが武田高信に有利な裁定だった。1578年、宇喜多直家が織田信長と結び毛利輝元勢に対抗すると、美作国衆は、後藤勝基らとともに織田信長勢の新免宗貫と戦った。1579年、「琴戸崎の戦い」では、新免宗貫勢を撃退したが、新免宗貫勢の別働隊から横槍を受け、白岩阿波守らとともに討死した。

草刈重継【くさかりしげつぐ(15??~15??)】

草刈衡継の次男。官途は対馬守。1579年、「琴戸崎の戦い」で兄草刈景継が自刃したため、草刈家の家督を相続した。1580年、「塀高城の戦い」では、内応した井口長兵衛、新免総兵衛らを支援して新免宗貫勢と戦ったが、宇喜多直家の支援を受け新免宗貫勢の反撃を受け敗走した。

草刈重久【くさかりしげひさ(15??~1579)】

英田郡佐淵城主。草刈衡継の三男。通称与次郎。1578年、佐淵城から宇喜多直家勢に属する新免宗貫、粟井右京進らの村々に 放火、狼藉を行った。1579年、「筏津姥ヶ原の戦い」では、新免宗貫、粟井右京進らと戦い敗走、佐淵城に落延びる途中で新免家貞の追撃を受け討死した。

小坂家房【こさかいえふさ(15??~16??)】  

浦上宗景家臣。小坂弥三郎の男。久米郡小松尾館主。通称宇兵衛。1565年、「興善寺の戦い」で三村家親勢と戦って戦功を挙げた。1575年、「第二次天神山の戦い」で浦上宗景が宇喜多直家に敗れると、宇喜多直家に従った。1600年、「関ヶ原の役」で宇喜多秀家が改易処分に処されると、久米郡南庄村で大庄屋を務めた。

小坂田但馬守【こさかたたじまのかみ(15??~15??)】

後藤勝国家臣。英田郡友野城主。

小坂田河内守【こさかたかわちのかみ(15??~15??)】

小坂田但馬守の男。

小坂田官兵衛【こさかたかんべい(15??~1621)】

通称又四郎。数度軍功あり。感状折紙を尼子晴久より賜う。

小坂田善右衛門【こさかたぜんえもん(15??~15??)】

後藤勝基家臣。1579年、「三星城の戦い」で後藤勝基が宇喜多直家勢に敗れ滅亡すると、帰農した。

小坂田吉詮【こさかたよしあき(15??~15??)】

後藤勝基家臣。1579年、「三星城の戦い」では、安藤相馬、難波利介、柳澤太郎兵衛、後藤久元、下山正武、浦上景行らとともに倉掛城の宇喜多直家の家臣延原景光勢を攻撃した。宇喜多直家の諜略により安藤相馬が内応して城に火をかけ宇喜多直家勢を城内に引き入れた。西の丸を守っていた難波利介と柳澤太郎兵衛は落延びる途中、宇喜多直家勢に追われ討取られた。

後藤勝国【ごとうかつくに(14??~15??)】

勝田郡三星城主。後藤勝政の男。1502年、「美和山城の戦い」で立石久朝を滅ぼした。1556年、「庄内の戦い」で豊福肥前守を備前国に追い落した。

後藤勝基【ごとうかつもと(1538~1579)】

後藤勝国の男。官途は摂津守。通称左衛門尉。1560年、「倉敷城の戦い」では、浦上宗景勢と結んで尼子晴久勢の江見久盛を攻撃した。1562年、浦上宗景勢の先導役を務め尼子晴久勢と戦ったが敗れた。1563年、「三星城の戦い」では、三村家親勢の攻撃を受けたが浦上宗景勢の支援を受け撃退した。1571年、「三星城の戦い」では、浦上宗景勢の攻撃を受けたが毛利元就の支援を受け撃退した。1572年、毛利元就と浦上宗景が和議を結ぶと後藤勝基も和議を結んだ。

後藤元政【ごとうもとまさ(15??~1579)】

後藤勝基の男。通称与四郎。1574年、父後藤勝基の隠居により後藤家の家督を相続した。1579年、「三星城の戦い」では、宇喜多直家の家臣延原景能勢の攻撃を受け後藤勝基とともに戦ったが宇喜多直家勢の調略や火計により落城、後藤勝基とともに自刃した。

