航空部

東京本社の屋上にあるヘリポート
東京本社 屋上にあるヘリポート

 朝日新聞社に航空部が発足したのは1926年(大正15年)。新聞の速報の使命を支え続け、2016年で90年になります。発足当初は民間航空の草分け的存在でもありました。現在はヘリコプター4機と小型ジェット機1機で、空から写真やビデオを撮るなどしています。

 東京本社の屋上には、迅速な取材に欠かせない「ヘリポート」があり、事件、事故の取材時に大活躍しています。


 

甲子園開幕祝賀飛行 (2016年)

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 甲子園開幕を祝って、始球式用のボールを空から投下するイベントは、1923年の第9回大会に始まり、90年を超えた今も続いています。ボールに取り付けた朝日新聞社旗をくるくると巻いて準備し、ヘリは甲子園球場の上空へ。パイロットが風を計算しながら、タイミングをはかり、「よーい、投下」と合図。その瞬間、整備士がヘリのドアから体を乗り出してボールを投げる――。

 今年2016年の第98回大会。約150㍍上空を飛ぶ本社ヘリ「あさどり」から投下したボールは、赤と白の社旗をはためかせながら落下し、歓声が沸き上がる甲子園球場のダイヤモンドに着地しました。ボールが落ちたところは目印近くの1、2塁間。この「ストライク」の一投に、満員のスタンドからはどよめきと大きな拍手が起きました。


 

熊本地震 (2016年)

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 石垣や瓦が崩れ落ちた熊本城、橋が崩落し途切れた国道、全壊した家屋……。2度の震度7を観測した熊本地震の被害は、死者50人、負傷者1,000人以上、避難者はピーク時に18万人を超えました。その実態をいち早くとらえたのは、ヘリやジェット機による空撮取材でした。

 発生は2016年4月14日午後9時26分。その直後の深夜、ヘリ「はつどり」が福岡基地を離陸し、続いて東京・羽田基地をジェット機「あすか」が飛び立ちました。夜明けには大阪・伊丹基地のヘリ「あさどり」も現場へ。羽田基地の「ゆめどり」も応援に駆けつけて連日取材し、総飛行時間は1カ月で100時間近くになりました。


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東日本大震災に寄せて

闇に揺れる懐中電灯――航空部

大津波が直撃した仙台空港周辺。黒煙が上がり、火災も起きていた=3月12日午前7時、本社ヘリコプター「あさどり」から
大津波が直撃した仙台空港周辺。黒煙が上がり、火災も起きていた=3月12日午前7時、本社ヘリコプター「あさどり」から

 東日本大震災直後、航空部はいち早く読者に情報を伝えるため、羽田空港、大阪・伊丹空港、福岡空港の格納庫に配置された社有機(小型ジェット機1機、ヘリコプター3機)を出動させ、空撮や取材にあたった。空から被災地を見た航空部員はかつてない被害の大きさに息をのみ、当時の部員38人は昼夜を問わない運航に追われた。


 

地震発生直後

 3月11日午後2時46分、東京・羽田空港の格納庫は大きく揺れた。部員は航空機や建物の被害確認を急いだ。ヘリコプターを格納庫からエプロンに移動し、離陸の用意を始めた。部員の緊急呼び出しや被災地に近い空港の駐機場確保、写真部との取材調整で事務所の電話回線は全てふさがり、騒然となった。

炎上する宮城県気仙沼市の市街地=3月12日午前1時30分、本社ジェット機「あすか」から
炎上する宮城県気仙沼市の市街地=3月12日午前1時30分、本社ジェット機「あすか」から

 午後3時、ヘリコプター「はやどり」は、ビルから煙の上がる東京のお台場に向かい、まず震度5強の揺れを観測した都内を取材した。

 次に仙台空港を目指した。だが、仙台は津波に襲われたことから福島空港に変更。燃料補給した後、夜になって仙台市方面に。夜間のフライトはそうない。見慣れた街路灯や家族だんらんの明かりは消えていた。