後藤久元【ごとうひさもと(15??~15??)】

後藤勝基家臣。1579年、「三星城の戦い」では、安藤相馬、難波利介、柳澤太郎兵衛、小坂田吉詮、下山正武、浦上景行らとともに倉掛城の宇喜多直家の家臣延原景光勢を攻撃した。後藤久元は延原景光と一騎打ちを行ったが討取ることはできなかった。宇喜多直家の諜略により安藤相馬が内応して城に火をかけ宇喜多直家勢を城内に引き入れた。西の丸を守っていた難波利介と柳澤太郎兵衛は落延びる途中、宇喜多直家勢に追われ討取られた。

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【さ】

斎藤実秀【さいとうさねひで(15??~15??)】

苫田郡小田草城主。通称次郎。1544年、尼子晴久が美作国に侵攻すると、江見久盛とともに尼子晴久に従った。1560年、尼子晴久が病没すると、浦上宗景勢の攻撃を受けた。毛利元就勢の三村家親勢に属した。

斎藤実次【さいとうさねつぐ(15??~15??)】

斎藤実秀の男。浦上宗景勢が美作国に侵攻すると、美作国衆は毛利元就の支援を受けこれに対抗した。毛利元就の意向を受けた三村家親勢に従って浦上宗景勢を備前国に追い落した。1565年、援軍要請に来た尼子勝久の家臣平野又右衛門を謀殺して、頸を毛利元就に送った。1566年、三村家親が宇喜多直家により謀殺されると、浦上宗景に属した。1569年、尼子勝久が出雲国に侵攻すると、これに属して毛利元就勢と戦うが敗退した。その後、宇喜多直家に従った。

桜井直豊【さくらいなおとよ(15??~15??)】

中村頼宗家臣。官途は越中守。1581年、「岩屋城の戦い」では、中村頼宗の意向を受け木村勘兵衛らとともに浜口家職が守る岩屋城を攻落とした。

下山正氏【しもやままさうじ(15??~1579)】

後藤勝基家臣。英田郡井の内城主。通称半内。別名下山正武。1579年、「三星城の戦い」では、安藤相馬、難波利介、柳澤太郎兵衛、後藤久元、小坂田吉詮、浦上景行らとともに倉掛城の宇喜多直家の家臣延原景光勢を攻撃した。宇喜多直家勢の攻撃を受け討死した。

渋谷国重【しびやくにしげ(15??~1573)】

浦上宗景家臣。英田郡神田山城主。通称権之丞。1573年、「神田山城の戦い」で宇喜多直家勢の攻撃を受け討死した。

白岩阿波守【しらいわあわのかみ(15??~1579)】

草刈景継家臣。1579年、「琴戸崎の戦い」では、新免宗貫勢を撃退したが、新免宗貫勢の別働隊から横槍を受け、草刈景継らとともに討死した。

新免貞重【しんめんさだしげ(15??~15??)】

英田郡竹山城主。官途は伊賀守。室は宇野家貞の娘。

新免宗貞【しんめんさだしげ(15??~15??)】

新免貞重の男。室は竹中半兵衛の娘。1554年、尼子晴久の家臣川副久盛勢の攻撃を受け所領を失った。1555年、所領奪回のため川副久盛勢と戦うが大敗した。1557年、「竹山城の戦い」で所領を奪還した。
 
新免宗貫【しんめんむねぬき(15??~15??)】

新免宗貞の男。1558年、新免家の家督を相続した。1579年、「矢筈城の戦い」では、矢筈城を攻落とすことができず撤退した。1592年、「文禄の役」に参陣した。1600年、「関ヶ原の役」後、黒田長政に仕えた。

新免宇右衛門【しんめんうえもん(15??~15??)】

新免宗貫の男。父新免宗貫とともに黒田長政に仕えた。

新免長春【しんめんながはる(15??~15??)】

新免宗貫の男。通称三郎。

新免家貞【しんめんいえさだ(15??~15??)】

新免宗貫家臣。官途は備後守。1579年、「筏津姥ヶ原の戦い」で新免宗貫に従って参陣して草刈重久を討取る戦功を挙げた。

新免総兵衛【しんめんそうべい(15??~15??)】

新免宗貫家臣。1580年、「塀高城の戦い」では、井口長兵衛らとともに草刈重継に内応して新免宗貫勢と戦ったったが、宇喜多直家に支援を受けた新免宗貫の反撃を受け敗走した。

新免治郎左衛門【しんめんじろうざえもん(15??~15??)】

新免宗貫家臣。桂坪城主。

杉山為就【すぎやまためなり(15??~15??)】

垪和為長の弟。官途は備中守。1543年、兄垪和為長が討死すると、甥の竹内為能が幼少のため、鶴田城主となった。1580年、「鶴田城の戦い」では、宇喜多直家勢の攻撃を受けると、二の丸の守将岸氏勝が内応たため落城した。

角南伊賀守【すなみしいがのかみ(15??~15??)】

英田郡江見荘の国衆。

角南重義【すなみしげよし(1538~1609)】

角南伊賀守の男。官途は刑部少輔。通称新五郎。法名「如慶」。日蓮宗の蓮花寺の住職を務めた。1574年、宇喜多直家の使者として小早川隆景のもとに赴いた。1578年、織田信忠のもとへ赴くなど、宇喜多直家の信頼も厚かった。1598年、御家騒動で宇喜多秀家のもとを退去した。不遇にあった日蓮宗僧侶日奥を援助した。1600年、「関ヶ原の役」後、松平元康に仕えた。

角南友行【すなみともゆき(15??~15??)】

角南伊賀守の次男。通称覚右衛門。宇喜多秀家のもとで本丸御番衆として1,520石を領した。1579年、「三星城の戦い」では、後藤勝基勢と戦い戦功を挙げた。1582年、「備中高松城の戦い」では、羽柴秀吉勢に従って参陣した。1599年、御家騒動で戸川達安らとともに大坂の宇喜多家邸に立て籠もるも、大谷吉継の斡旋で帰参した。1600年、「関ヶ原の役」では、参陣が許されず宇喜多秀家のもとを退去した。

妹尾孫九郎【せおまごくろう(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。城山城主。1579年、「三星城の戦い」では、織田信長勢に寝返った宇喜多直家に従って参陣して、毛利輝元の家臣柴田権左衛門を討取る戦功を挙げた。

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【た】

竹内久盛【たけのうちひさもり(15??~1595)】

久米郡一ノ瀬城主。垪和幸次の男(杉山為就の養子)。官途は中務太夫。別名垪和久幸。兵法家。古武道竹内流の開祖。新免宗貫に仕え一ノ瀬城13,000石を領した。1532年、西垪和三の宮での修行により小具足、早縄など5つの術を習得、これを「腰之廻」と称した。1553年、尼子晴久と浦上宗景が争うと浦上宗景勢に属して戦った。宇喜多直家と戦いに敗れ、播磨国三木城の別所長治に仕えた。

竹内久勝【たけうちひさかつ(1567~1663)】

竹内久盛の三男。官途は常陸介。通称藤一郎。父竹内久盛とともに垪和庄に帰り兵法に専念した。1586年、霊感を受け必勝五件を体認、兵法自在の奥旨を極めた。その後、西国、九州を武者修行し、雇われて真剣の勝負も行った。

辻秀清【つじひできよ(15??~15??)】

石ヶ城主。通称新次郎。

東郷義邦【とうごうよしくに(15??~15??)】

久米郡逆巻城主。官途は若狭守。

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【な】

中尾四郎兵衛【なかおしろうえもん(15??~15??)】

美作国の商人。尼子晴久の家臣宇山兼久から西美作国三郡(大庭、真島、久米郡)の商人統括権を与えられた。倉敷城主江見久盛との連携を維持するために出雲街道の確保を目的として、商業的利権を図るために行われた。

中村則治【なかむらのりはる(1519~1568)】

赤松義村家臣。久米郡岩屋城主。中村則久の男。美作国守護代職。官途は伊賀守。1530年、大蔵秋清と連署して美作神戸郷内の田地を幻住庵に寄進した。1531年、浦上村宗が摂津国で討死すると、美作国西郡守護代職を巡って大河原大膳大夫勢と争った。尼子晴久勢の支援を受け大河原貞尚勢の攻撃を受け劣勢に立たされた。1544年、「岩屋城の戦い」で尼子国久勢の攻撃を受け斎藤実秀とともに尼子晴久勢に属した。尼子晴久の家臣芦田秀家が城代として送り込まれた。1568年、尼子義久が滅亡すると、芦田正家に謀殺された。