 暗闇に浮かんだのは数多くの懐中電灯の明かり。夜空に向かって振られていた。気付いたヘリコプターの操縦士は救助を求める被災住民を思い、胸が張り裂けそうだった。

 午前0時近くには、宮城県気仙沼市に向け離陸したが、悪天候にはばまれ福島に引き返した。

 ジェット機「あすか」は中部国際空港で訓練飛行中だった。羽田空港は閉鎖中で、伊丹空港に向かい、大阪本社の記者らを乗せ、東北へ向かった。宮城県を取材し、福島空港へ。福島空港も携帯電話は通じず、無料開放された空港ターミナルの公衆電話が唯一の連絡手段で記者も乗員も長い行列に並んだ。

 一度羽田空港に戻り、日付の変わった12日午前0時20分、宮城県気仙沼市の火災取材で離陸。気仙沼市は、あまりに火災の煙がひどく、近づくことすら困難だった。風上側に回り込み、煙の間から炎の上がっている場所を確認した。操縦士は、明かりが無くなった海岸線にポツポツと上がる炎を目の当たりにし、戦慄(せんりつ)を覚えた。羽田に戻ったのは午前4時5分だった。

 

伊丹から、福岡から

高台の住居は残ったが、市街地は大津波に飲み込まれ、跡形もない=3月14日、岩手県陸前高田市。本社ヘリコプター「はつどり」から
高台の住居は残ったが、市街地は大津波に飲み込まれ、跡形もない=3月14日、岩手県陸前高田市。本社ヘリコプター「はつどり」から

 伊丹空港に常駐するヘリコプター「あさどり」、福岡空港の「はつどり」は、地震発生後すぐに、羽田に向けて離陸した。

 「あさどり」は神奈川県の江の島上空で、東京方面に真っ赤な炎と黒煙が上がっているのを見つけた。東京湾アクアライン上空に差し掛かった時、千葉県市原市の石油コンビナートが一段と大きな炎を上げ、爆発した。燃えさかるコンビナートの炎に恐怖を感じながら取材し、午後6時羽田に着いた。

 午後6時半、燃料補給を終えた「あさどり」は、福島空港に向かい、翌日は午前5時55分に離陸し、被災地の取材に入った。

 ビデオ撮影をしていた整備士は市街地が突然消えたかのような被災地の広さに、どこを撮影していいか分からず、ただ呆然(ぼうぜん)とした。

手回しポンプで「はやどり」に給油する機長ら。1日でドラム缶7缶を給油した日もあった=3月26日、宮城県・瀬峰場外着陸場
手回しポンプで「はやどり」に給油する機長ら。1日でドラム缶7缶を給油した日もあった=3月26日、宮城県・瀬峰場外着陸場

 「はつどり」は福岡からカメラマンを乗せ、伊丹でさらに1人を乗せて羽田へ。震災翌日の12日、機体に中性子測定器やガンマ線測定器を載せ、東京電力福島第一原発に向かった。

 12日は、手配したチャーター機も含め計5機で被災地の空撮、記者の輸送、被災総局への物資運搬で計20回飛んだ。

 ヘリコプターの場合、給油のため空港など着陸地の確保が欠かせない。今回、着陸できる空港や場外離着陸場を探すのに苦労した。電話が通じず、関係機関や業者との連絡が取れないためだ。やっと15日に被災地の中心にある宮城県の瀬峰飛行場を拠点にできた。2日後、燃料が届き、雪の積もった原っぱでドラム缶(200リットル入り)をヘリコプターまで転がし、手回しポンプで補給し、運航を繰り返した。

 

動画も配信、関心呼ぶ

 飛行時間は、地震発生からわずか1週間で110時間を超えた。航空部が震災直後から被災地を撮り続けた空撮動画は12時間以上に達した。アサヒコムやYou Tubeに掲載した動画は合計52本で、再生は約1月で550万回近くに。


 朝日新聞は現在、ジェット機1機、ヘリコプター4機を所有し、空から国内で起きた災害や事件・事故を中心に取材しています。そのほかにも温暖化による地球自然の異変を調査するため、ジェット機でヒマラヤやアラスカ、南太平洋の島々などにも飛びました。

 航空部の歴史は古く、1923年(大正12年)には、東京~大阪間に定期航空を開設。2年後に社機でヨーロッパを訪問するなど航空界の草分けです。その伝統を生かしつつ、新たな航空取材に挑戦したいと思います。


朝日新聞社 航空部 l 先輩からのメッセージ

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