中村頼宗【なかむらよりむね(15??~15??)】

苫田郡葛下城主。毛利輝元家臣。官途は大炊介。1581年、「岩屋城の戦い」では、大原主計助らとともに宇喜多直家の城代浜口家職を備前国に追い落した。宇喜多直家勢の反撃を受けるが伊賀家久、楢崎元兼らとともに撃退した。1583年、毛利輝元と羽柴秀吉が和議を結ぶと毛利輝元勢(伊賀家久、草刈重継ら)は美作国から撤退したが中村頼宗は残留し続けた。1584年、「岩屋城の戦い」では、宇喜多秀家の家臣花房職之勢20,000余りの攻撃を受けたが撃退した。宇喜多秀家と和議を結ぶため、八島宗八を使者に派遣され和議の成立後安芸国に退去した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

楢崎元兼【ならざきもとかね(1552~1580)】

三村家親家臣。真島郡月田城主。官途は弾正忠。室は三村家親の娘。後に三村元親が毛利輝元が離反すると三村親成、赤木忠房らとともこれに従わず、宇喜多直家勢を城に迎え入れた。1582年、「備中高松城の戦い」では、羽柴秀吉勢に奪われた日幡城を奪回した。

難波利介【なんばりすけ(15??~1579)】

後藤勝基家臣。1579年、「三星城の戦い」では、安藤相馬、柳澤太郎兵衛、後藤久元、小坂田吉詮、下山正武、浦上景行らとともに倉掛城の宇喜多直家の家臣延原景光勢を攻撃した。宇喜多直家の諜略により安藤相馬が内応して城に火をかけ宇喜多直家勢を城内に引き入れた。西の丸を守っていた難波利介と柳澤太郎兵衛は落延びる途中、宇喜多直家勢に追われ討取られた。

沼田太郎左衛門【ぬまたたろうざえもん(15??~15??)】

三浦貞盛家臣。三堂阪城主。

沼本房家【ぬもとふさいえ(15??~1580)】

赤松晴政家臣。久米郡小松城主。通称新右衛門。知勇兼備の勇将。赤松晴政が衰退すると、浦上宗景に仕えた。浦上宗景に謀反を疑われ宇喜多直家に属した。1567年、「斉田城の戦い」では、三村元親の家臣植木秀長が守る斉田城を攻撃した。1570年、「高田城の戦い」では、毛利元就の家臣香川光景らが籠城する高田城を攻落とす戦功を挙げた。1574年、「高田の戦い」では、宇喜多直家に従って三浦貞広勢と戦ったが敗れた。後に毛利輝元と和議を結び、三浦貞広を降伏に追い込んだ。1578年、「播磨上月城の戦い」では、宇喜多直家に従って毛利輝元勢に属して参陣した。宇喜多直家が織田信長勢に属するとそれに従った。1580年、「備中加茂城の戦い」で毛利輝元勢の反撃を受け討死した。攻めの最中に反撃に遭い討死した。沼本家の家督は弟沼本豊国が継いだ。

沼本豊国【ぬもととよくに(15??~1597)】

沼本房家の弟。通称彦右衛門。久米郡弓削の代官職を務めた。兄沼本房家とともに宇喜多直家に内応した。1577年、「天神山城の戦い」では、浦上宗景勢と戦い戦功を挙げた。1580年、「備中加茂城の戦い」で兄沼本房家が討死したため、沼本家の家督を相続した。

延原景光【のべはらかげみつ(15??~15??)】

浦上宗景家臣。英田郡高鉢城主。通称弾正忠。1578年、「天神山城の戦い」で浦上宗景が宇喜多直家に天神山城を追われると宇喜多直家に従った。浦上宗景が天神山城を奪還後も宇喜多直家に属した。1579年、「茶臼山城の戦い」では、雀部勘次郎が守る茶臼山城を攻落とした。「三星城の戦い」では、先陣を務め、後藤勝基を討取る戦功を挙げた。その後、矢田山に隠棲し病没した。

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【は】

垪和為長【はにわためなが(15??~1543)】

久米郡鶴田城主。通称八郎。1524年、鶴田城を築城した。1532年、尼子経久勢が美作国に侵攻すると、原田忠長とともに尼子経久に従い、勢力を拡大した。1543年、「稲荷山城の戦い」で原田忠長が山名氏兼と戦い討死すると、尼子晴久勢は撤退した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

垪和為能【はにはためよし(15??~15??)】

垪和為長の男。通称善十郎。1543年、父垪和為長が討死すると、叔父の杉山為就が鶴田城主となったため、高城を築いて居城とした。1580年、「鶴田城の戦い」では、宇喜多直家勢の攻撃を受けると、一度は撃退したが再度の攻撃により落城した。

長瀬三郎兵衛【はせがわさびろうびょうえ(15??~15??)】

江見久盛家臣。1555年、「林野城の戦い」では、浦上宗景と結んだ後藤勝基勢が林野城を攻撃すると、江見久盛に従って江見久次、水島左京助らとともに後藤勝基勢を撃退した

花房正幸【はなぶさまさよし(1524~1605)】

宇喜多直家家臣。花房正定の男。官途は越後守。通称又七郎。智勇兼備の名将で弓の名手。和歌に堪能で、細川藤孝から古今の伝授を受けた。

花房正成【はなぶさまさなり(1555~1623)】

花房正幸の男。官途は志摩守。通称又七郎。1569年、宇喜多直家が浦上宗景にて謀反を起こすと父花房正幸とともに宇喜多直家に従った。1578年、小西行長を取次役に羽柴秀吉と結び、織田信長勢に属した。1581年、「因幡鳥取城の戦い」では、花房正幸とともに参陣した。1582年、「備中高松城の戦い」では、宇喜多秀家の陣代として戦功を挙げ備中国高松城31,000石を領した。1594年、家老衆の戸川達安が解任され、長船綱直が実権を握ると、宇喜多秀家から遠ざけられた。1599年、「宇喜多家騒動」で宇喜多秀家のもとから退去した。1602年、松平元康に仕え備中国猿掛城5,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、戸川達安とともに池田忠継勢に属して参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、安藤重信勢に属して参陣した。1619年、安芸広島城主福島正則が改易処分に処されると上使を務め、牧野忠成などとともに広島城に赴いた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

花房幸次【はなぶさゆきつぐ(1581~1641)】

花房正成の男。通称弥左衛門。官途は志摩守。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康に従って参陣した。1615年、「大坂夏の陣」では、永井直勝勢に属して参陣した。1623年、父花房正成の病没により花房家の家督を相続した。1625年、検地を行い6,059石を領した。1631年、伊勢山田奉行職に任じられ3,000石を加増された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

花房忠邦【はなぶさただくに(15??~15??)】

花房職忠の男。治部左衛門尉。
 
花房職治【はなぶさのりはる(15??~15??)】

宇喜多直家家臣。花房職忠の次男。五郎左衛門尉。

花房職之【はなぶさもとひで(1549~1617)】

花房職治の男。官途は若狭守。通称助兵衛。別名花房職秀。室は額田三河守の娘。武勇に優れた将。1569年、「備中八浜の戦い」で穂井田元清勢と戦った。1570年、美作国荒神山城を築城して宇喜多直家の美作国経営を支えた。1579年、「三星城の戦い」では、宇喜多直家の意向を受け後藤勝基を攻め滅ぼした。1589年、「小田原の役」では、羽柴秀吉勢に属した宇喜多秀家に従って参陣した。在陣中に羽柴秀吉に下馬するよう咎められたところ、「腰抜けの大将に下馬する必要はない」と言い放った。1595年、長船綱直と対立して宇喜多秀家のもとを退去して佐竹義宣に預けられた。1600年、「関ヶ原の役」では、松平元康勢に属して戦功を挙げ、馬廻衆として8,000石を領した。1614年、「大坂冬の陣」では、松平元康に従って参陣して戦功を挙げた。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
 
花房正定【はなぶさまささだ(15??~15??)】

花房職忠の三男。官途は大学頭。通称六郎兵衛尉、
 
花房職勝【はなぶさのるかつ(15??~15??)】

花房職治の男。通称重兵衛。
 
花房職澄【はなびさのりずみ(15??~15??)】

花房職勝の男。加兵衛。
 
花房勝元【はなぶさかつもと(15??~15??)】

花房職勝の三男。与兵衛。
 
花房職則【はなだのりのり(1580~1620)】

花房職之の男。通称五郎左衛門。1514年、「摂津福島の戦い」で羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。1615年、「大坂夏の陣」で羽柴秀頼勢と戦い戦功を挙げた。1617年、父花房職之の病没により花房家の家督を相続した。1,000石を弟の花房職直に分与して7,220石を領した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。
 
花房幸次【はなぶさゆきつぐ(15??~15??)】

花房正房の男。官途は志摩守。
 
花房助兵衛【はなぶさすけびょうえ(15??~15??)】

花房職之家臣。1578年、「三星城の戦い」で花房職之に従って参陣して後藤勝基勢と戦い戦功を挙げた。

原田忠長【はらだただなが(15??~1543)】

久米郡稲荷山城主。官途は播磨守。1538年、「神楽尾城の戦い」では、尼子経久勢に内応して山名氏兼の神楽尾城を攻落とした。1543年、「稲荷山城の戦い」で山名氏兼勢の攻撃を受け討死した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

原田貞佐【はらださだすけ(15??~1592)】

原田忠長の男。官途は美作守。通称小次郎。1543年、「稲荷山城の戦い」で山名氏兼勢の攻撃を受け落延びたが、宇喜多直家勢の支援を受け奪還した。1581年、「岩屋城の戦い」では、毛利輝元勢と戦い岩屋城を攻落とした。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

原田忠佐【はらだらだすけ(15??~1621)】

原田貞佐の男。通称弥右衛門。1592年、父原田貞佐の死を受けて家督を相続した。1592年、「文禄の役」では渡海したが、家臣の軍律違反により羽柴秀吉に召還されて閉居を命ぜられた。久米郡に隠棲した。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

春名三之丞【はるなさのじょう(15??~15??)】

新免宗貫家臣。県構館主。

平尾与右衛門【ひらおよえもん(15??~15??)】

新免宗貫家臣。

平尾弥十郎【ひらおよじゅうろう(15??~15??)】

新免宗貫家臣。

平田久右衛門【ひらたきゅうえもん(15??~15??)】

新免宗貫家臣。

福島一盛【ふくしまかずもり(15??~1526)】

三浦貞国家臣。勢力を拡大した三浦貞国に従った。

福島満則【ふくしまみつのり(15??~1548)】

福島一盛の男。通称七右衛門。1526年、父福島一盛の病没により福島家の家督を相続した。1548年、「高田城の戦い」で尼子晴久の家臣宇山久兼勢の攻撃を受け討死した。

福島則盛【ふくしまのりもり(15??~15??)】

福島一則の男。通称七左衛門。1565年、「高田城の戦い」で三浦貞勝が滅亡したため、宇喜多直家に仕えた。1592年、「文禄の役」では、江原親次勢に属した。討死した牧源之丞の遺骨を故郷に持ち帰った。羽柴秀吉から感状及び太刀(松尾丸)を拝領した。

福島盛親【ふくしまもりちか(15??~16??)】

福島則盛の男。1600年、「関ヶ原の役」後、宇喜多秀家が改易処分に処されると所領を失った。

福島右近【ふくしまさこん(15??~15??)】

三浦貞盛家臣。飯ノ山城主。

広戸広家【ほろとほろいえ(15??~1533)】

江見久盛家臣。英田郡爪ヶ城主。1533年、「爪ヶ城の戦い」で尼子経久の家臣三好安芸守勢の攻撃を受け討死した。

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【ま】

牧尚春【まきなおはる(15??~15??)】

三浦貞広家臣。真島郡大寺畑城主。官途は兵庫。浦上宗景の家臣岡本氏秀との取次役を務めた。1575年、「真木山城の戦い」では、伊賀久隆勢が守る真木山城を攻落とす戦功を挙げた。1579年、「大寺畑城の戦い」では、宇喜多直家の家臣浜口家職と戦い戦功を挙げた。

牧菅兵衛【まきかんべい(15??~15??)】

牧尚春の男。父牧尚春に従い数々の戦功を挙げた。1565年、「高田城の戦い」で三浦貞勝が滅亡すると、宇喜多直家に従った。1575年、「多田山の戦い」では、宇喜多直家勢に夜襲をかけ撤退させた。1579年、「大寺畑城の戦い」では、宇喜多直家の家臣江原親次、浮田直重が守備したが、吉川元春と草苅重継らの攻撃で落城した。

牧家信【まきいえのぶ(15??~15??)】

三浦貞国家臣。土器尾城主。通称藤左衛門。

牧清冬【まききよふゆ(15??~15??)】

三浦貞広家臣。

水島左京助【みずしまさきょうのすけ(15??~15??)】

江見久盛家臣。1555年、「林野城の戦い」では、浦上宗景と結んだ後藤勝基勢が林野城を攻撃すると、江見久盛に従って江見久次、長瀬三郎兵衛らとともに後藤勝基勢を撃退した。

三浦貞国【みうらさだくに(15??~1532)】

美作国高田城主。三浦貞連の男。官途は駿河守。福島一頼、金田源左衛門、牧兵庫、船津弾正忠等の在地土豪を家臣団に編成した。

三浦貞久【みうらさだひさ(1508~1548)】

三浦貞国の男。官途は下野守。1540年、尼子晴久の美作国侵攻に悩まされた。1544年、宇山久兼の攻撃を受けるが高田城に拠って撃退していた。1547年、再び尼子晴久の攻撃を受けたが撃退した。1548年、三浦貞久が病没すると、その隙をついて尼子晴久に攻撃を受けると、高田城は落城三浦家は没落した。高田城は三村家親が治めた。

三浦貞盛【みうらさだもり(1512~1569)】

三浦貞国の三男。室は福島満則の娘。1565年、甥三浦貞勝が自刃して高田城は三村家親に属することとなった。1566年、三村家親は宇喜多直家と対立して暗殺されたため、この機に乗じて三浦貞盛は三浦旧臣の協力を得て高田城を奪還した。三浦貞盛は三村家及びそれを支援する毛利元就との対抗のため尼子再興軍に協力した。毛利元就は尼子、三浦陣営攻撃のため美作に香川晴継らを派遣、三浦貞盛はこれに抵抗したが、落城討死した。

三浦貞勝【みうらさだかつ(1538~1565)】

三浦貞久の男。官途は遠江守。通称孫九郎。1532年、父三浦貞久が病没したため、叔父大河原貞尚、三浦貞盛らの後見を受けた。1559年、「高田城の戦い」では、尼子晴久の家臣宇山久信勢の攻撃を受け落城、大河内貞尚を頼って落延びた。その後も岩屋城主中村則治の支援を受け尼子晴久勢と戦った。1559年、「高田城の戦い」では、船津弾正忠、牧尚春、金田弘久らを率いて尼子晴久勢を高田城から追い落した。1565年、「高田城の戦い」では、毛利元就の支援を受けた三村家親勢の攻撃を受けた。家臣の金田源左衛門が内応により討死した。内室於福の方(円融院)は、宇喜多直家の内室となった。

三浦貞広【みうらさだひろ(15??~15??)】

三浦貞久の次男。通称才五郎。室は叔父三浦貞盛の娘。1569年、「高田城の戦い」で毛利元就勢の攻撃を受け叔父三浦貞盛が討死すると、宇喜多直家の支援を受け毛利元就勢と戦った。1570年、「高田城の戦い」では、尼子勝久勢の支援を受け高田城を奪還したが、宇喜多直家が毛利輝元と結ぶと劣勢に立たされた。1576年、宇喜多直家の仲介で毛利輝元に降伏した。

三浦忠近【みうらただちか(15??~1545)】

三浦貞盛家臣。真庭郡麓城主。1545年、「麓城の戦い」で尼子晴勢家臣尼子国久勢の攻撃を受け討死した。

村上久成【むらかみひさなり(15??~1579)】

久米郡三宮城主。官途は左衛門尉。通称勘兵衛。毛利元就勢に属した。1579年、「三宮城の戦い」で宇喜多直家勢の攻撃を受け衆寡敵せず討死した。

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【や】

八島宗八【やしまむねはち(15??~15??)】

中村頼宗家臣。1584年、「岩屋城の戦い」後、宇喜多秀家と和議を結ぶため、鞆の足利義昭のもとに派遣された。参考文献:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

柳澤太郎兵衛【やなぎさわたろうびょうえ(15??~15??)】

後藤勝基家臣。1579年、「三星城の戦い」では、安藤相馬、難波利介、後藤久元、小坂田吉詮、下山正武、浦上景行らとともに倉掛城の宇喜多直家の家臣延原景光勢を攻撃した。後藤久元は延原景光と一騎打ちを行ったが討取ることはできなかった。宇喜多直家の諜略により安藤相馬が内応して城に火をかけ宇喜多直家勢を城内に引き入れた。西の丸を守っていた難波利介と柳澤太郎兵衛は落延びる途中、宇喜多直家勢に追われ討取られた。

神楽尾山名氏兼【やまなうじかね(15??~15??)】

久米郡神楽尾城主。官途は右京大夫。1538年、「神楽尾城の戦い」では、尼子経久に内応した原田忠長勢の攻撃を受け一宮村に落延びた。1543年、「稲荷山城の戦い」で原田忠長を討取る戦功を挙げた。

和気因幡守【わきいなばのかみ(15??~15??)】

新免宗貫家臣。

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【資料Ⅰ】

美作国(6郡/186,000石)

真島郡:高田城、篠向城、月田城、大寺畑城、湯山城、麓城、木山寺、久世街。
大庭郡:
苫田郡:院庄城、神楽尾城、鶴山城、矢筈城、葛下城、医王山城、小田草城、中山寺、二宮神社、戸川街。
勝田郡:林野城、三星城、竹山城、奈義城、江見城、井内城、河会寺社、大原街。
英田郡:倉敷城。
久米郡:岩屋城、垪和城、佐良城、稲岡城、倭文城、荒神山城、弓削寺社。

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【資料Ⅱ】

調査中。

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【資料Ⅲ】

美作国【みさくのくに】

北は中国地方の峰々が伯耆国、因幡国との国境を形成し、南は旭川と妙見山を結ぶ線で備前と境を隔ている。東は後山、日名倉山などの山稜を国境として播磨国と接し、西は四十曲峠から大山の裾野に至る線が備中との境となる。731年、備前国北部六郡を分離し美作国として独立した。周囲を山々で囲まれた内陸国だが、その山の存在によって古来温泉が豊富である。中国山地が国土の北部を東西に縦断しているため、大部分は山岳地帯でるが、東の吉井川と西の旭川の二大水系の上流に盆地が存在する。特に吉井川流域に広がる津山盆地は面積を広く、平地の少ないこの国にあっては貴重な穀倉地帯であった。山陽道から分岐して出雲国に出る交通の要路にあり、山陽道と山陰道をつなぐ要衝である。山陽道の諸国との間には峻険な中国山地が連なり、交通には四十曲峠、犬狭峠、人形峠などの峠を経由する必要がある。山陰地方、山陽地方から攻略される危険性があるものの、山陽地方がらの侵入に備える方が重要であった。

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戦国人名辞典は1520~1620年期間の国別戦国武将名辞典です。基本的に五十音順に並んでいます。本家と分家がある場合、混乱を避けるために、分家には頭に城の名前を入れています。

参考文献がある場合は示していますが、歴史小説も含まれるため100%史実上の人物とは限りません。

あくまで個人的な趣味のサイトなので、誤字脱字、多少のミス等は許してください。

武田信玄は武田晴信、上杉謙信は長尾景虎、斎藤道三は長井規秀、豊臣秀吉は羽柴秀吉、徳川家康は松平元康、尼子詮久は尼子晴久に統一しています。

参考文献:『戦国大名家臣団辞典(西国編)』by新人物往来社、『戦国大名系譜人名辞典(西国編)』by新人物往来社、『信長の野望【革新】マニアックス』by株式会社コーエー、『戦国国取りガイド』by新紀元社、『戦国人名辞典』by新人物往来社、『戦国大名家臣団総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『クロニック戦国全史』by講談社、『天下統一Ⅲ(完全攻略ガイド)』by角川書店、『戦国時代人物総覧(別冊歴史読本)』by新人物往来社、『歴史読本(戦国大名家370出自総覧)』by新人物往来社、『戦国大名マニュアル』by新紀元社、『戦国大名家総覧(歴史と旅臨時増刊)』by秋田書店、『戦国武将ガイド』by新紀元社、『(歴史と旅臨時増刊)戦国大名家臣団総覧』by秋田書院、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」。

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